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7.
「随分サマになってるじゃねえか!もとから猟師だったみてえだ!」
小幡さんの金歯がキラリと光る。猟友会から支給された鮮やかなオレンジのベストと帽子をつけて、外で挨拶をした。
「これからお世話になります」
「いいって、いいって。車乗りな」
小幡さんの運転する軽トラで、狩り場まで向かった。
空に浮かぶ筋雲が、ずっと遠くに見える。空気は乾き、枯れ葉の腐る匂いがする。冬が始まろうとしていた。
「いやあ、レージくんが春にいきなりこの村に越してくるって言ったときには、たまげたよなぁ。」
俺は遠慮がちに笑った。
鷹之がいなくなってすぐ、俺は荷物をまとめてこの村に移住した。東京の店は西に任せ、足りないものや忘れたものは清洲に送ってもらった。
とにかく急ぐ必要があった。彼のことを忘れてしまわないうちに、全てのことを終わらせなければならない。
住まいは鷹之の家を買い取った。古くて借り手もいないからと、格安で譲ってもらえた。
冬にしか来たことがなかったので知らなかったのだが、彼の家には裏庭にはがあって、春には多様な草花が乱れ咲くのだった。それらは園芸種というより、茶花の類だ。おそらくは鷹之より前の持ち主の趣味なのだろう。
事務手続きには少しトラブルがあったらしい。なんでもその土地の名義人に事務的なミスがあるとかなんとか。詳しくは教えてもらえなかったが、俺は鷹之の消された記憶が、書類に悪戯をしているような気がしていた。
越してきたその日、俺は山に入った。
春の柔らかな日差しの中、青々と茂る木々の合間に、簡単に山鳥の巣を見つけた。その巣から温かな卵を一つ取ると、地面に置き、
足で踏みつけた。
嫌な感触が足の裏から全身に伝わっていく。だが、
――その人のことを覚えているのは、同じように呪われた人間だけ――
鷹之、俺はお前のことを、生涯忘れないだろう。
夏、家のリフォームが済んだ。内装はほぼ全部取り替え、壁も屋根も丈夫になった。扱いの難しい畳はすべてフローリングにし、家具も家電も新しいものを買い揃えた。重々しい和風の木組みはそのままに、インテリアを東欧風にしたところ、なかなかに自慢の我が家になった。
ただ一箇所、鷹之と二人で眠ったあの部屋だけは、傷んだ部分の取替をするに留めた。床の間も家具もそのままだ。箪笥には、彼の衣服が残っている。俺はそれから毎年、自分の衣替えのついでに、彼の箪笥の防虫剤を変えたりしている。
秋には麓の役場近くに店を構えた。山の食材をメインにした、小さな料亭だ。流行るかしらねぇ、と地元の人には言われたが、そのうち県庁からくる役人の接待の定番となり、またたく間に口コミが広がって、そこそこに繁盛した。
秋の終りに、前の店をクビになったという清洲が転がり込んできたので、雇ってやった。
そして冬がきた。鷹之と出会ってちょうど一年。俺は彼のように自ら狩りに出ることにした。肉を店で使うためだ。免許を取って、小幡さんのところにお世話になる。小幡さんも、その仲間たちも、心から歓迎してくれた。
車は山肌に沿って進んでいく。はるか下方に民家が見える。
「――オレの爺さんは、ボケがひどくってなぁ、」
狩り場に向かう途中の車内で、小幡さんが唐突に語りだした。
「最後の何年か、一緒に暮らした家族のことが、分からなくなっちまったんだ。
オレはその時レージくんぐらいだったがな、それを見て『怖い』と思ったね。忘れられることがじゃない。忘れちまうことが、だ。」
車はどんどん奥へと進んでいく。やがて人々の家は隠れて見えなくなった。
「もちろん、自分のことを忘れられるのは悲しいさ。
でもよ。自分の中で、愛した人の記憶がなくなっていくなんて、想像するだけでも身震いがするだろ。
自分が自分じゃなくなるみてぇだ。
オレぁね、絶対に家族のこと、忘れない。愛してるっていうのぁ、そういうことだろ?」
俺はその話を聞きながら、小幡さんがなぜ、その話を今俺にしているのか、しばらくわからなかった。
次第に俺は一つの考えにたどり着いていく。
奥さんと鷹之にかけられた呪い。
鷹之を探しに行ったあの日の、小幡さんの真剣な顔。
「――なんちゃってな!今のは母ちゃんには内緒なっ!」
やがて車は狩り場に着く。いつものメンバーで準備をしていると、ふと頭上を大きな鳥が旋回しているのが見えた。
「オオタカだ、」
のびのびと空を泳ぐその鳥は、切るような青さの空の中で、ひたすら自由だった。あっちゃんが額に手を当てながらそれを見ていた。それからチラ、と俺の方を見る。
「レージくん、知ってるか。この辺じゃ、鳥っていうのは、」
「神様が姿を変えた生き物、っすよね」
それを聞くと、おお、だいぶ山慣れしてきたな、と言っておおらかに笑った。俺の足元にマリーが寄ってくる。軽トラの脇からリョウくんが、じゃこれはどうだ、と言った。
「神様はさ、たまに人間を連れ去ることがあってね、」
ええ、とだけ言うと、リョウくんは戻ってきたマリーの首周りをワシャワシャと撫でた。
「連れ去られた人間が、鷹になって、ああやって人間を見守ってるって話だ。」
奇しくも、その鳥は彼と同じ名だった。
山から吹き下ろす冷たい風が、俺の頬を切って抜けていった。大きな鷹に見守られながら、俺たちは山に入っていく。
(終)
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