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夏休みだ。
くじいた足は不自由でも、僕は一日たりとも部活を休まなかった。自転車通学は無理だったから、姉が毎日車で送り迎えしてくれた。
しかし…。
「何だよ、その勝負メイクはよ!」
ハンドルを握る姉に思いっきり怪訝な視線を飛ばす。
「アンタだって二階から飛び降りたじゃない」
「は? 意味わかんねえし…」
僕が中学高校と吹奏楽をやっているのは、音楽が特別好きだからではない。人と向き合うのが苦手な僕は、せめて自分の居場所を探し出したかっただけなのだ。楽器はどもらない。楽器は誠意と努力にこたえてくれる。頓珍漢なことを口走って失笑を買わなくても済む。小心者でコミュ障の僕にぴったりではないか。
「おまえらのうち誰か一人、ピッコロやってくれ」
フルートのパート練習をしているとき、最近シャレたネクタイを付けてくるようになった小山内先生が入って来ていった。
「ピッコロって、フルートの半分しかないあれですか?」
ハラジュクがきいた。
「そうだ。短いとはいってもタバコよりは長いぞ。アハハ!」
先生が上機嫌の時にしか出ないくだらない冗談。
「小さい楽器なら小心者の峰岸先輩に合っていると思います」
ハラジュクが僕を指さした。休日ともなれば超ド派手な格好で原宿に繰り出す彼女は、一年生のくせして縮こまり気味の僕をからかってくる小悪魔だ。
「おお、そうだな」大きくうなずくと、先生は僕の肩にポンと手をおいていった。「俺はなあ、『星条旗』をやろうと思った時、真っ先にオマエの顔が浮かんだんだ。頼むよ」
先生は元同級生の弟である僕に親し気に微笑んだ。だが、僕は知っている。彼のほほえみは僕に向けられてるのではないということを。
僕は小山内先生を恨んだ。
なぜって、ピッコロの猛練習が始まってから、帰宅時間が女子テニス部と合わなくなった。それじゃあプク姫こと森尚子さんと偶然を装って廊下や玄関で会えなくなるではないか。学年で一番小っちゃくて、それでいて学校で一番明るくて、親切で、愛らしくて、お茶目な彼女は高校生活におけるたった一つの希望だというのに。
せめて、プク姫が軽やかに舞うテニスコートを四階音楽室からぼうっと見下ろせる時間を与えてほしい。なのに、猛練習だなんて…。
尚子さんの存在は一年生の時から知っていた。朝、時々自転車置き場で遭遇した。そのときはおそらく名前も知らなかったであろう僕にも「おはよう」とぷっくりとした頬に笑窪を浮かべて挨拶してくれたものだ。吃音症がばれるのがいやな僕は、精いっぱいの作り笑顔で声を出さずにうなずくだけだった。暗い奴と思われていただろうか。
彼女に会いたくて、よく彼女の教室の前をうろうろしたものだ。しかし休み時間にも彼女はめったに廊下には出てこなかった。教室をのぞくと、彼女は決まって教室の真ん中で級友に囲まれていた。男子からも女子からも愛されるアイドル的存在だったのだ。
二年生になって尚子さんと同じクラスになった。僕の視線は授業中も休憩時間も彼女を追うようになっていた。ほとんど「ビョーキ」だった。
「峰岸くんってさあ…、好きなんでしょ?」
僕の隣の席、かつ同じ吹奏楽部のジージョが、いつものようにみんなに囲まれている尚子さんを顎でしゃくって耳元にささやいてくる。
「う、うるさい…」
ジージョにもばれているなんて何て迂闊なんだろう。僕は熱くなった顔を隠したくて机に突っ伏した。瞼をぎゅっと閉じると、二年生になって間もないころ尚子さんの前で大恥をかいた瞬間が浮かび上がってきた。
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