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 ヒナコは非常燈下でぼんやり黒闇を眺めていた。もしかしたら――、不安の靄がみるみる広がり、僕は岩山から駆けおりるが、ふたたびの震動が小走る僕を揺るがし倒す。持っていたうでが転がり落ちて、僕はどうしてかそれを拾って抱え、覚束なく這うようにヒナコへ辿り着きしがみつく。大丈夫――ヒナコは生きている。指を充てると呼気が鼻から洩れてくる。死体はまちがっても息をつかない。死に腐るのはヒナコが胸に擁く猫のほうだった。肩を烈しく揺さぶって、僕は轟音に負けぬよう大声でヒナコを呼んで立ちあがる。その間も天井一面のコンクリが不気味なくらい柔らかく波打っている。崩落する予兆だろう。逃げろとだれかが叫んでいる。  果して僕たちが退去する後背で間髪おかず落石した。落下の衝撃からその三畳ぶんのコンクリはよく撓んだようで、砂塵の舞い昇るその向こう、肉厚の鉄筋が砕ける隙間からは赤錆びる骨格の無残さが晒されていた。僕はヒナコの手をぐいぐい引いて振り返らせなかった。黒闇の只中へと踏み入った。意想外の暗黒で視野の平衡を保てぬから、あたかも一本の綱を歩き渡って左右の虚空へと底なしに落ちそうになる気配に強く抗いながらも、僕はあえて目をつむり、遠近の些細な音すら逃さない聴覚、足の裏に来る瓦礫の触覚、鼻先で蒸れる粉塵汚水の嗅覚など、全感覚に去来する黒闇の呼吸を閲しながら前進した。  手を離したが最後、ヒナコが暗闇に失われ、僕はひとり奈落の底へと落ちてゆくような気がしてならなかった。それだから、猛禽のように強ばる僕の指は、鋼鉄製の手錠よろしく堅固にヒナコを捉えて掴んだ。その細い手首が強く小刻みに脈を打つ感触、そして抱いた胸の中でよく撓るうでの重み、それらは僕を現実に繋ぎとめる重要な要素だった。僕自身が存在しうるための鼓動や重みでもあった。時間が平滑するからどれくらい歩いたのかわからなかった。距離にすると百メートルに満たないかもしれないが、僕はそのわずかな距離ですら、無限とも思える意識を引き摺っていた。  恐かった。じぶんがなにを恐れているのかよくわからないのが恐かった。  僕はヒナコとうで、手首ふたつを千切れるくらい強くきつく握り締めるが、しかし僕は、僕の足もとで濡れる地面が淡く滲んでいるさまを見て我に返るのだった。小波が黒く(うごめ)く水路の向こう側の壁、その中ほどに丸く巨きく穿たれる穴のいりぐち横で、非常燈がしきりに明滅を繰り返していた。電気のびりりと弾けるその明滅は、暗闇に順応する僕の目には眩し過ぎるくらいだった。そして掘穿された穴の外延を照りつけるに充分過ぎる光量を放っていた。スライド映写でもするように、巨大な鯔のくちのような鈍重さが不規則に暗転しては浮かび上がっていた。  僕たちの歩く通路はしだいに先細って行き止まりになっていた。僕たちはドブに入り、対岸へと渡らなければならなかったが、先ほどより糞尿が濃く臭っていた。鼠の腐爛して白んだ屍骸がいくつも漂っていた。僕はしゃがみこんで縁から足を投げだしてようすを探った。幸い排水溝は浅かった。水面は僕の股下ほど、ヒナコの臍のあたりを流れた。僕はヒナコの脇下を抱えこみ、まだ生生しい傷痕が汚水で濡れぬよう細心の注意を配り、うでの付根をもって手のひらのほうでへどろの泡やら腐爛物やらを押し退けて進んだ。臀部で痛みが疼いていたが、僕がそれを気に留めている余裕はなかった。  かつてなくひどい悪臭だった。ヒナコのすがたは見るに忍びなかった。僕はまるで気づかなかったが、どこかの天井から崩れ落ちた鉄骨が流れに流され沈んだらしく、それに引っ掛かったらしい猫の屍骸が下腹部から千切れていた。もはや後ろ足も尻尾もなかった。