しじまに沈んで

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 キンコンカンコン、という決まりきった鐘の音は、電子音のくせにいやに耳に障る。 「ねえ灯子」  放課後になると途端に元気になる彼女達は灯子の机に群がってきて、灯子がもたもたと筆入れやら教科書やらノートやらを鞄に詰め込むのを楽しげに眺めてきた。 「ちょっとトイレ付き合ってよ」  トイレに付き合う――そのままの意味だ、女子トイレに数人で行くということ。全員がトイレを使うわけではなく、一人か二人のために仲良しグループ全員が狭くて臭くて汚い女子トイレへと向かう。理由なんてない。仲良しの友達というのはそういうものだからだ。トイレに付き合うくらい仲良し――トイレでもどこでも一緒にいたいと思う友達――あえて言うのならそんなところか。別に行き先はトイレじゃなくても良い。職員室でも移動教室でも下校でも、もちろんトイレでも、みんな一緒、ただそれだけのことだ。  だから灯子は考えなしに頷く。 「良いよ」  友達と一緒だと音を聞かれるのが嫌だとか、長いこと個室に閉じこもれないだとか、ただでさえ狭いトイレがもっと狭くなるだとか、臭いが嫌だから無駄に長居したくないだとか、そういう不満はある。正直トイレくらい一人でこっそり行きたい。友達と扉一つ挟んで排泄をしているという状況、排泄中に大声で会話をしなければいけないという圧迫感、他の人からの邪魔そうな冷たい視線、何もかもが嫌だった。けれど灯子達にとっては連れションが普通で、友情の証で、友達ごっこの一環なのだ。断れば友情に亀裂が走る。仲間外れにされる。共通言語の通じなくなった人はもう仲間ではなくなる、それが灯子達の友情の原則。  女子トイレに付き合った後、灯子は彼女達と教室で一時間程おしゃべりをする。放課後にゆっくりと会話を楽しむのもまた、灯子達の共通言語だ。見たいテレビは録画をして、うるさい親は怒鳴って黙らせて、苦手な勉強は後回しにして。会合が終わった後も家へ向かいながら連絡用アプリで会話の続き。未読はトイレ休憩を配慮して五分まで。夕飯だろうと風呂だろうと誰かが眠くなるまで五分以上の放置は許されない、それが共通言語。友情を確かめ合ういくつもの試練の一つ。これらを乗り越え続けて、灯子達は親愛を深めていく。何人かは脱落したけれど、灯子は違う。灯子はまだデキる友達だ。有益で、信用できる、代わりの効かない人間の一人。モブではない重要キャラクターの一人。  この世は戦場なのだ。主要人物でい続けるための修行場、自分の価値を保つための修練場、自分を輝かせるためのオーディション。だから努力は惜しまない。一流モデルになるために努力を積み重ねてステージに臨む美女のように、灯子も苦労を積み重ねて試練を勝ち進んでいく。  だから、どんなに小さな不満があっても弱音なんて言えないし言わない。唇を引き結び、代わりに口角を上げて素敵に笑ってみせるのだ。これは灯子の人生で勉強よりも重要な、将来に関わる重大な任務なのだから。 ***  ゆらり、と足を交互に前へ出していた。走っているとはもはや言えないほどゆっくりと、けれど全力で、灯子はのろのろと走っていた。  水の中を、走っていた。  結局灯子は溺れていなかった。けれど呼吸もしていない。息を止めたまま、苦しみながら、灯子は走っていた。前の夢では全身が沈んだ途端眠くなったというのに、今度はいつまで経っても眠気が来ない。息を吸おうと肺が喚く。それに応えて喉が開いて、そして海水をがばりと飲み込んでいく。求めていた空気は微塵もない。これじゃないと言わんばかりに海水を吐き出して、肺がまた海水を飲む。きりがない。  それでも足は止まらなかった。足裏は砂ではなく岩を蹴っていて、海水の色も青より黒に近付いていて、綺麗な熱帯魚どころかイルカもサメも見当たらない。ただ一人、灯子は何もない海の底へと走っていく。  もはや走ってすらいなかった。まるでねっとりとした粘土の中を歩かされているかのような、けれど粘土なんて例えでは足りないような、とても人間の足では前に蹴り出せないような重みが灯子の全身に絡みついていた。それでも灯子は走ろうとする。走らなくてはいけないと直感する。  どうして?  そんなのわからない。夢に理由なんてない。夢占いなんて気休め。きっとこの夢に意味はなくて、朝が来ればいつも通り目覚まし時計が灯子を起こしてくれて、そのすぐ後にアプリからの通知が灯子へ友達からの「おはよう」を教えてくれる。  ただ、それだけ。  ――灯子、なんか思い詰めてんの?  ただ、それだけ、の。  は、と小さく息を吐き出した。そうして初めて、灯子は呼吸ができることに気が付いた。けれど空気がそこにあったわけではない。吐き出したのは海水で、吸い込んでいるのも海水だ。試しに手のひらへ息を吹きかけてみれば、水圧がムウッと手のひらを押した。  海水で呼吸をしながら、灯子は立ち止まった。立ち止まれた。今まで何度も試みて一度も成功することのなかったというのに、今の灯子は何に苦労するでもなく立ち止まっていた。立ち止まって初めて、深海の中を走るよりも止まっていた方が楽だということに気が付いた。全身は疲れないし呼吸も上がらない。景色も変わらないからどこまで走り続けるのかという不安も起こらない。  灯子は走る夢を見始めてからようやく、自分の夢の中の静止した景色を見た。  海だ。それも、灯子が見てきたどの海とも違う、空も砂浜もない、青というより黒一面の水の塊だ。魚はいないしカモメもいない。漁船もない。何も見えないからそう思うのかもしれない。けれど、灯子だけがここにいる。  灯子がここにいることだけは確かだと言える。  あたしは、ここにいる。  灯子は立ち止まったまま目の前の海を眺めた。じっと、海を眺めた。  初めて、灯子は灯子の意思で夢の中の行動を選択し実行していた。  このまま何もせず黙り続けていたら、不意に走り出したくなるのだろうか。この暗闇から抜け出したいと思うのだろうか。わからないけれど、もしそう思ったら走り出そう。今の灯子は自分が走りたいと思った時に走り出せる確信があった。それは今までの夢よりも随分と心地良くて、けれど足を踏み出すタイミングの測り方がわからなくて不安でもあった。  チリリリ、と遠くから何かの音が聞こえてくる。そうして初めて、海の中が無音だったことに気が付く。  ふと。  うるさいな、と灯子は思った。夢の中で何度も聞いてきた夢の終わりの合図、朝の音、目覚まし時計のベル。今まで何とも思っていなかったその生活音がものすごくうるさく思えてならなかった。  もう起きなきゃいけない。あたしは試練の日々をまた一日過ごさなきゃいけない。  だけど。  ――また、ここに来れる気がする。  走る必要のないこの場所に。誰の声もない、何の音もない、この場所に。  今度は周囲を見回してみようか。歩いてみようか。踊ってみようか。歌ってみようか。横になってみようか。何でも良い、自分のための自分の行動をしてみよう。そう考え出したら夢の中とも思えないほどにわくわくした。  ベルの音が近付いてくる。大きくなっていくその音へ、灯子は耳を澄ませるように目を閉じた。
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