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と、その目に入ったビニール傘の骨組みが、ふと“やじろべえ”を思わせ、意識はその両端に載せてみた。―――“偽っての安泰”と“偽らない笑顔”を。
ツーシーターのドイツ車のドアを開けると、乗り込むことはせず、電子キーをギアボックス脇の小物入れに落とした。次いで開いた携帯で、勝代にその旨を文字で送り、同じ指で、彼女からのメールを迷惑メールに設定し、電話も着信拒否とした。そして、電源を切る。
「重みのあるこのドアの開閉音を聞くのも、今が最後」
そう脳内でつぶやくと、勝代のルックスにはまったく不似合な、エレガントな流線形ボディーをあとにした。
はじめての反逆が最後のメッセージだということを勝代は察知するか……。また、それに納得するか……。わからなかったが、いずれにせよ気持ちは、嘘のように平穏だった。
そしてふっと笑いが洩れたのは、
奇しくも、夢が目を覚ましてくれたか。―――の想いから。
また同じくして、
いや、あのウェイトレスの彼女のおかげか……。
との考えも、出世欲というしがらみが消えた俺の頭は、浮かばせていた。
一転して軽くなった足どりが駅から離れていったのは、もっぱら、精神的束縛から解き放たれた爽快さを、囲いも人いきれもない空の下で満喫したいがためだったのだろう。またその開放感は、普段であればうっとうしく感ずるこの雨模様をも、今まで塗り重ねた会社員生活の汚垢を洗い流してくれる清水に思わせ、幾度もの深呼吸を誘発した。
白由が丘から自分のアパートまでは相当な距離があるが、とりあえず両足がギブアップの声をよこすまで、この湿気てはいるものの、今の自分には至極心地よい風を感じていよう。そう傘の下の頬を緩ませていたときだった―――。
えっ……。
そこは、もう街からずいぶん離れた人気のない遊歩道上で―――。
驚きは、なにげなくふった視界に飛び込んだ建物が引いたものだった。
遊歩道に沿った車一台が通れるほどの舗装路、それを隔ててあるレンガの壁面には、ステンドグラスの出窓。
まさか、の思いで目を移す。
―――木製のドア。
―――クラシカルランプ。
それに照らされた一枚板には、
《BAR mannequin》
―――入口上に、はっきりと読みとれた。
「ここだったのか……」という心の騒ぎを、すぐさま静めた。
違う! あれは夢の中の店だ!
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