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大きな岩陰に潜んでいた男は、ひとり静かにその様子を窺っていた。
陽が落ちて、大気が青く染まり、紫紺の空を星が滑り落ちる頃になっても姫君にまともに動きがないのを見て、音もなく立ち上がる。
男が感じていたのは、従者たちへの苛立ち。
(気が抜けすぎだ。人間一人隠れられるこの岩場を、何故調べなかった)
彼女は、玩具の人形に真似事で飲ませるように、傾けた水筒で水を与えられていた。
食べ物は目の前に置かれていたが手を付ける気配はなかった。周りの者は、その状態に慣れてしまったらしくそれ以上無理に食べさせようとはしなかった。
明日になれば。
この厄介な人形のお守りも終わるのだと、安心しきっているように見えた。
魂を失い人形と化した姫の名は、イシス。
予言の姫君。
契りを交わした男を「世界を繁栄へと導く王とする」との宿命を背負った「月の国」の銀の姫。
伴侶となったのは「太陽の国」の若き王・アッラシード。
しかし彼は、覇王への道を歩む前にあえなく戦場で討たれて死の国へと落ちた。
夫を喪った姫君は、わずかな従者とともに滅びの国を脱出して、祖国へと向かってきたのだ。
戦況は月の国も把握している。一団から先行した者が姫が落ち延びたことも伝えている。
月の国の者との合流は今まさに目前。
アッラシードの死により、姫君の「覇王の導き手」という予言は甚だ怪しくなったとはいえ、彼女が生まれ育った国は傷ついた彼女を迎え入れる。
国境までたどり着けば、正規軍に彼女は託され、足の速い馬によって王宮まで送り届けられる。
砂漠の国にはなかった水と緑が、乾ききってひび割れた姫君の心を癒すだろう。危機が去り、水も食事もとれるようになれば、その痩せ細った身体も回復するだろう。
おそらく、誰も彼もがそのように願っているに違いない。
(王宮の深部に籠もられてからでは、遅い。手が出せなくなる。今でなければ、あのひとへのこの想いを遂げることはかなわない)
呼吸を整え息を詰め、姿勢を低くしたまま男は駆けだした。
走りこんで、姫君の細い身体を脇に抱え上げた瞬間、二人、三人とようやく気付いて立ち上がった。にわかに騒然とし、怒号が飛び交う。
(反応が、遅すぎる)
斬っても良かった。それこそ皆殺しにしても良い。
が、彼らは「敵」ではない。
警戒を怠ったことは唾棄すべき最悪の怠慢だが、彼女の民だ。命を奪うべきではない。
ここで生かして国に帰してしまえば、即座に自分と姫君に追手がかけられるとわかっていても。
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