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bcf5f278-b8ab-45bb-b9a7-712041f3d727    コンクリートが砕け落ちてむきだしの太い鉄骨がひん曲がっているが、ぶ厚い壁からえぐるように突きだすさまがくっきりと見えるからこそ、その逞しい骨格のまったき頑強さにつかのま安息を覚えるのだった。それは僕たちの両肩へと圧しかかる、世界が傾れくる土砂の息詰まる重みからの保護を意味した。崩れかけてなおも壁にぶら下がる、非常燈の点るかすかな明るみが、僕たち兄妹のゆいいつ安らげる場所だったのだ。  僕たちはドブ臭く濡れる身をよせあった。その信頼するに足る頑丈な金属の流線の、淡く漏水で濡れ光る冷たさをじっと見つめ、僕はしずくの滴る音に耳を澄ましながら、ヒナコの震えてやまない(はだ)を手のひらでこすっては、深く沈みこもうとする暖をふたたび燈すべく努めた。四枚めくれるヒナコの爪のうち二枚がすでに剥がれていた。ふれるとわかる。本来あるべき爪の場所が柔らかな肉の弾力を呈している。しかしヒナコはその疼くはずの痛感をまるで訴えず、僕をことさら不安にする。  ヒナコの落ち窪んだ両目はとろんと黒ずんで艶がなかった。みずからの意思の閃きが消えていたが、もうすでに息たえた仔猫の屍骸だけは強く掴んで離さずに――それは来る途中の公園で出会った愛らしい茶トラの捨て猫だった――我が仔のように胸の奥へとしっかと掻き懐いていた。紫色のくちびるの震えの、それじたいで律動しはじめる絶え間ない励起に邪魔されながら、ふたことめには……お母さん……そう呟くのだった。  母さんがどうなったのか、僕たちに知るよしはなかった。もとより地上がどうなっているのかすら僕たちが想像する埒外にあった。僕にわかるのは、僕たちが居あわす地中へと穿たれる空洞が、不気味に沈黙するなにかとときおり共鳴していることだった。それはと太く長く唸り、僕の理性を護るはずの頭蓋といつからか響きあっていた。それは僕が両の耳をふさごうがまったく消えず、それどころか意識するほどに渇いた綿のごき僕の脳味噌じゅうに染みこんできた。僕はやがてその共鳴音が僕の内部から鳴るのか、遠く暗闇の外部で響くのか、区別することができなくなった。外部とか内部とか考えることじたいが消耗だった。その理解を超える状況すべてが僕であると考えるほかなかった。  靴底を引き摺るヒナコの萎えたうでを、僕は無言で引きよせて(うずたか)い瓦礫の山をのぼってはくだった。ときおりの震動で彎曲する天井が軋んでは砂屑がぱらぱらと降った。鼠の死骸を軟らかく踏みながら、僕たちは排水路の流れに沿ってくだった。叉路にぶつかるたび、無間の黒闇のずっと奥へと集中し、僕はまぶたをつむって感覚の矢を放った。黒雲の垂れこめる廃墟の風景に延延と燃え広がるであろう長大な炎のうねり――灼熱する噴煙と渦捲く烈風――おそらくはいまだ展開するであろう白昼夢から確実に逃れるための河川、僕たちは避難してきた経路とはべつの出口を探していた。  うごく人間たちと出くわすのを祈りながらも、ヒナコが壊れるそのまえに逃げ延びなければならない――そうみずからに鞭うって、張りぼてのような気丈さを持続させるべく試みた。暗がりで焼け転がる人型の焦げ跡をおそるおそる跨いでゆくのはもうたくさんだった。それはたしかな現実であったが、ありうべき事実としてヒナコには酷過ぎた。年頃の女の子が学ぶべきは恋する切なさ苦しさなのだ。ヒナコの瞳に無慚な屍骸をもう映したくなかった。ひとたび見たら、ヒナコはみずから永遠に光を遮ざしかねなかった。なぜかしらそんな確信を僕は擁き、弛緩するヒナコのうでをぐいッと引いて黒闇の繁る籔へと分け入った。  