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4.変化
ジビエ料理は反響を巻き起こした。いくつかの専門誌から取材を受け、このシーズンの予約枠はみるみるうちに埋まっていった。
俺は閉店後、小幡さんに電話でその話を伝えた。彼は大いに喜んでくれた。電話越しに、光る彼の金歯が頭をよぎる。
「また近いうちにお礼に伺わせてくださいよ」
電話を切ると、片付けを終えた煮方の西が側によってきた。煮方、といっても、俺の店は小さいので担当は流動的だった。彼はたまに板もやる。俺の片腕のような存在だ。
「冬メニュー、好調っすね」
「いやぁ、ありがたいね。」
ノートパソコンに向かって帳簿をつけている俺を、彼が後から覗く。
「僕そういうの得意っすよ。礼司さん仕事多いんだし、こーゆーの他の人に振ってもいいんじゃないすか?」
「そうだねぇ……」
軽く受け流して、画面に向き直った。だが、彼はまだ立ち去らなかった。他にも何か言いたいことがあるのだろうか。やがて意を決したように、「あの、」と言った。
「礼司さん、最近体調大丈夫っすか?」
「え?元気だけど?……なに?」
「なんていうか……少し疲れた顔してるっす。」
その問いは予想をしていなかった。何か彼自身に悩みや相談ごとがあるとばかり思っていたが。
「さっきも有松くんと話してたんすけど……礼司さん最近忙しすぎて全然休めてないじゃないすか。みんな心配してるんすよ。
ほんとに、こういう仕事は全然やるんで、たまには休んでくださいよ」
わざわざこうやって伝えてくる程度には、俺は疲れて見えるらしい。
「そっか。ありがとう。そういうの自分じゃ気づかないから、言ってくれて助かるよ。
ま、俺も年食ったしね!ちょっと休み増やさないとやってけないね〜!」
と言って、大げさに笑っておいた。西は心配そうな顔をしながら帰っていった。
たしかにこの冬は多忙を極めていた。こんなに忙しいのは、店を始めて以来のことだ。それでも嬉しい悲鳴とよく言うように、それは俺にとってまたとないチャンスであり、これこそが俺自身を奮い立たせるものだと、そう思っていた。
苦労して立ち上げた店だ。この店を存続させていくのに、労力は惜しまないし、もっと手をかけて、もっと立派にしてやりたい。
それに、わけあって家族と疎遠の俺にとって、頼れるものはこの店と僅かな友人だけだった。なくすわけにはいかない。
わけあって、といっても、別に勘当されたとか、大喧嘩したとか、そういうのがあったわけではない。
ただ、高校の頃からなんとなく、俺が異性を好きにならないということに家族が気づき始めたのが一つのきっかけだった。面と向かって言われたわけではない。だがその探るような空気に嫌気が差したので、俺は学校を出て早々に寄り付かなくなった。俺には出来のいい兄弟が二人もいたし、出ていったとしても何の問題もないと思っていた。
俺はともかく一人きりで生き抜けるよう、ありとあらゆることを自分でやった。専門学校に通って料理を勉強したのも、早く独り立ちしたいからだった。
一緒に暮らす恋人がいたこともある。けれどいずれは別れが来る。他人がいてもいなくても困らない生き方がいい。そう思ってずっとやってきた。
そのやり方が、知らずしらずのうちに俺に無茶をさせていたのかもしれない。
俺はいつものように仕事を家に持ち帰ったものの、やる気が一ミリも起きなかった。
少し奮発して買った高級ベッドに転がりながら、
――あのザラザラした声が聞きたい、
急にそう思った。
だが俺は鷹之の連絡先を聞かずに帰ってきていた。キスをしただけで恋人面をしていると思われるのは嫌だったからだ。
あのとき素直に聞いておけばよかった。俺は人生でもう何度も繰り返した後悔を、また繰り返していた。
翌日、同じように仕事を終えて帰った夜の事だった。シャワーを浴びて部屋に戻ると、スマホに知らない番号から2回の着信があった。番号をググってみたが、怪しい情報は出てこない。
俺は不審に思いながらもかけ直した。4コール目で、相手が取る。
『……礼司?』
このざらついた声は。
『俺。……鷹之だけど』
俺が神様を信じる瞬間があるとすればこういうときだ。
あの山と俺の部屋が繋がったように感じた。
動揺を隠しながら、電話を続ける。
「番号、どうしたの?」
『コウちゃんに教えてもらった。勝手に聞いて悪い。』
「いいよ、全然」
『コウちゃんが、来週お前がこっちに来るって言ってたから、その、……泊まるのか?』
来週……?俺は近いうちに、と言ったはずだ。小幡さんの中ではそれが「来週」に変換されてしまったのか。なんとも勝手な人だ。だが、憎めない。
鷹之の声を聞いてしまった今、来週でもいい気がしてきた。
すぐにでも会いたい。顔が見たい。
そう思いつつ、
「別に。決めてないよ。なに、泊まってほしいの?」
意地の悪い言葉が口をついて出た。こういうときに素直になれない自分が鬱陶しい。
『……、』
「うそうそ。泊めてよ。日帰りじゃ辛い」
『別に日帰りでもいい。お前は飯だけ作って帰れ』
「怒るなよ」
俺はこの浮かれた気分を悟られないよう、慎重に言葉を選びながら電話を切った。
あとは日にちだけだ。もちろん店は当分予約でいっぱいだ。
――たまには休んでくださいよ。
そう、休むべきなのだ。
俺は常連のいない日に二日間の休みを取ることにした。小幡さんの独自解釈の通り、次の週に内津山へ赴いた。
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