6.きえゆく

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 鷹之の車は、思わぬところに停めてあった。  彼の家から少し離れた場所。川に降りる道のある、空き地だった。他にも釣り人のものと思しき車がいくつか停めてある。  俺は川に降りて、辺りを散策した。  川の水は穏やかで、水面が暮れゆく春の陽の光を反射して眩いばかりに輝いている。何人かが川辺で釣り糸を垂らしていたが、大方片付けを済ましたような者が多かった。川の向こう側には、山の外の国道が見える。  少し下流に行ったところで、俺は打ち捨てられた釣具を見つけた。その側に、見慣れた鍵が落ちている。鷹之の車と家の鍵だ。鍵は俺の贈ったキーケースに繋がれていた。それを拾い上げようとした瞬間、不意に背後から小石を踏む男がした。 「お兄さん釣り人?そんなに川に寄っちゃ危ないよ」  初老の男だった。山の住人だろう。 「ついこないだも、ここで子供が流されたばっかだからな。見回ってんの。その時は大事にならなかったから良かったけどよ、危ねえことはするもんじゃねえ」  俺は男に頭を下げると、散らばった道具を集めて空き地に戻り、鷹之の車を開けた。  トランクに荷物を詰め、助手席へ座る。運転席には、まだ彼がいるような気がしていた。  フロントガラスから見える山の端に、黄色い光が漏れ出ている。夕暮れが近い。霞んだ空の中を、数匹の鳥が連れ立って飛んでいる。 ――あなたは忘れてしまうしかないのよ。  忘れたらどうなるんだろうか。  何も残らないのだ。痛みはない。失った苦しみも、この体に染み付いた彼の体温も、何もかもなくなるだろう。  人生は長い。恐らくこの先、また誰か素晴らしい人が現れる。鷹之の代わりに。俺は代わりだと思うことすらない。  彼は最初からいなかった。  俺は東京で店を続けるだろう。  彼の記憶以外、失うものはなにもない。  生きていくには丁度いい。  けれど、 『覚えててくれよ。俺のこと』  俺へ語りかける彼の声を、記憶を、愛情を全て忘れた俺は、本当に俺なんだろうか?  車の中から、もう一度川を見る。  夕暮れの川面。水の流れに浮かぶ枯れ木や枯れ葉。  ――彼が流した雛もこんなふうに流れていったのだろうか。  男は川に流された子供がいると言っていた。  もしそこに彼がいたのなら、今度こそ、救おうとしたに違いない。  その時俺は、川辺に立つ彼の姿が、一瞬だけ見えたような気がした。  オレンジ色に輝く川の流れに吸い込まれていく、鷹之の小さな背中。
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