地上の炎に蓋されて鉄筋の水路が蒸して熱るのか、それとも飽和寸前まで機能する体の方が内から火照っているのか、僕は僕の規則ただしい呼吸音をずっと遠くから聞きながら、胸や背から這い伝う汗の滴をいくつも感じていた。僕はシャツを脱ぎ――それは乾かず濡れてはいたが――震えるヒナコへ被せて着せた。ヒナコは大人しく従順だが、しかし仔猫の屍骸だけはますますの力でもって強く抱き締めた。そのせいで、屍骸からは粘着する汁といっしょに異臭まで滲み漏れた。暑さで腐蝕が進んでいるのだった。その腐爛した濁り汁はヒナコの衣服へと着実に染み込み、移動する僕たちに絶えず付き纏う悪霊のごとき醜怪な存在となって僕の嗅覚を苛んだ。  腹が空かず眠くもなかった。陽が沈んだのか、それともまた昇っているのか、時の経過が無限に平滑して感じられる僕は、ただ膝下からふくらはぎにかけての鉛玉を附したような気だるさから知らぬまに歩をゆるめているのだった。もはや不安も怖れも空気となって僕の肺臓全身を満たしていた。しかしひとたび満ちてしまえば、それはいちだん高みへと僕を押し上げるかのように思えた。怖れも不安も貪り喰う僕の神経細胞は、かつてない清新な鋭敏さで漲っていた。あのと唸る音の延長に、黒闇の奥で蠢く不気味な活動、ぱらぱらと散る砂塵の雨、それらがあの黒いまんまるの音符のごとく感じることだってできた。それだから、この状況ぜんぶが僕なのだという哀しむべき確信が、よりいっそう深まってくるのだった。  虚ろなヒナコが猫の屍骸を抱いたまま僕へと身をすりよせると、鼻まで曲がる異臭にまじって、しな垂れるヒナコの膚とか髪の毛が甘ったるく香った。しかしその顔は細かくぶれていた。はじめ抑制した、燻るような震動だったが、やがて轟音が埃くさい空気を劈き、鼓膜をびりびり震わせる波動となって僕たちを襲ってきた。水路全体が軋み、埃が乱れ舞って視界が曇った。小波だって飛沫をあげた。僕はヒナコを懐へ抱きよせるなり盾となって背で覆った。細かな石片が降り乱れて僕を打つから、このまま傾れうつ重量のコンクリに圧し潰されて人知れず死んでしまうかもしれない――そう思えてしまうのだった。地中深く黒闇の只中で、僕たちは僕たち自身の暗闇へと埋もれてゆくのだ。  僕はヒナコと母さんと家族三人でひっそり暮らしてゆければじゅうぶんだった。それこそが究極的にのぞむところだった。もちろん恋してみたかった。まだ見ぬだれかを死ぬほど好きになってみたかった。たくさんのひとに出会いたかった。裏切られても信じたかった。世界の不思議を話したかったし、胸に蔵する想いの丈をあますことなく伝えたかった。喧嘩したかった。笑いあいたかった。しかしそれらの願いも僕といっしょに瓦礫へうずもれもうじき消える……。充たされなかった僕の想いは、この暗闇地中の奥深くの時空をゆがめて彷徨うだろうか。ふと一瞬そう思うが、こたえがでるはずもなかった。それは未来のどこかに転がっているからだ。  なおも天井が唸りつづけていた。無数の細かな石つぶてが降りつけていた。容赦なく背なかを打ちつけるこの痛み。これがいったいなんの赦しに繋がるというのだろう。僕にはわからなかった。僕にわかることなんてなにひとつないように思えた。きっと理解しようと努めるから混乱してしまうにちがい、そう思った。しかし理解をみずから拒むわけにもゆかないのも真正だった。僕がこの状況を突っぱねてしまったら、いったいヒナコはどうなってしまうだろう。  ――大丈夫? ヒナコ? 呼びかけてみる。  ヒナコも細かく震えている。そしてかすかに……お母さん……そう呟いている。  崩落はすぐに鎮まった。見ればヒナコの瞳を黒闇が占めていた。僕も振り返る。数メートル先で非常燈が途切れている。上等なステーキよりも厚みある岩盤が、幾重にも積み重なって燈かりを封じている。そこに開けるのは真正の黒闇だった。