月亮(つきあかり)

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 故郷を離れて、もう何年になるか。忘れかけていた頃になって、昔の知人に再会した。  険のある自分とも上手く折り合ってくれた、数少ない友人と言っていい相手。性質も顔立ちも穏やかな彼は、記憶よりもだいぶ歳を重ねて、それでいて若い頃の面影がちゃんとあった。ああ、人として着実に、誠実に年月を経てきたんだなと思った。  (……それなのに、俺はどうだ。かつて俊英の名をほしいままにした、俺は)  何度目かの自嘲を覚えて、ぐ、と奥歯を嚙みしめる。その感覚も、若く健全な器を持っていた時分とはかけ離れていた。それが余計に歯がゆくて、覚えず四肢にも力が籠る。無為なことだと分かっていても。  気づくのが遅すぎたのだ。己の才能を誇るあまり、周りに親しまず我を貫いて。後世に残る詩歌を作り上げるのだと、友も家族も顧みず机にかじりついて――その偏狭さこそが自分を害して、今のような状況へ追いやったというのに。  (きっと恐ろしかったろうに。俺が君の立場なら、迷わず逃げている)  そう、きっとそうする。だというのに、彼はしなかった。それだけでなく、自分のこぼした声に気付いて、呼びかけてくれたのだ。  己の醜態が恥ずかしかった。嫌悪を向けられることが怖ろしかった。でも、同じくらい嬉しくもあったから、ついいろいろと身の上を語り聞かせてしまった。  いくら彼の同行者が多いといっても、こんな鬱蒼とした夜の林だ。どれほど月が明るくとも、危険などいくらでも考えられる。本当に友のことを思うなら、すぐにでも発たせてやるべきだった。  (……なのに君、怒らないんだよな。ほんとにあの頃と変わらない)  互いに切磋琢磨した若き日から、全く変わらぬお人好しだ。自分などの頼みを引き受けて、心残りを清算しようとしてくれる。心血を注いで作り上げた詩を、書き残そうとしてくれた。今頃路頭に迷いかけているだろう家族のことを、任せろと請け合ってくれた。  本当に有り難いと思う。離れがたい、もう一度逢いたいとも思った。だが、  『どうか帰りはこの道を通らないでくれ。その時は君のことが分からなくて、襲いかかるかもしれない』  よくもまあ心にもないことを、と、何度目かの自嘲が零れる。その声は低くかすれて、往事の自分とはかけ離れている。よく彼は気づいたなと、今さらながらに感心した。  (俺も他人のことは言えないな。……君のお人好しはうつるのか?)  嫌で仕方がない今の姿を、あえて晒してまで警告を発するとは、矜持(プライド)が高い自覚のあった自分からは考えられない。やっぱりうつしたろうと、竹藪から一行の姿を見送りながら思うのだ。  だが、しかし。こんな異形となった自分の中にも、君からもらったものが残っている。何やらこそばゆいが、悪い気はしない。  ゆっくりと進んでいた行列が、丘の頂でふと止まった。その中央で部下に囲まれている人影が、跨った馬を操って振り返る。  今や獣に変じたこの目は、夜の帳も難なく見透かす。遠くでこちらを見つめているその人物――先程別れた、今の姿を見せたばかりの友の頬が、月亮(つきあかり)を弾いて光っているのが分かった。知らず、己の目裏も熱くなる。  (そんな顔をするなよ。俺には、君に泣いてもらえるような価値なんてない)  どうか笑ってくれ。詩人になり損ねて虎になった、日に日に獣へと近づいていく、哀れな男を。  それでも、願わくば。  (君の姿が、見える間は。あと、少しだけは)  どうかもう少しだけ、君の友でいさせてくれ。人で、いさせてくれ。  遠い友の頬が、引きつったように歪む。無理やり笑おうとして失敗した顔で、彼は口の形で言葉を紡いだ。かつて共に在った頃、毎日のように交わした挨拶を。  『おれ、もう行くよ。――じゃあな、李徴(りちょう)』  (気を付けて行けよ。――じゃあな、袁傪(えんさん))  あと数刻もすれば、夜が明ける。その暁に降りる露に先んじて。  竹藪の中で頭を垂れた、一頭の猛虎。かの毛並みに流れる雫を、月亮が煌めかせていた。  了 (出典・参考:中島敦『山月記』より)
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