【音のない囁き……あまく】

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 しかし、しがない大学出の俺には、やはり独力でのしあがる術などどう逆立ちしても……。ゆえに、普通の男の尊厳は軽々と捨て去られた。  荷物持ち、運転手、犬の世話係、八つ当りの受け手―――つき合い始めてからの俺は、勝代の完全なる従僕、いや、それ以下だった。   とはいうものの、不平不満が起こらなかったわけではなく、多少の反論を試みたことはあった。しかしそのたびに彼女は、中の下の顔を最大限引きつらせ、 「言い寄ってきたのはあなたからよ! あたしを傷ものにしたってパパにいうわよ!」  という陳腐な台詞をヒステリー口調でくりだした。  有言実行の彼女の性質をすでに知っていた俺には、もう頭をさげるしかほかに手はなかった。  我慢の日々はもう二年になる。  いつしか俺は、虐げられ嗜好を知らず持っていた人間なのか……と、自身を勘ぐりもしていた。―――が、それが違うと、ベッドの女が証明していた。  俺も普通の男だったんだ。口答えもせず、身勝手でもなく、中の下ではなく、特上の女を求めていたんだ。そして……自分の思い通りになる女を。  ……だからといって―――。  再び同じ台詞が脳裡をよぎる。  喉の渇きが、だるい身を立ちあがらせた。  トランクス一枚の姿で冷蔵庫を開ける。一本だけ残っていた一リットルペットボトルのミネラルウォーターを、半分ほど一気にあおった。  胸の動悸は多少鎮まったが、酔いからの頭痛は変わらない。  ふらつきに耐え、狭いリビングに目を流す。  無造作に脱ぎ散らかされた通勤着。  コンパクトなローテーブルの上には、ウィスキーのボトルとロックグラス。  帰ってきてからも飲んだのか……。―――まったく飛んでいる記憶が、呆れた言葉を引いた。  そしてグラスのかたわらには、倒れたペン立てから飛びだした数本のマジックインキ。 「どうしたものか……」  疑問は乱れた部屋に向けたものではなく―――。  すらりと伸びた両足の間の黒ずみを、恥ずかしげもなくさらしている見知らぬ女。彼女の、その頂に綺麗なピンクを乗せた形のよい胸は―――まったく上下運動をしていない。  生きていれば、話し合いでなんとか帰ってもらうことが―――と、今となっては無意味な後悔をまたわかせる自分に嫌気がさす。  とにかく……。
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