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彼女は、ベッドの下に布団を敷いて眠った。だが翌朝、彼はいなくなっていた。
彼女はキャミソール姿で家じゅうを探し回ったが、彼の姿はない。冷えきった寝室に戻り、ベッドに座り込んだ。ベッドの上掛けははがされ、彼の寝ていたその位置に、見覚えのないコートがよじれたような格好で横たわっていた。彼女は、コートをじっと見た。
一見して、女性用のコートだとわかった。毛足の長いウールの生地は深みのあるグレーで、日の当たり方によってラベンダーにも、モスグリーンにも変化して見える。手に取って広げると、はっとするような深紅の、光沢のある裏地があらわれた。ボタンはなく、キモノのように前を合わせ、共布のリボンベルトでウエストを絞るラップスタイルのコートだった。
彼女は美しいコートをためつすがめつした後、立ち上がり羽織ってみた。両袖が彼女の腕をするりと迎え入れ、つやつやした裏地がむき出しの肩を包み込む。前を合わせると、立てた襟が、うなじから胸元の肌にそっと触れた。結んだリボンベルトは生地の摩擦でキュッと音を立て、回された腕のように彼女の腰骨の上に落ち着いた。
彼女は裸足で玄関に出て、そこに置いた姿見を覗いた。
鏡の中に、知らない女が映っていた。化粧気のない青ざめた顔や、起き抜けのもつれた髪にもかかわらず、ギリシャ彫刻のように神々しい女だった。彼女は、コートの細かい繊維が光を散乱させ、彼女を輝かせていることに気づいた。コートが彼女の全身を包み込んでいるために、彼女は美しくなったのである。
「じゃあこれが、あなたの愛なのね」
彼女は呆然とつぶやいた。
その冬、彼女はグレーのコートを着て街を飛び回った。これまでてこずっていた商談を次々にまとめ上げ、込み入った仕事にも率先して手を挙げる。コートを着込んで意気揚々と出て行くと、常に何かしらの成果を手にして戻ってきた。
彼女の頬には赤みが差し、瞳はキラキラと輝くようになった。そんな彼女に何人かの男性が想いを寄せたが、彼女は誰も近づけなかった。女性たちは彼女の変化を探ろうとしたが、結局は恋愛がうまく行っているのだと結論付けた。彼女は誰に対しても謎めいた笑みを浮かべるだけだった。家に帰ると、コートにブラシをかけてほこりを落としたり、蒸気を当ててしわを取ったりした。
彼女の成功は素晴らしかった。そして2月も半ばになったころ、彼女は辞表を出した。
「もっと寒いところに行くつもりなんです」
彼女は言った。
「できれば、このコートをずっと着ていられるような場所に行こうと思っているんです。オイミャコンとか」
大勢の人が彼女を引き留めたが、彼女の気を変えることはできなかった。コートを羽織った彼女は、小さなスーツケース一つを手に、アパートを出た。
空港行きの電車は、十分すぎるほど暖められていた。彼女は窓際の席を取ると、コートを脱いで両腕に抱えた。
車窓の外には、春がもうそこまで来ている。パステルカラーの人影がちらつく街を彼女は眺めた。
「ずっと一緒にいるわ。今ならわかるでしょう。私の愛が」
彼女は愛し気にコートの毛並みを撫でた。
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