ヤメラレナイヤマイ

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 「藤森君!またミスしてるよ!」  課長の怒声がオフィスに鳴り響く。私はすぐに課長のデスクまで駆け寄ると、突き返された書類の束を受け取った。ひたすら頭を垂れる私にむかって課長の容赦のない叱責が延々続く。  まただ、今日もやらかしてしまった。私は本当にどうしていつもこうなんだろう。  自分のデスクに戻り早速修正作業に取り掛かる。が、指先が震えてうまくノートパソコンのキーを叩くことができない。周りかからの軽蔑の視線を感じる。私は作業に集中するふりをして羞恥心と自己嫌悪から逃れようとした。  私の注意力の欠如は子供のころから明らかだった。よく忘れ物をしたし、簡単なテストでケアレスミスをするのもしょっちゅうだった。その後も私の不注意は続いたが、大学を卒業するまでは大きな障壁にはならなかった。周りからは「ちょっと天然な子」とからかわれるだけで、たいして気にもしていなかった。  そして就職し、社会人として勤めるようになってから、私は生まれ持ったこの特性を徹底的に突きつけられるようになった。  私は日常の業務に追われる中ですぐに気が付いた。  人が簡単にやってのけることが私にはできない。人と同じような会話ができない。人と同じように考えることができない。  私は必ずミスをし、顧客からクレームを突きつけられ、そんな私を上司たちは持て余した。そして数々の配置換えを命じられては見切りを付けられることを繰り返し、ごく簡単なルーチンワークだけを任される今の部署にたどり着いたのだ。そしてここでも私はミスを繰り返している。    私はいつからか変な浮遊感にさいなまれるようになった。この世界が現実のものとして実感できないのだ。それは例えば同期入社の誰かが口にするこんな言葉を聞いたとき。  『よしみってさあ、昇進決まったんだって。あの年ですごいよね。』  『マキがプロポーズされたんだって。今夜お祝いしようよ。』  『絵里ってついこの間、産休から復帰したばかりなのに、また妊娠したらしいよ。ほんと何考えてんだか。』  私は世界が離れていくのを感じる。今、目の前にあるのにこの世界はもう私のものではない。手を伸ばしても決して触れることが出来ない。私は間違ってこの世界線に紛れ込んでしまった異物の視点で遠ざかっていく世界を感じるのだ。    「ほら、藤森さん、ボーっとしてるとまた課長に叱られちゃうよ。手伝ってあげるからさっさと終わらせちゃいましょ。」  声をかけられてハッとする。いつのまにか隣に真由美先輩が座っていた。綺麗で、仕事もバリバリできて、誰にでも優しい聖母のような先輩。いつもスーパーマンのように現れて私を救ってくれる憧れのヒーロー。私はあふれそうになる涙をせき止めるのに必死だった。  疲れた体を引きづって自宅のアパートまでたどり着くと、私は鍵を回してドアを開けた。目の前に玄関まであふれ出して積み重なったラノベや漫画の文庫本、放置したままのゴミ袋が飛び込んでくる。私はそれらを避けて通ると、急いでリビングにあるノートパソコンの電源を入れた。  以前の私は必死にラノベや漫画の世界に逃げ込むことで、容赦のない現実から目を逸らそうとしていた。しかし、今はもうこれらの妄想世界に用はない。はるかに強力な手段を知ったから。これがあれば私は大丈夫。どんなにつらいことが起きても耐えていける。  私はすでにインストールしてある特殊なブラウザを立ち上げた。それから専用の検索エンジンを開く。この時点ですでにダークウェブ、いわゆる闇サイトへの侵入は完了している。  自分が何をしているのかわかっているつもりだ。そしてこんなことは長く続けられないことも分かっている。目の前に破滅が迫っているのを感じながら、それでもここまで来てしまった。  あと少し、もう少しだけなら大丈夫と言い聞かせて。  素早くキーを叩く。入力画面に打ち込んだ文字が現れる。  “薬物 違法 入手”
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