紀 夏井

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 授文堂で夏井は、皇太子の学友として、小野篁に師事することになった。  小野篁は当時三十三歳。身長六尺二寸(一尺の長さが現代と異なるので注意。この場合は現在の約184㎝)。容姿端麗の美丈夫ながら、若い頃武芸に熱中したというだけあって、装束の上からでさえ筋骨の逞しさがうかがわれた。さらに「令義解」(法律の解釈書)編纂に関わる程の怜悧な頭脳、高い学識、当代随一といわれる漢詩人の鋭い感性をも備えている。目の前に立っただけで相手を腰砕けにさせる程の威圧感があり、夏井は篁と初対面の時「この人は本当に人間なのか?」と思った。  恒貞親王は夏井より三歳下の十歳。外見は幼いが、表情は凛としていて、既にあどけなさを離れた眼差しには毅然とした輝きを宿していた。生まれながらにして尊さを身に帯びた、まさに貴種中の貴種と思わせる存在感があった。  その二人と同じ空間にいて、緊張しないはずはない。夏井は、最初こそ満足に言葉も出せなかったが、筆を握らせると別人のように活き活きとした。  紙の上に運ぶ筆先に迷いがなく、描く筆跡は正確で一切の乱れを見せない。それを目の当たりにした時、さすがの小野篁も思わず 「紀の三郎は真書の聖というべきなり」と感嘆の声をもらした。紀氏の三男坊は書道の天才だ、というような意味である。  小野篁に認められたことで、夏井はなお一層の精進をするようになった。  恒貞親王は身近に夏井という目標ができたことで、良い意味で敵愾心を燃やして修練に励むようになった。  才能に恵まれ、負けず嫌いの親王に対して、夏井は天性のおおらかさで優しく受け止めるようにせっしたので、両者の間に信頼関係が生まれるのに時間はかからなかった。  それはまるで、将来帝王になるべく勉学に励む弟と、それを支えて見守る兄のように見えた。
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