2.彼

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 一通りの身繕いを済ませたあと、俺は鷹之の部屋の学習机を借りて、ノートになぐり書きをした。今日食べた肉を、どう調理して、どうメニューに落とし込むべきか。ああでもない、こうでもないと、ノートの罫線を無視して書きなぐる。かねてのスランプはまだ脱せなかった。だが、糸口は見つかったような気がした。  あらかたアイデアを出し尽くしたところで、風呂から上がった鷹之が部屋に入ってきた。  グレーの厚手のスエットに、適当に乾かした髪。そのリラックスした雰囲気に、また昼間とは違った印象を受けた。 「狭っ」  入るなりそう言った。  6畳ほどの部屋に、学習机、本棚、ベッド。その隙間に布団が敷き詰められていて、足の踏み場もない。  彼はそのまま布団の上に座ってスマホをいじりだした。俺にベッドの方を使えということだろうか。隣の部屋からは明さんの子供の声が聞こえる。まだ寝るような時間ではなかった。  俺は少し考えて、 「海の写真見る?」  と声をかけた。 「こないだツレと海釣りに行ったんだよね」  鷹之は何も言わずに俺をじっと見返したので、俺はそれを、見たい、という返事だと解釈することにした。椅子を降りて、彼の隣に座る。少しだけ寄って、スマホを彼の前に出した。  画面を覗こうとする鷹之の肩が、俺の腕に触れる。同じ風呂に入ったので当たり前なのだが、彼からは俺と同じ石鹸の香りがした。それが俺には妙にこそばゆかった。  俺はそのまま画面に触れ、いくつかの写真を彼に見せた。船からとった海の写真。釣った魚とのツーショット。夕焼けの浜辺で、魚を焼いているところ。彼は興味深そうに画面を見ている。 「礼司は釣りが好きなのか」 「ま、誘われたら行くね。鷹之は?」 「たまに川釣りにいく」  何枚かめくると、今度は俺の店の写真が出てきた。開店当初のものだ。 「これ俺の店。これが入り口、これがカウンター、こっちは厨房……これはうちの仲間」 「……これ、お前?」  彼は訝しむようにその写真を指さす。それはスタッフたちと肩を組んで撮った写真だった。俺は板前用の白い調理服を着て笑っている。 「その顔で和食なのか?」 「お、言うねえ。鷹之は顔で何料理かわかんの?」 「べ、別に……ジビエとかなんだとか言うから、なんか、イタリアかどっかの料理じゃないかと思っただけ……」 「ジビエはフランス語ですぅ〜」  意地悪を言ってみた。彼はムッとして、俺の肩をぴしゃっと叩いた。俺は笑った。 「俺もともと専門は和食なんだよね。六、七年料亭で修業したあと、少しフレンチも勉強した。今は和食をベースにした創作の店をやってる。」 「変わってんな」 「最近割と多いよ、こういうの」  そう言って、次の写真に移った。  もう海とも店とも関係のない写真が続いている。伊豆でとった野良猫の写真、去年の六本木のイルミネーション。それから、 「おっと、」  まずい写真が出た。思わずスマホを持った腕を後ろに回す。と同時に指を動かし、写真を変えた。その間コンマ何秒。 「……今なんか見た?」 「別に。お前と、知らない男が、二人で映ってただけ」  セーフ。 「キスしながら」  アウトだった。  恋人とクラブイベントに行って、飲みながら撮った一枚だった。あの一瞬で見抜くとは、さすが猟師……。  彼は表情の読めない目で微動だにせず俺を見ている。 「いや、……その、……。」 「……。」 「悪い。俺……そっちなんだよね〜……」 「……。」 「あっでもお前を襲う気とかは全っ然ないから!小幡組の皆さんにはくれぐれも……」 「……言うかよ。」  それからしばらく沈黙が流れた。嫌な時間だ。鷹之は急に立ちあがって無言で電気を消すと、一人で布団に潜った。  やってしまった。明らかに、知らなくていいことを知られてしまった。痛恨の思いで俺もベッドに潜った。暖房の効いた部屋の中で、寝具は冷え冷えとしている。被った布団の冷たさに耐える時間が必要だった。  ようやく布団が自分の体温で温まってきた頃、闇夜の中で思いがけず彼が尋ねてきた。 「……写真のやつは今、どうしてんの?」 「え?……さあ……元気にやってんじゃない?」 「さあって……恋人だろ。寂しくないのか」  意外な質問だった。 「あれは元、恋人。別に寂しくないよ。じきに忘れるでしょ。俺、自慢じゃないけど、結構あっさり忘れちゃうんだよねぇ」 「へぇ、」 「お前は?彼女とかいんの?」  陰気な男だが、案外見所のあるやつだ。ちょっと年上の、面倒見のいい女性が似合いそうだと思った。  彼はしばらく返事をしなかった。 「……俺はそういうのはいい」  地雷だったろうか。 「呪われてるんだ。だから、そういうことをしても、意味がない」 「何それ。呪いって、」 「鳥を殺して、この山に、閉じ込められてる。こんなやつ、誰も好きにならない」  どういうこと、と聞いたが、それ以降彼からは返事が返ってこなかった。
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