5.予感

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 テレビで桜前線のニュースが出始めた。  内津山は未だ雪深かったが、少しずつ溶けた雪が、黒い川を透明に戻していく。  狩りの季節が終わろうとしている。  それはつまり、この山との別れが近いことを意味していた。  小幡さんは、猟期を終えたあともストックは一定期間送付してくれると言ったが、春や夏はまた違う料理を提供する予定だった。猟期の再開は次の冬だ。  猟を通じた交流はそれまでなくなる。  小幡組の猟師はみんな寂しがっていた。半年弱という短い期間ではあったが、何度も酒を飲み交わした間柄だった。いつでも遊びに来い、そう言ってくれた。西が心配していた俺の体調は、すっかり良くなっていた。  鷹之の家で二人、夕食の山菜パスタを食べながらこれからのことについて話しあった。  俺は彼に会いたかった。それだけのために何度でも来てもいいと思っていた。夏の山がどんな風なのか一緒に見てみたかったし、たまに小幡組の皆に会ってもいいだろう。鷹之も、会えるだけ会いたいと言った。 「いっそ、ここに越してこようかな」  冗談半分、本気半分だった。彼が出られないなら俺がこっちに来たっていいはずだ。  彼は表情を変えた。 「それだけはするな」  それは照れ隠しでもなんでもなく、決然とした否定だった。 「……なんで?」 「わかるだろ。閉じられてるんだよ、ここは。周りから孤立してるんだ。だから、みんな出ていくんだろ。  ここは東京と違って、何もかも不便だ。物もそう、人もそう。何かをなくしたって簡単に代わりが見つからない。金にもならない。話はすぐに共有されるし、どこにも逃げられない。  お前は東京で苦労して成功したんだ。それを捨ててこんなとこに来ようなんて、簡単に言うなよ」  俺はその言葉に少し苛立った。せっかく恋人と一緒に住みたいと言っているのに、そこまで否定しなくてもいい。 「なにそれ。もうちょっと言い方があるんじゃないの」  狭い食卓に険悪な空気が流れた。俺たちは互いから目をそらすと黙々と夕食を食べ、それ以降ほとんど喋らなかった。  俺が風呂から上がってテレビの前でゴロゴロしていると、鷹之が俺の後ろに座って「さっきは悪かった」と言った。 「……俺はただ、お前に何も捨ててほしくないだけだ。お前の自由や成功を奪ってまで側にいるような、そんな価値は、俺にはない」   俺は彼の方を向かずに「わかった」とだけ答えた。本当は、そんなことはないとか、お前が何よりも大切だとか、そうやって彼を慰めたかった。それでも、俺はそうしなかった。こんなところで意地を張る必要などないと、自分でもわかっているのに。  その日、俺たちはじめて何もしないまま眠りについた。  これが二人で過ごした最後の夜だった。  翌朝――といっても、まだ夜と変わらないくらい真っ暗な頃だった――俺は物音で目が覚めた。隣で寝ていたはずの鷹之がいない。台所の方からわずかに明かりが漏れ出ているのが見える。  俺の頭はまだぼんやりとしていて、二度寝をしようとしたものの、しばらくして昨日の仲違いのことが思い起こされた。にわかに鷹之が不憫に思え、俺は起きあがってキッチンに向かった。彼は水筒に温かい飲み物を入れているところだった。すでに仕事用の作業着へと着替えが済んでいる。 「鷹之、」 「あ……悪い、起こした?」  振り向いた彼の顔は、早朝ということを抜きにしても冴えなかった。俺は昨日の自分の態度を後悔した。 「……出かけるのか?」  彼は駒滝だと答えた。ついて来てもいいと言ったので、俺は彼のワゴンに乗った。  真っ暗な道路に、車のライトだけが伸びている。最初に来たときは、断崖絶壁にボロガードレールと、見えるものすべてが怖かったが、今は何も見えないことが怖かった。  車内には相変わらずクラッチやシフトレバーの音と、ゴウゴウという走行音だけが響いていて、それ以外は何も聞こえない。  駒滝についた頃、ようやく山の端に光が滲み出した。それでも滝に続く道は一面青黒く、明かり一つない。空気は冴え冴えとして、水辺は痛いぐらいに寒かった。 「よく来るの?」 「ああ、」  鷹之は、白み始めた山を背に、滝を見ている。 「ここが好きだから……」  そうだと思った。あの時の彼の流れるような足取りは、何度も来たことのある人間のものだ。 「頭が空っぽになる気がして、嫌なことがあったときとか、来る。」 「……」  遠回しに責められている気がする。  俺たちはしばらく、滝を見ながら立っていた。水の流れが空気を洗い流していく。俺は今言うべきだと思った。これ以上躊躇すれば、必ず後悔する。 「……鷹之、その……昨日のことは、ほんとうに悪かった。  なぁ、お前は笑うかもしれないけど、俺、東京で毎日毎日、お前に会いたいって思いながら過ごしてるんだ。側に居たいんだよ」 「笑わない。俺だって礼司に会いたい。でも、お前がせっかく手に入れたものを捨ててまでして側にいるような価値は、俺なんかには――」 「俺、お前が『俺なんか』っていうの、めちゃくちゃ嫌い」  つい大きな声を出してしまった。鷹之の肩がビクリと震える。 「……俺がお前のこと大事に思ってるの、無視されてる気がするから、嫌なんだ。もう二度と言うなよ。俺は東京のもの全部捨てたってお前と一緒にいたい」  俺はまっすぐ鷹之の顔を見た。 「そりゃすぐには無理だけどさぁ、……一年ぐらいしたら俺、ほんとにここ来るから。覚悟しとけよ」  すべて本心だった。こんな風に真剣になって何かを人に伝えたのは初めてのことだ。 「……強引」  鷹之はようやく笑った。  俺は体の芯から冷えていたので、ワゴンに戻るよう促した。  鷹之は車に戻ると暖房をつけ、カバンから水筒を取り出した。湯気とともに芳ばしい香りが俺の鼻に届く。焙じ茶のようだった。彼が勧めてくれたので、俺も少しだけ飲んだ。体の内側に、熱い液体が流れていく。  フロントガラスの向こうから朝日が差し込んでくる。夜明けだ。消え残った星たちが、氷の粒のように瞬いている。鷹之はシートに沈みながら呟いた。 「……鳥なんか殺さなければよかった。お前に会うって知ってたら、死にたいなんて思わなかったのにな」  それはつまり、俺に出会って死にたくなくなった、ということだろうか。だとしたらこんなに嬉しいことはない。俺はそれを言おうとして、やめた。慣れない告白をたくさんしたせいで、食傷気味だった。今日はもう十分話した。これから少しずつ、伝えていけばいい。  俺は無言で彼の肩を抱き寄せた。 「なあ、礼司。お前は覚えててくれよ。俺のこと。ずっと。約束してくれよ」 「覚えてる。1秒だって忘れない、絶対」  それを聞くと、鷹之はゆっくり目を閉じた。  彼の睫毛が、オレンジ色の朝日に染まっている。それを見ながら、俺も一緒に呪われてしまえばいいのに、と思った。朝日に溶けてなくなってしまいそうな表情だった。  家に戻って鷹之の作る簡単な朝食を食べ、荷物をまとめた。俺は東京へ、鷹之は事務所へ。  別れ際に軽くキスをして、それぞれの場所へ向かった。次に来るのは一月半後、五月の予定だった。  再開は叶わなかった。
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