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5.予感
そうやって休暇を取りながら鷹之の家に泊まることが、一月に一、二度の頻度でつづいた。
この数回の来訪で、鷹之は料理を少し覚え、公園の駐車場でバイクを体験し、俺の話す東京の飯屋情報を聞いた。何をするでもなくふたりで山を散策したり、美しい星空を、川辺から見上げたりもした。彼はやはりこの山から一歩も出なかった。
俺は俺で、鷹之に仕事のある日は、一人で山に登ったり、温泉に浸かったりして、つかの間の休暇を楽しんだ。一人でがむしゃらにやってきた十年間、疎かにされていた自分自身に積もったホコリが、優しく拭われていく。
意外な発見もあった。鷹之は食通ブログをよく読むらしい。今一番食べたいのは、新進気鋭のラーメン店『黒田』のラーメンだと言った。外に出られない分、そういう話は興味津々なのだそうだ。
会うたびに、ごく普通の29歳の顔を少しずつ知っていく。回数にしたらほんの数回、日にちにしたらほんの数日。これまで生きてきた時間を考えれば、数にもならないような時間を共に過ごしたただけだった。それでも俺たちは、ずっと長い間そうしてきたかのように、お互いの奥深くに結びついていった。
山はゆっくり変化した。麓が雪で煙り、黒い河が凍っていく。
立春の頃だった。あたりはすっかり雪に覆われて、流石にバイクでは寄り付けなかった。俺は知人に車を借り、いつものように土産とともに小幡さんたちに会いに行った。
その日は小幡さんの家で昼をごちそうになっていた。俺はそろそろ鷹之の家に行こうと、暇を申し出た。すでに酒をしこたま飲んでいた小幡さんは、居間で悪いけど、と言って、こたつで挨拶を済ませた。
玄関を出るとき、「礼司くん、」という声がして振り向いた。奥さんだった。わざわざ玄関先まで出てきてくれた。外はわた雪が降っていた。吐く息が白い。
「礼司くん、お父さん昼間からあんなに飲んでごめんねぇ。今からタカちゃんとこ行くんでしょう?あの子と仲良くしてくれて、ありがとねぇ」
丁寧で親しげな口ぶりだったが、顔はどこか不安そうだ。
「あのね、礼司くん……こんなことは本当は、他所の人には言っちゃいけないんだけど……」
奥さんはそう言うとしばらく黙った。俺が次の言葉を待ってじっと見つめていると、いつもの熊のエプロンをぎゅ、っと握りしめ、
「タカちゃんのこと、この山の外には、絶対に、連れて行かないでくれる、」
と言った。絶対、のところで、声に力が入った。
「……どうしてっすか」
「どうしてもよ。この山の人にしかわからないの。どうしても、外に出ちゃいけないの。タカちゃんのご両親みたいに……」
そう言ったあと、また口をつぐむ。俺はその先の言葉を聞きたかったが、奥さんはとうとうその先は言わず、お願いね、とだけ言って俺を帰した。
呪い。皆口々に、鷹之は山から出られない、出してくれるなという。本当にそんなことがあるんだろうか。むしろ村の人達こそが、彼を閉じ込める呪いそのものではないか。
けれど俺はわずかに動揺していた。奥さんの言ったことは何だったんだろう。彼の両親が、の続きが、俺の心に小骨のようにひっかかっていた。
夕食を食べ終えたあと、食器を洗う鷹之の背中に問いかけた。
「なぁ、お前の父さんと母さん、何があったの?」
彼は手を止めるわけでもなく、ただ淡々と答えた。
「俺も詳しく覚えていないんだ。小さかったし、事故の衝撃で、前後のことはおぼろげにしか覚えてない。
たしか、遊園地に行こうって言って、朝、車に乗った。その途中で事故にあったと思う。気づいたら父さんも母さんもいなかった」
「いなかった?」
「事故の直後に消えたんだ。車を運転していたのは両親なのに、警察が来た頃には、車の中には俺しかいなかったらしい。俺は俺で、しばらく事故のことが思い出せなかった。
ようやくおぼろげに思い出せるようになったのは、12歳の頃だった。」
「じゃあ、今も行方不明ってこと?」
「いや。……誰も俺の両親のことを知らないんだよ。
まるでそんな人、最初からこの山にいなかった、そんな感じ。
最初は子供の俺に親の死を隠してるんだと思った。けれど本当に……誰も覚えていないんだ。顔も名前も、何もかも。
そのうち俺は両親のことを聞くのはやめた。俺一人が間違って記憶しているみたいだったから。
正直なところ、今でも生きているのか死んでいるのか、わからない。
マキちゃんだけは、山で鷹が飛ぶたびに、お父さんとお母さんよ、っていうんだ。
――わかるか、」
何が、とは聞かなかったし、彼も言わなかった。ただ、あの晩彼が「怖い」といったものの正体が、おぼろげに現れた気がした。
奥さんが言いかけたこと、鷹之の話したこと、全てが俺の中でゆっくりと結びつき、内津山という閉じた一つの世界が、小さな信憑性を持ち始めている。
俺は次のことを聞くべきか迷った。聞いてしまえば、呪いを肯定することになるかもしれない。後戻りができなくなるかもしれない。それでも聞かなくてはいけないような気がした。自分の中で、はっきりさせておきたかった。
「その事故、どこであったの?」
水の音が止まった。鷹之は、シンクの方を向いたまま答えた。
「橋。内津山と、川向こうの国道との間にかかった、長い橋の上。――そこから向こうは、」
――山の外だ、彼は静かにそう言った。
山から出られない呪い。
もし出たのなら、肉体も記憶も、消されてしまう――。
そんなことがあるのだろうか。鷹之の話だって、どこまで本当かわからない。幼い彼の夢と現が融合した、神話のようなものにも思えた。
それでもその晩、俺は眠れなかった。
隣では、鷹之があどけない表情で夢を見ている。布団からはみ出た彼の手を撫でながら、消えていった彼の両親のことを考えていた。考えても考えても、答えは出なかった。ぼやける頭を、黄色い朝日が冷ややかに照らした。
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