その代わり胃袋やら腸管やらが上体の破れめから長く軟らかく垂れ下がっていた。ヒナコがうごくたび、それら臓物が揺らめいて艶のある滑らかな光沢を放っていた。僕はなんども吐きながら、ヒナコをうしろ向きにして衣服を脱がし、その煮凝りのような汁気をぜんぶ絞りだした。壁へ叩きつけて押しつけて、繊維から滲みだすゼラチン質のへどろを掻き拭った。そしておなじ作業をじぶんにも課した。下着は体を拭ってドブに捨てた。  ――その子はいくつなんだ?  唐突だった。若く太い声だった。穴から男が覗いていた。僕は我が目を疑ったが、確実に、穴のいりぐちに男が潜んでいた。こちらを窺っていた。とろんとした眼差しの冷たさが印象に残る男だった。男は僕たちが渡河する一部始終を観察していたようだった。  ――そのドブは糞も流れてくる。どっかで排水管が破れたんだ。よく拭いてやれ。  男が縁にうでをかけて穴から飛び降りて来る気配を見せた。僕はヒナコの手をとって駆けだした。服もうでも置き去りだが、やむを得なかった。ヒナコはうっすら繁る股座から白く張りのある太腿へと猫の腸管を絡みつかせ走っていた。振り返ると、男が猛烈な速度で接近していた。  ――なんで逃げるッ。息を荒げて男が叫ぶ。  こたえるわけがない。僕はひた走る。ヒナコを引く。息が弾む。靴に浸るドブの水がたぷたぷ鳴るが止まってはならない。  ――そっちぁ危険だッ。崩れて下敷んなるぞッ。男はなおも追い縋る。  振り切るべく加速すると、ヒナコが(つまず)きつんのめり、つかのま僕に引き摺られた。慌てて屈みこんで見ると、ヒナコの膝は摺り切れて血が滲んでいた。  ――危険だっつってんだろッ。どうして逃げんだッ。  走るのをやめて男がゆっくり迫ってきた。図体が大きい。上腕から肩へ流れる筋肉がしなやかに盛り上がり躍動している。はちきれんばかりにランニングシャツが隆起している。僕は裸体のヒナコを背に隠し護ったが、じぶんはというと、むきだしの陰茎も陰嚢もすっかり縮みあがっていた。じぶんの鼓動の高鳴りがどこか遠くで響いているのがわかった。それが地中のどこで鳴ろうが僕の鼓動である事実に変わりなかった。砂塵は降ってなかったから、細かな震動が来ているのではなく僕自身が震えているのだったが、それだって僕にとってはどちらでもよかった。  ――どのみち向こうからは外に出られん。でぐち附近が瓦礫で塞がってるんだ。  男は顎をしゃくり潜んでいた穴のほうを指さした。  ――あそこが残されたのぞみだ。どこへ繋がってるのかわからねえがな。  僕がしずかにヒナコを探り逃げる準備を整えると、男は振り向くなり水路の先へと視線を転じた。  ――死にてえなら行け。もういい。止めやしねえ。  男は引き返すと僕たちの衣服をとって持ってきた。そうして僕たちの前で仁王立ち、服といっしょになにかを抛り投げてよこした。それは缶筒であるらしく、落ちたが響きが硬すぎてコンクリの通路へは染み入れず、幾重にも弾かれて大袈裟に反響していた。なおも背負うリュックを肩から外し、男は中からボトルを一本とりだした。それも僕たちへ抛り投げてよこした。  ――地下(ここ)ではじめて逢った人間だからな。餞別だよ。とっときな。  受けとったボトルは水だった。缶筒の中味はクラッカーだった。見るとあの歯ざわりも塩味も甦ってきて唾液で溢れ返る口腔が酸っぱくなった。猛烈な空腹感が襲ってきた。僕はヒナコのくちびるにボトルを充てて水を含ませた。はじめヒナコは舐めていたが、やがてそれを水であると認識したらしく喉を鳴らして飲んだ。クラッカーもヒナコに与え、僕もむさぼり喰った。嚥下すると食道から胃袋へ辿る道筋が絵に画いたよりくっきり浮かび上がるのだった。  ――お前らも炎に捲かれて降りてきたんだろ。お前もその子も髪が焦げるていどでよかった。