【音のない囁き……あまく】

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 締めきっていた部屋の暑さが、全身を汗ばませている。  重い躰で彼女をまたぎ、窓を開ける。だが、状況が状況だけに、入り込んでくる微風に清々しさを感じることはなかった。  バスルームまでいくのが億劫だったので、ひとまずベッドの端に引っかかっていたワイシャツで額を拭った。  と、  待て……。  ふとおぼろげな記憶が蘇生したのは、そのシャツに染み込んでいたムスクの香りが(いざな)ったためか……。  車窓に映った、それはステンドグラスの出窓。そこから暖かな明りが洩れ広がっていて―――。  降りたんじゃないか……?  そう、永に乗せられたタクシーから、ここに着く前に、俺は一度降りたんじゃないか……?  その着色ガラスの彩りが、脳内スクリーンにたちまち明確になってゆき、視界は出窓の並びにあった木製ドアを経由し、その上で停止する。そこには幅広の一枚板に記された店名が、レンガの壁面につけられたクラシカルランプに照らされていた。 《BAR man―――》  タクシーが信号、もしくは一時停止標識にでもつかまったときだったのだろう。しかしそうであったとしても、酩酊の頭が、どうしてそこまでの情報をとり込めたのか……。 「引き寄せられた……」  そんな言葉がつと、鼓膜の裏をかすめたような気がした。  いずれにしろ、そう―――俺は降りたんだ。 “引き寄せられた”(うち)には、吐きだし足りなかった愚痴の相手を求める気持ち、もしくは人恋しさも介在していたのでは……。  なにしろキャバクラでは口説きに全力をそそぎ、残りの愚痴をこぼすことなど忘れていたであろうし、しかも結局、真利萌にはふられ……だ。  そう……明るかったステンドグラスだったのに、決して広くはない店内はなぜか照明が落とされ、ムスクの香りに包まれていた。  年季の入った木のカウンター越しに見る棚には、酒類に混じり、西洋のものらしき古道具やアンティークドール、壁には理解不能な抽象画に、いろいろな形のベネチアンマスクもかかっており……。  どういったテーマで揃えているのか見当がつかなかったが、とにかく不思議な、というより、妖しげな雰囲気を強く感じさせたその空間だった……。  不思議といえば―――。  なぜあの店の記憶は―――もちろん完璧にはほど遠いが―――その前に訪れたキャバクラよりも鮮明に再生されてくるのか……。
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