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「かあさま、かあさま。たいへん!」
赤い着物を着た女童が転がるように土間に上がっていった。
「なんですか、千代子。騒々しい」
「お寺さんの、お寺さんのお庭の御池が、埋められているのです!」
かあさまは、「ああ……」と言いながら生糸を繰った。からからと糸車が回る。
「あれは鉄道を通すために線路を作っているのですよ」
「鉄道って、汽車ですか?」
「そうです」
「でも、でも……」
千代子はもどかしげに手足を動かした。
「お寺さんの中に汽車が通るのですか? それってへんです!」
「へんでも、仕方がないのです。富国強兵のためですから」
「フコクキョウヘイで、お寺さんが壊されるのですか?」
「そうです。お国を強くするためです」
千代子は頭の中がわーっと不満でいっぱいになるのを感じた。
近所のお寺さんの前庭は、童たちにとって格好の遊び場であった。それと同時に、そこが神聖な場所であることも、千代子はちゃんと分かっていた。境内には庭の他にも山門や御堂があって、仏様がいらっしゃる。そこで千代子はよくお参りをするのだ。
そんな場所を壊していいほど、お国というのは偉いのだろうか。
「私、お寺さんが壊されるの、いやです!」
「そんなことを言ってはいけませんよ。今はそういう時代なのですから」
「むうーっ!」
千代子は赤いほっぺを膨らましていたが、やがて家を出て行った。
からから回る糸車の音を背にして。
お寺さんの境内では、男の人がたくさん集まって、庭の池をえっさほいさと埋め立てていた。
綺麗な御池なのに。真ん中に橋があって、向こうには紅葉があって、眺めがとてもいいのに。
千代子はむーっと顔をしかめたまま、庭が壊されていくのを見ていた。
結局、お庭の御池は半分ほどが埋め立てられてしまった。
その後も、男の人たちがえっさほいさと作業をする。
お寺さんの中を横切るようにして、鉄道が敷かれてゆき、二年後についに線路が完成した。
その出来上がりを、働いていた大人たちは喜んでいたが、千代子はつんつるてんの赤い着物を着て、相変わらずむくれた顔をしていた。
……今日は初めてこの線路を汽車が通る日だ。
千代子をはじめ多くの人が見物に訪れている。
やがて、プオーンと汽笛を鳴らして、ガチャンガチャンと車輪を回して、汽車がものすごい勢いで走り抜けていった。
お寺さんの中にはもうもうと黒煙が立った。
おおーっと一部で歓声が上がった。
──傷ついている、と千代子は感じた。消えない傷をつけられてしまった。
新しいものがどんどんできあがって、古くからあるものが壊されている。
「立派なお寺さんなのに」
千代子は誰にも聞かれないように呟いた。
「あの円覚寺が……文明開化の犠牲になるなんて」
こうして走り出した横須賀線は、現在となっても止まることなく、円覚寺の境内を走り続けている。
由緒ある鎌倉の寺院の境内では、今日も踏切の音が甲高く鳴り響いている──。
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