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鷹之のグレーのワゴン車は、最近見なくなったマニュアル車だった。俺自身、車はオートマしか乗ったことがなかったので、彼が器用にシフトチェンジする姿に少し感心した。車が古いのか、操作のたびにガチガチいう音が車中に響き渡った。
道は進むほどに高度を上げ、気づくとその下は断崖絶壁となっていた。遥か下方に川が見える。それほど大胆な地形に、この古いワゴンと申し訳程度に添えられたガードレールは、なんだかオモチャのように思えて怖かった。
予想はしていたが、車中彼はだんまりだった。俺は俺で、別に彼と仲良くなりたいと思っていたわけではなかった。窓の外を見ながら、なんとなく気になったことだけをポツポツと聞いた。
山の話、町の話、小幡さんの話。やがて入ったトンネルの中で、ふと、
「山に住んでるのに鳴海って名字、変わってるな。『鳴る』に『海』で鳴海だろ?」
そう聞いた。聞いた、というよりは、感想だった。この深い山の中で、なぜ彼は海の名を冠しているのか不思議だった。
「……、親がここの出身じゃない。」
終了。これでもう話題は尽きた。と思った直後、
「――でも、親の実家にも海はないって」
珍しく彼が言葉を続けた。海を見たことがあるか聞いてみたら、ない、と言った。俺はその返事に少し笑った。
「海に縁がないのに鳴海?」
「お前だって都会育ちなのに森だろう。しかも、大森」
「はは。べつに、東京にもでっかい森はあるもんね」
なんだよそれ、そういいながら彼が少し口の端を上げた。どうやら笑っているようだった。よく見ていなければ気づかないくらい、ささやかな笑顔だった。トンネルを抜けていく。
「ご両親は?」
鳴海姓の話がもう少し聞きたい。が、
「いない」
余計な質問だった。空気が出発時点に戻った。
「ついたぞ、」
幸い、すぐに車が滝近くの駐車場に到着した。
駐車場、といっても、ラインも車止めもない。ただの道路脇の空地だ。彼は適当に端に停めると、その空地から延びた遊歩道を進んでいく。通いなれているのか、迷いのない足取りだった。俺も小走りでその後ろをついていく。すぐそこで水のほとばしるような音が聞こえた。
しばらく歩くと、滝の手前で行き止まりになった。道は鎖で厳重に塞がれている。どうやら崖になっているようだ。
目の前に現れた滝は、想像していたよりも遥かに幅があった。大きな一枚岩の岩肌いっぱいに、水が流れている。岩の起伏の具合で水は踊り、10メートルほど下の滝壺へ落下していった。滝壺もまたゴツゴツとした巨大な岩だ。もっと細くて長い滝を予想していたので、この勇壮な姿には目をみはった。見ているだけで清々する。
「すげー。めちゃでかいじゃん?」
「そうか?」
鷹之は隣でポケットに手を突っ込んで、つれない返事をよこした。
「……お前、あっちゃんに気を遣ったんだろ。来たくもないところに連れてきて悪かったな。」
あっちゃん、というのは、鷹之に案内を頼んだ猟師のことだろう。俺は彼が思いの外空気を読んでいることに驚いた。彼のことはただの人嫌いだと思っていたのだが、そうでもなさそうだ。
「どうだったかな。滝見たら忘れちゃったわ」
と答えたものの、彼からの返事はなかった。
しかし、野暮用とはいつ頃終わるのだろうか。この滝で一時間ほど潰せばよいか。柵にもたれながら鷹之に今の時間を聞くと、あれからまだ三十分と経っていなかった。
「あと三十分は潰さないとな」
「じゃあお前、なにか面白い話しろよ」
鷹之が雑な話の振り方をした。
「面白い話ってなんだよ、」
「適当なネタでいいだろ、
――好きな食べ物とか」
想像の斜め上の返しだ。
「何そのお題。小学生の自己紹介か」
だがそれがふたりとも軽くツボにはまったので、俺たちはしばらく、滝の前で子供じみた自己紹介を楽しんだ。
好きな食べ物、好きな科目、好きなテレビ。
誕生日、血液型、将来の夢。
――俺たちには全くと言っていいほど共通点がなかった。
「鷹之は子供の頃から猟師になりたかったわけ?」
「別に。コウちゃんにずっと世話になってて、気づいたら同じ猟師になってた。
礼司は?ずっと料理人を目指してたのか?」
「俺も別に。高三で進路決めるときにそうしようと思ったぐらいだな。それまでは、流行りの職業につきたがってたよ。サッカーが流行ればサッカー選手、刑事ドラマが流行れば刑事、あとはあれだな、バンドマン」
「バンドマン……」
「流行ってたんだよ。兄ちゃんにギター借りてさ。ま、俺はぜんぜん駄目だったね。Fが押さえられなかった。見たことある?Fの抑え方。鬼だよ」
俺はぐにっと指を曲げてFコードの形を作った。鷹之は全然伝わらない、といいながら笑っていた。
くだらない話だ。だが、仕事のことを忘れるのは久しぶりだった。息を継ぐたびに、辺りに生える針葉樹の葉の匂いがして清々しい。
冷えてきたから車に戻ろう、そう言う手前で、ふと、キッという音がして上を向いた。
小さな鳥が一羽、枯れ木に止まっていた。腹がオレンジ色をしている。
「ジョウビタキだ。」
それを見て鷹之が呟くように言った。
「お前、コウちゃんから鳥の話は聞いたか」
「鳥の話?」
「山に住む鳥を殺すな、って話」
清洲が言っていた話だろうか。
「知らない、」
「なら知っておくといい。
ここの山には神様がいて、鳥に姿を変えて人間を見張ってるんだ」
その瞬間、彼の横顔に神聖な空気が舞い降りた気がした。
「だから、この山の人間は絶対に鳥を殺さない。俺たち猟師ですら、鳥は一羽も獲らない。もし殺したら、神様に呪われて、山から出られなくなるんだ、」
薄い唇から紡がれるその物語に、現実味のない美しい響きを感じる。
一方で彼の口ぶりはどこか自嘲的だった。その意味は、後々わかることだった。
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