3.神様

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 その日は昼から盛大な酒盛りとなった。  今日の狩りの反省会、兼、俺の歓迎会という名目で、猟師たちが皆小幡さんの家に集まり、居間も客間も開放する騒ぎだった。  奥さんと美沙子さんが、慌ただしく料理の準備をする。俺も参戦した。3人も台所に立つと統率が取れなくなりそうだったが、案外奥さんはそういう状況が得意らしい。美沙子さんも俺も、奥さんの的確な指示で次々と料理を作りあげていった。俺は下準備と洗い物の他に、あり物でいくつかのつまみを作った。これがなかなか好評だった。今度作り方教えてねぇ、と奥さんが可愛く言った。  あっちゃんの差し入れてくれた日本酒は上等で、あっという間に一升瓶が空になった。次から次へと新しい酒が開いていく。鷹之だけは一滴も飲めないということだったので、奥さんに出されたバヤリースを子どもたちと一緒に飲んでいた。  俺はだいちゃんに新しい日本酒を注がれながら、 「うそでしょ?レージくん、その顔で板前なの?」  と詰め寄られた。デジャヴだ。鷹之がこっちを見ながら笑った。  あまりにも盛り上がったので、俺は帰るタイミングを逃してしまった。本当は12時を過ぎたら一滴も飲まないつもりだった。今夜遅くにバイクでここを出るには、そうしなければならなかった。だが、勧められるがまま飲み続け、気づいたらもう15時だ。  結局、俺は出発を翌朝にずらすことにした。泊まる場所はどうしようかと思っていると、奥さんがもう一泊していけと言った。 「一泊も二泊も一緒よぉ。タカちゃんもよかったらおいで」  鷹之は返事を渋っていたが、結局また同じ部屋に二人でいた。  深い夜だった。外では終わりがけの虫の音がか細く聞こえた。  鷹之の部屋で、俺は昨日と同じ机にノートパソコンを出して作業をしていた。明日やる予定だった事務仕事を、今のうちに済ませておきたい。暗い部屋に、俺のパソコンの画面だけが青白い光を放っていた。  鷹之は後ろで布団にもぐり、俺に背を向けている。時折スマホを出して何かを確認していたから、寝ているわけではないようだ。  キリがついたところで伸びをすると、鷹之が「終わったのか」と聞いた。いつの間にか、俺のことをじっと見ている。 「悪い、寝るの邪魔した?」  彼は別に、と言って、また横を向いた。その横顔を見ながら、俺は昨日の夜の会話を思い出した。 「……なあ、昨日さ、呪われてるから誰も好きにならない、って言ったじゃん。あれどういうこと?」 「べつに、そのままの意味だ。鳥を殺して……」 「山から出られなくなった。まぁ、その辺は置いといてさ、呪いって何?なんで好きにならないの?」  彼の口が少し開いたが、言葉はなかった。俺は彼が何か言うまで、ベッドの中で待つことにした。  今日は月がとても明るい。カーテン越しに差し込む光に清涼感がある。月光はゆったりと部屋に満ちた。 「……なんでそんなこと聞くんだ。」 「なんとなく、」 「お前には関係ないだろ、」  まあその通りだった。呪いのことも、彼が人を好きにならないことも、俺に関係はない。言いたくないと言うならそれまでだ。けれど俺は今、できる限り彼のことが知りたいと思っていた。俺は返事をせずに黙った。彼の内側から出る言葉が聞きたい。  静寂があたりを包む。 「……忘れられるのが怖い」  根負けした彼が口を開いた。かすれた声が月光に吸い込まれていく。 「呪われると、山から出られないだけじゃない。最後に、忘れられる」  最後?と聞くと、彼は少し間を置いて言った。 「死ぬとき」  それはまるで大人が子供へ言い聞かせるための脅し文句のようだった。おばけがくるよ、のような類の。 「死んだら、みんな俺のこと忘れるんだ。まるで最初からいなかったみたいに。それなら好きになったりしたって意味がないだろう、」 「そういうもんかねぇ」  その呪いの真偽についてはどうでもよかった。ただ、彼が忘却への恐怖を理由に誰のことも好きならないのだとしたら、あまりにも寂しいと思った。 「お前だって、俺のことなんかどうせすぐに忘れるんだろ、」  多分、昨日の晩の俺の話を言っているんだろう。あれは恋人のことを言ったのだが、彼にとっては恋人だろうがなんだろうが人間は全てそうだ、と言っているように聞こえた。だが一方で、その拒絶するような鷹之の声の中に、どこか切ない希望のようなものが宿るのを感じていた。本当は、忘れないよ、と言って欲しいのかもしれない。 「……わかんないけど」  今はそれで濁すことにした。 「俺さぁ、確かに色々付き合ってその都度忘れてくけど……好きにならないほうが良かったなんて一度も思ったことないね。付き合ってるときはめちゃめちゃ楽しかったし、もし相手がおんなじように俺を忘れたとしても、楽しい時間が共有できたんならそれで良しって思っちゃうなぁ」 「……、前向きだな」  感心しているのかバカにしているのかわからないような返事を寄越す。彼はそのまま仰向けになり、沈黙した。  俺はベッドの中で、密かにこの告白に驚いていた。 ――「怖い」。  俺にはそれが言えない。無論俺にだって怖いことは山ほどある。だがそれを誰かに知られるのは、弱みを握られることと同義だと思っていた。彼はどういう気持ちで俺に「怖い」と言ったのだろう。他人に弱みを握られても平気なほど強いのか。それとも。 「こういう話、よくするの」 「……しない。今日お前に初めて言った」 「なんで?」 「わからない。」  その言葉に、自分の胸が誰かに握られたような息苦しさを感じた。それは同情のような優しい苦しみではなかった。  ベッドから上体を起こす。 ――今、何も話さないほうがいい。口を開くと、言わなくてもいい言葉が出てしまいそうだ。  けれど、俺の意に反して口が動いていく。 「なあ鷹之、人を好きになるなんて簡単だよ」  彼の目がちら、とこちらを見る。 「俺とキスしてみよっか、」 「……なんで、」 「なんでだろうね。断ってもいいよ。だめならもう寝るから」 「……」  鷹之は俺の目を見たまま長く沈黙した。それから、ためらいがちに布団から手を出し、ベッドに置く。  俺は彼の手を取りながら下に降りた。屈んでその顔をまっすぐ見下ろす。横たわる彼の頬に右手を当て、親指で撫でる。触れた皮膚が熱い。  月に照らされた彼の顔は美しかった。  別に好みだとかではない。それなのにどうしてこんなにも気分が高揚しているのか、自分自身よくわからない。  それは同情なのか恋慕なのか、惹かれているのか好奇心なのか、薬なのか毒なのか。 ――確かめる必要があった。  初めて見る果実に口をつけるように、触れるだけのキスをした。鷹之は触れる瞬間に一度肩を震わせたが、素直にそれを受け入れた。  きっとほんの数秒だっただろう。時間の感覚はとっくに消えていた。ゆっくり唇を離す。 「おやすみ、」  俺は自分の気持ちが悟られないよう、ベッドに戻って背を向けた。甘い感覚が体中を支配していた。  朝は凍るように寒かった。小幡さんいわく、真冬は実際に家のあちこちが凍るらしい。  早朝にも関わらず、小幡さん一家はみんな外まで見送りに出てきてくれた。俺のバイクに、笑顔で手を振る。その中で鷹之はひとり、手をポケットに入れたまま、焼き付くような視線を俺に送っていた。
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