愛しい彼女がやってくる

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 我輩は猫である。  かつて先人はそう書いたらしい。  羨ましい。どうせなら私も猫になりたかった。  あのしなやかな体。  自由気ままな生き方。  誰にも媚びない態度。  ああ、羨ましい。我輩も猫である。一度はそう言ってみたい。  ――いや、それだけではない。それはある意味建前でもある。  猫になりたい理由に建前など必要ないのは重々承知しているが。  白状しよう。私が猫になりたい理由は単純だ。  彼女が、そう、あの愛しい彼女が猫だからだ。  あの白いふわふわの毛並み。神秘的な緑色の瞳。ココア色のやわらかい鼻。  その姿を思い描くだけで、私は正常な神経でいられなくなる。  彼女に触れたい。もっと触れたい。  彼女に会いたい。ずっと会っていたい。  彼女を私のものにしたい――  これはようするに恋慕の情だろう。この思いにつける名前を、私はほかに知らない。  無論、どうしようもなく不毛な恋だ。不毛どころの騒ぎではないかもしれない。人種の違いとか性別とか――そんな程度の壁なら障害とも思わないが、種族の違いというのは巨大な壁だ。どうあったって分かり合えない、通じ合えない。  だが――思いは募る一方なのだ。  無論彼女は私の気持ちなど知るはず無い。言葉が通じないのだから。  けれど、思いはとめられない。  種族の違いが一点だけ、私の不毛な恋に有利に働いている。  種族の違いがあるが故に、彼女は毎日私に会いに来てくれるのだ。  私の体温が、彼女の好みらしい。  太陽が真上にあがるころ、いつものこの場所に私がいると――  ああ、ほら、今日も来た。  白い毛並みが路地を過ぎ、私の元へやってくる。  こんにちは、レディー。今日も良いお天気ですね。  私は声に出さず、彼女にあいさつをする。  言葉は通じないはずだが、思いは通じたのだろうか。彼女は一声、鳴いた。 「にゃー」  ああ――なんと美しい声なのだろう。甲高く、柔らかで――形容しがたい美しさ。  きっとつりあがった大きな緑色の瞳が私を見据える。それだけでどきどきしてくることに、彼女は気づかない。なんて罪な人だろう。いや、人じゃないが。  彼女は私の体にのると、丸まって昼寝をはじめた。  ああ、なんという喜び。至福のときなのだろう。  今だけは、今だけは、種族の違いも言葉の壁も、何もかも飛び越えて、彼女は一時だけ私のものとなっているのだ。私は一時だけ、彼女のためにあるのだ。  その、なんという幸福なことか。  だが、至福のときは長くは続かない。  空が夕暮れに赤く染まるころになると、彼女はあっさりと私の体から降りると、一声だけお礼のように鳴いた後、また路地の奥へと姿を消していく。  もう少しだけ。ああ、もう少しだけここにいてはくれまいか。  そんな願いなど届きやしない。  この時が、たまらなく寂しい。  まるで、まるで――そう、自治会が頑張って設置したのに、二週間後にはすっかり忘れ去られ、ほぼ道端の粗大ゴミと化してしまったあの『ポイ捨て禁止!』の看板にでもなってしまったかのような感覚。忘れ去られ、消えていくそんな孤独感。  だからこそ、私は猫になりたい。  そう、私が猫でさえあれば、彼女にこの募る思いを打ち明け、彼女とともに暮らせるかもしれないのに。この孤独感から逃れられるかもしれないのに。  いや、判っている。もしそうなれば、昼間のあの至福のときはなくなるだろう。だが、その代わりに得るもののなんと大きいことか。  ああ、私はなりたいのだ。猫に。彼女と同じ種族に。  彼女とともにありたいのだ。  愛しいあの、彼女とともに。  彼女は猫である。  我輩は塀である。  その、なんと非情なことか。  私は夕暮れの一番星を見上げ、こっそりこっそり涙した。  彼女は猫である。  我輩は――ただの塀である。 おしまい
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