ここらに燃え転がってる連中は、たぶん地下鉄車輛と構内の火災と煙りで殺られたんだ。爆発で噴き飛ばされて、そうして決壊したドブに揺られて下ってきたんだろう。  男はドブの縁に立ち、股間から陰茎を摘みだすと空のボトルを先端にあてがって放尿した。男がなにをしたいのか、僕はその意図を汲みかねた。  ――水だよ。ドブのへどろ飲むよりかましだろ。じぶんの小便だし。  黄濁して泡立った液体がボトル内部に満ちていた。男は小刻みに陰茎を振るって仕舞いこむと、僕のほうにボトルを見せ、なんら躊躇せずに傾けて勢いよくそれを飲んだ。喉がそうとうに渇いていたらしく、風呂あがりのビールでも飲むみたいにひと息のうちに空にすると、乱れる呼吸を整えるために深く大きく溜息をついた。そして僕を凝視した。  ――考えてみろ。手もとの水は有限だ。そして水道がねえ。  男はひと心地ついたように、くちもとを拭ってうっとりとした。  ――すぐに外へ出られるとは限らんし、仮に出られたとしても速やかに救助されるとも限らねえ。まだ炎が吹き荒れてるかもしれねえしな。  ――あの……  訊きたいことがたくさんあるのに、うまくことばにできないじぶんがもどかしい。男はわかったというふうに頷き、僕たちの衣服を無愛想に顎でしゃくり、ボトルをリュックに戻して背負った。そうして明滅する非常燈下へしゃがみこみ、僕がヒナコに服を着せるさまを、地底に潜む陰獣のようにじっと見つめていた。  ――お前が訊きてえことはわかるが、さあな、俺もわからねえ。どっかの国から核爆弾とんできたのかもしんねえし、あの富士山がもくもく煙ふいてんのかもしれねえな。あるいはひょっとしたら隕石がおっこちてきたのかもしんねえし、まあ、そうやって考えだすときりがねえ。いずれにしてもよ、俺たちがいつ死んでもおかしくねえ状況に陥ってるってのは確かだろうな。ま、兄ちゃんのほうがそういうのに詳しいんだろうがよ。  ねむたげな男の目がヒナコを捕えて離さなかった。ふくらみだした胸のあたりや火照ってうっすら赤らんだ太腿を、それこそ舐めるように這いまわっていた。僕が塞ぐようにして目線を遮って睨みつけると、男は肩を竦めてかぶりを振り、ドブに揺らめく黒い小波のほうを眺めた。  ――そんなんなっちまって、まったく、不憫だな。歳は十二、三か。よっぽど怖かったんだろうな、猫の屍骸、そんなん腐るまで抱き締めてな。  それっきり男は振り向かなかった。猫の屍骸を手放さないヒナコに難儀して服を着せ終えると、僕はじぶんもズボンを穿いた。ズボンは湿っているから寸法がきつく感じてもおかしくないのに、チャックもボタンもちゃんと嵌まり、腹の隙間にうでが入るほど緩くなっていた。もちろんズボンが弛んだのではなくて僕が痩せて細くなったのだった。  僕たちは男から距離をおいて坐ったが、ヒナコの靴底に絡みついていたらしい猫の臓物の延長が、しゃがみこむさい踏みつけられて瑞瑞しく音を弾かせて潰れた。ヒナコも男もまるで気に止めなかった。傍らから男はあのうでをとり、僕に渡してよこした。  ――交換してやったらどうだ。いくらなんでも、その屍骸じゃあんまりだ。  うでを受けとって替えようとしたが、やはりヒナコは猫の屍骸をがっちりと掴んで離さなかった。強く締めるから腐爛した汁が滲みだしてくるし、上体に蔵まる臓物までが圧しだされて飛びだしてきた。破れた皮目から肋骨がのぞき、抱えこむヒナコがとても愛しそうにするから、僕のたびたびに渡る意思も砕かれて、その猫は死んでなおも猫としてありつづけるのだった。  僕はうでをかたわらへ置き、ほとんどボロ雑巾へと変わり果てた猫のすがたを眺めていた。それは正視できぬくらい無残な光景だった。