紀 夏井

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 夏井のことは、将来有望な少年として、朝廷内にも評判が広まった。そのお陰で、十四歳で元服する際には、加冠役に時の右大臣 清原(きよはらの)夏野(なつの)を迎えるという僥倖に恵まれた。清原夏野は嵯峨上皇の片腕ともいわれる朝廷の大物である。さらに夏野からは、冠を被せてもらっただけでなく、〈夏〉の一字まで与えられた。実はそれまで単に紀三郎(きのさぶろう)と称していた彼が、紀夏井(きのなつい)と名乗るようになったのはそれ以後のことである。  こうして順風満帆を絵に描いたような日々を送っていた夏井だが、ひとつの転機が訪れる。  まずは授文堂の閉鎖である。先に遣唐使にも任命されていた小野篁が、いよいよ本格的に渡航の準備に入る為、教授の任を離れる事になった。後任を置いて存続させる案もあったが、篁が推薦した後任候補の(たちばなの)逸勢(はやなり)に仁明天皇が難色を示した事から、閉鎖が決定した。これは、まだ子供の恒貞親王が、橘逸勢の偏屈な性格に影響されるのを懸念したからだった。  父親の善岑は当初、夏井を大学寮に入れて本格的に学問をさせるつもりだったが、自身が美濃守に任じられた事から、急遽彼を任国に帯同することに決めた。  当時国司が家族を伴って任国に赴くことは禁じられていたが、それは有名無実の規則で、実際には違反しても野放しの状態だった。  善岑が夏井を帯同すると決めた理由は二つあった。  ひとつは、若いうちに地方を体験させて、将来優秀な行政官となる為の見識を育てる目的。  ひとつは、自身の副官に当代一流の碁師である(ともの)雄堅魚(おかしお)が任じられたことから、彼に就いて囲碁を学ばせる目的があったからだ。  なぜ囲碁を学ばせるのかというと、それは仁明天皇が囲碁のたいへんな愛好家だったからだ。囲碁に優れていれば、京に戻った時、天皇の目に止まる機会に恵まれる可能性が広がると考えてのことだ。  こうして夏井は、承和三年(836年)、生まれ育った平安京を離れて東国美濃へ向かった。時に彼は十五歳だった。
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