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この鍵を使うのはこれで最後かも知れない。そう思うとなかなか鍵穴に差し込む事が出来ない。玄関前で何時ものように出来なくて戸惑う私。
もしかしたらここに置いてある荷物は持ち出さなくてもいんじゃないかな。私がこのまま消えてしまえば良いのかも知れない。そうすれば鍵を開けなくてもいい。そんな子供みたいな事を考えてみる。
こんなにこのマンションに入りたくないと思ったのは初めて。私の中で、荷物を片付けたら終わってしまうと頭のどこかで思っていたのだろう。
そして動きがスローモーションの様に見える。鍵を開ける音が耳の奥で響く。ノブを傾けて扉を開ける。手に持った鍵同士が当たって高い音を鳴らす。その全ての音が反響し合って、私の心のを潰しに掛かる。
いつもの部屋がセピア色に見えた。目が霞み唇が震える。そこは悲しさだけが残る部屋になっていた。
「楽しかったはずなのに」
ボソリと出た言葉。きっとこれが私の本心だったのだろう。もうあの頃には戻れない。
私は仕事を選んだ訳じゃない。宗祐を捨てたわけでもない。このまま続くと思っていた幸せが、何かの圧力で押しつぶされたのは確かだった。そして、その圧力に反抗できないのが大人の世界。
まだ私が十代のように若くてアグレッシブだったのなら、駆け落ちとでも行っていただろう。でも、そうはいかないのが組織と言う仕組み。
色々な事を考えながら部屋を眺めているうちに、取りあえず荷物をまとめようと体が動き出した。
大きめの紙袋を開いて、その中に私物を放り込んでいく。髪留め、ハンカチ、カーディガン。紙袋の中にはそれくらいの物しか入っていない。まとめてみると、こんなに荷物が無かったのかと驚く。
それもそのはず。この部屋には泊まったことが無かった。あの時の一度きりだけで、遅くなっても毎回帰宅していた。だから一晩中抱き合ったとか、愛を確かめ合ったなどと語れる話は一つも無い。だからこんなにあっさりと出ていく事が出来るのか、と自分が寂しいと言う気持にフタをする。
一通り回ってある程度の私物は回収した。
「荷物、少ない」
案外、紙袋が軽くて笑ってしまった。
寂しいの裏返しで無理に笑ったのが切なすぎた。
洗面台に歯ブラシがあったことを思いだす。スタンドに刺さった色違いの歯ブラシは、お互い背を向けていた。私は無造作に掴むと紙袋に放り込む。
鏡に映った自分の姿を見て哀れになった。
「この髪もいらないかな」
一掴み髪を握ると、近くにあった宗祐のハサミでザクザクと切った。手に握られた髪は三十センチを超えている。それを洗面台に置いた。
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