どうしてヒナコがそれを抱いているのか、それを抱いているヒナコをどうしてこの僕がいま見つめているのか、考えはじめるなりあたまがひどく混乱して、それがもう一週間も二週間も前の出来事であるようにも思えてくるのだった。そしてそうであるがゆえに、先刻あれほど恐れたこの男の出現が、こんどは只ならぬ安息となっていることに僕は気づくのだった。男はうまそうに禁煙タバコを吸っていた。遠い過去のように安らぐその光景が、とつぜんに既視感の強い現実となって立ち現れた。  ――猫がえらくお気に入りだな。うでの無理強いはしないほうがいいな。  微笑をうかべていると思ったが、相変わらず男の面容には冷淡さが貼りついていた。しかし話せる相手がいるそれだけで僕は満足だった。猫の屍骸はもちろんヒナコへすらも僕の発することばが届いてないかと思えたからだ。男に想いを伝えることで、その想いが過去に現前した確かな出来事なのだ思えてくる。男と話す行為は、その現実であった出来事を客観化する作業でもあった。だから僕はその瞬間について話していたのかもしれなかった。  ――母さんの職場からの帰り、公園で逢ったんです。捨て猫なんです。遊んでるうちに情が移ってしまったみたいで、それでヒナコが――ヒナコは僕の妹なんです――泣いて離さなくて、うちでは犬を飼ってたから、猫も一匹くらいなら母さんも許してくれると思って、それでタオルに包んでバックに入れて、びくびくしながら地下鉄の乗場へ降りて行ったんです。臆病な僕の気持ちも知らずに、ヒナコは満面の笑みでした。鼻歌まで唄ってました。ヒナコはスキップを踏みながら階段を下りていて、そうしたら、どうしてかとつぜん僕もヒナコも吹き飛んでいて、大きな滝でも打つような感じで天井も壁も轟轟うなって崩れていて、もうそれからあとはなにがなんだかさっぱりわけがわからなくて、煙りが立ちこめてなんにも見えなくて、怖くて恐ろしくて、いくら叫んでもじぶんの声すら聞こえなくて、それで僕たちは……  ――もういいよ、兄ちゃん。もうだいじょうぶだ、心配すんな。  男は立ちあがり、僕のほうへ歩みよった。そうして肩に手のひらを充ててかるく叩くと、僕の足下からうでを拾い、リュックを下ろして上部へ横たえて蓋を戻して落ちないように留めた。男はそのうでを眺めていた。落ち着いてじっくり観察すると、腕時計のくすんだ皮のベルトが手首へ深く喰いこんでいるのがわかった。時計の盤面は罅割れていて、ときおりキラリと光を反して、その頼りなげな分針は十二時四〇分附近で行きつ戻りつを永遠に繰り返していた。奇しくも十二時半前後は僕たちが地下構内へ降りて行ったころだった。  ――これはわりい夢なんだ。だれのせいでもねえ。壊れたら戻らねえし、死んじまったら生き返らねえ。だれのせいでもねえ。これはわりい夢なんだ。だから兄ちゃん、おめえはじぶんの親が無事なのを祈るんだ。その子のぶんもな。俺が言ってる意味、わかるよな?  意味── この出来事の意味──  僕にはなんのことかわからなかった。これが夢であるはずはなかった。夢は夢から醒めてはじめてそれが夢だったとわかるのだから醒めなければ夢ではないのだし、そんな論理の成り立ちよりも、先ほど来ずっと僕たちを見下ろしている壁に穿つ暗黒の空洞が、夢であることを否定するに足る確実なる物証だった。僕たちはもうどこへも引き帰せずに、そしておなじ場所へは長く留まれずに、ただひたすらその黒闇の中を手探りで進むしかないのだった。そしてそれがどこへ続いているのかもわからないのだ。それは人生の比喩なんていうなまぬるいものではなかった。僕たちに眼前するのは地獄そのものではないかと思った。危険であろうがなかろうが、とにかく進むしか残された方法はなかった。
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