あまりの黒さに奥行まで感じられないから、どこぞのべつの時空へとすうっと繋がり結びついているようにも思えてくる。とにかくじっと見つめていると、ふっと吸いこまれそうになるくらい底が知れない。僕は身震いした。  ――見ちゃ駄目だ、怖くて進めなくなる。  ヒナコの顔をそむけて言うが、怖いのは僕でもあった。見たくないのは僕だったのだ。僕も顔を背ける――そのときだった。  かすかな呟きが聞えた。ひとの声のようだった。  ――ヒナコ? かるく肩を揺すぶり訊くが、その瞳孔は開いている。ヒナコではない。  ――だれかいるの? 震える僕の掠れた声が、黒闇のずっと奥へむかって固く反響する。  仲間?  助け?  期待を孕んだ僕の鼓動がにわかに強く打ちだしていた。いくら待っても返事はなかったが、その代わり、その呟きはたしかな輪郭を帯びてきていた。たよりないあいまいな意識の燈かりでもって暗がりを照らしてゆくと、崩れた岩盤のずっと奥のほうから聞えてくるのがわかった。ヒナコのうでを撫でさすって僕は立ちあがる。腰を低く落として、瓦礫をなんども踏みたしかめて、そうして指を開いて平衡をとって、まだ煙る岩盤の黒闇へと差し足で忍びよる。  ――そこにだれかいるの? 黒闇の奥へむかって呼びかける。  と、足もとで岩盤がにわかに崩れた。僕はびくんと打ち震え、思わずうめいて跳び退いたが、踵を躓きバランスを失った。尻もちをつき、勢い余ってダイバーみたいに縁からドブへと落下した。生臭くぬめるへどろが鼻とくちから浸入した。噎せ返しては吐き戻したが無駄だった。おろしたての渇いた筆のように、僕の全身細胞はとろみある黒い汚水をたっぷりと含みこんでいた。  くちに染みこむ気色わるさはいくら唾棄しても消えないし、膚を拭うていどでは滲みでる臭みもとれない。ほうほうの態で這いあがって、僕はどっかと尻を落とした。なにか鋭利な突起物がちくりと臀部に刺さったが、不思議と痛みは気にならなかった。臭うTシャツを脱ぎ捨てて、もういちどその見えないだれかへむかって呼びかけながら、僕はしゃにむになって四つん這いで近づいた。そうして接近して唖然とした。はじめよくわからなかった。望みの綱の声の主──。彼は堆く積みあがる岩盤に埋もれていたのだった。  亜熱帯の植物のように太いうでが肘からずんぐり突きだしていた。かすかに指がうごくから、それが手であると僕は認識したのかもしれなかった。彼は呟くのではなくうめいているのだった。瞥見するに、そのコンクリの塊を除去するのは容易ならざる作業だった。暗過ぎる水路、そして、ヒナコだけでなく僕まで爪が捲れていたという事実が、事態の困難さに拍車をかけた。たかが一センチ角の爪三枚の不足が、これほどまでに身体の運動を制限するとは夢にも思わなかった。指の中ほどから透明化したように力が入らないから、大きな岩盤を持ち運ぶために、慎重過ぎるほどの注意を払って、有りっ丈の力を掘り起こして親指付根の筋肉のふくらみへと集中させなければならなかった。  我を忘れた猿のように僕は直向きに岩を運んだが、時さほど置かずしてすぐにその熱狂も冷めた。ずんぐり突きだすそのうでは、肩の付根からもがれてあったのだ。うでの周囲の岩をいくら退かしても彼の胴体が見えてこず、手首を掴むと脈もなく、訝ってうでをぐいと引いたら、地中へ根を張る根菜のような手応えが伝わってきた。なおも力を篭めるなり充実する重みをもって抜けたのだった。僕は釣りあげたうでを掴んだまま、しばし呆然とたたずんだ。じぶんがなにをしているのかよくわからなかった。うでの指はたしかにうごいていた。そして声はうめいていた、はずだった。僕はそれを確認したからこそ彼の――といっても一本のうでだったが――すみやかなる救出を試みたのだった。
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