【音のない囁き……あまく】

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 つき合い始めのころ、たった一度だけここにきたことのある彼女だったが、それ以来足を踏み入れていないのは、狭さに辟易する、という理由からだった。だからこの部屋で食事をつくるなどという恋人らしい行為も、彼女にはなかった。ゆえにこの行動は、さすがに今回の喧嘩の非は自分にあった―――という懺悔心が、多少ならずとも芽生えた末からのことなのだろう。  しかし、ここにこられては非常に困る。  といって、断れば途端に不機嫌になり、理由を問いつめてくるはずだ。仮に納得のいく言い訳をくりだせたとしても、“主人”である自分のほうから和睦のきっかけをつくってやったのに、という傲慢な頭がやはり怒りを噴出させ、結局ドアは叩かれるに違いない。彼女は有言実行な女なのだ。   仕方なくOKした―――が、そのあとの彼女の台詞が、これまた焦燥を一気に加速させるものだった。 〈今、駅前のスーパーにいるから、これから材料を仕入れてすぐいくわね。あ、メニューはカレ―〉  切られた電話を見つめながら思考をフル回転させる。―――もちろん焦燥は、カレ―と勝手に決められていたことに対してではない。  駅からうちまで女の足で一五分強。いや、彼女のことだ、タクシーを使うか。であれば、うまく拾えたとして、一〇分弱……。買い物にはどれぐらいかかる?……大型スーパーだ。商品の陳列場所にはじめての人間であれば結構迷うはず。……一五分と仮定し―――合わせて二〇分ちょっと。  それまでの間に……。  いうまでもなく、この病気のことは勝代は知らない。ばれれば冗談では済まないだろう。喧嘩どころか本当の別れになるはず。こんな性質の男を受け入れるような寛容な女では当然ない。  立ちあがり、色気の満ちる姿態に送った目で考える。  のこぎりで四肢を刻み、捨てにいく……?  すぐに頭をふった。  以前にもやったことがあるが、想像以上の音が出て中途で断念したのだった。ましてや土曜日の午前、在宅している住人は多いはず。途端に管理人へ通報され、揉めている最中に勝代がきてしまったら……。  いや、そもそもゴミ袋に入るほどに切断している時間などない。  ……仕方ない。  彼女を抱きあげ、そのまま押入れに向かう。隠せるところはここしかない。
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