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鷹之の車は、思わぬところに停めてあった。
彼の家から少し離れた場所。川に降りる道のある、空き地だった。他にも釣り人のものと思しき車がいくつか停めてある。
俺は川に降りて、辺りを散策した。
川の水は穏やかで、水面が暮れゆく春の陽の光を反射して眩いばかりに輝いている。何人かが川辺で釣り糸を垂らしていたが、大方片付けを済ましたような者が多かった。川の向こう側には、山の外の国道が見える。
少し下流に行ったところで、俺は打ち捨てられた釣具を見つけた。その側に、見慣れた鍵が落ちている。鷹之の車と家の鍵だ。鍵は俺の贈ったキーケースに繋がれていた。それを拾い上げようとした瞬間、不意に背後から小石を踏む男がした。
「お兄さん釣り人?そんなに川に寄っちゃ危ないよ」
初老の男だった。山の住人だろう。
「ついこないだも、ここで子供が流されたばっかだからな。見回ってんの。その時は大事にならなかったから良かったけどよ、危ねえことはするもんじゃねえ」
俺は男に頭を下げると、散らばった道具を集めて空き地に戻り、鷹之の車を開けた。
トランクに荷物を詰め、助手席へ座る。運転席には、まだ彼がいるような気がしていた。
フロントガラスから見える山の端に、黄色い光が漏れ出ている。夕暮れが近い。霞んだ空の中を、数匹の鳥が連れ立って飛んでいる。
――あなたは忘れてしまうしかないのよ。
忘れたらどうなるんだろうか。
何も残らないのだ。痛みはない。失った苦しみも、この体に染み付いた彼の体温も、何もかもなくなるだろう。
人生は長い。恐らくこの先、また誰か素晴らしい人が現れる。鷹之の代わりに。俺は代わりだと思うことすらない。
彼は最初からいなかった。
俺は東京で店を続けるだろう。
彼の記憶以外、失うものはなにもない。
生きていくには丁度いい。
けれど、
『覚えててくれよ。俺のこと』
俺へ語りかける彼の声を、記憶を、愛情を全て忘れた俺は、本当に俺なんだろうか?
車の中から、もう一度川を見る。
夕暮れの川面。水の流れに浮かぶ枯れ木や枯れ葉。
――彼が流した雛もこんなふうに流れていったのだろうか。
男は川に流された子供がいると言っていた。
もしそこに彼がいたのなら、今度こそ、救おうとしたに違いない。
その時俺は、川辺に立つ彼の姿が、一瞬だけ見えたような気がした。
オレンジ色に輝く川の流れに吸い込まれていく、鷹之の小さな背中。
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