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吾輩は猫である。
来月でちょうど三歳になる、オスの飼い猫だ。
人間の年齢に換算すると、二十八歳といったところだろうか。いわゆる、結婚適齢期。
体毛の色は綺麗なオレンジ色。え? それは茶色だろうって? まことに失敬である。吾輩に言わせれば光の加減でそう見えるだけの話で、実際はオレンジ色なのだ。
吾輩の主人は二十歳の女性である。
だいがくせい、という名の職業をしている。日が昇ると忙しなく身支度を済ませて家を出て、帰宅時間はおおむね日が暮れたあとになる。ご主人様が帰ってくると、吾輩はしっぽをピンと立て、親愛の証を示して出迎えるのだ。
だが、ご主人様の帰りが多少遅くなったとしても、お腹を空かして飢えてしまう、なんて心配はご無用。
しっかり者のご主人様は、昼食を多めに置いていってくれるのだしね。
吾輩が住んでいる部屋は、マンションの三階「ニーエルディーケー」だ。ご主人様がそう言っていた。とはいえ、ご主人様は毎日部屋に鍵をかけて出て行くのだから、本当に三階かどうかは確認のしようがないのだけれど。
だから吾輩は、いつも待ちぼうけ。部屋の中で独りぼっちで一日を過ごす。
そんな吾輩の唯一の話し相手と言えば、時々バルコニーにやってくるカラスだろうか。
『君は、毎日閉じ込められてばかりで、かわいそうだなあ』
などと、ガラスを隔てた場所から、惚けた調子でそんなことを奴は言う。見当違いも甚だしい、と吾輩は余裕綽々こう返す。
『かわいそう、なんてことがあるか。吾輩のご主人様はとても美人なのだ。毎日抱きしめられるこの至福。君には到底わかるまい』
もっともこれは猫基準での評価であり、人間の尺度で測っても、ご主人様が美人かどうかはわからない。
だが、そんなことなど些末な問題。吾輩は、ご主人様のことが大好きなのだから。
特に吾輩のお気に入りなのは、ご主人様の匂いが染み付いたまくら。ご主人様が帰ってくるまでの時間、まくらのみならずベッドの上まで全部一人占めなのだ。羨ましかろう?
ところが今日は、ご主人様の様子がおかしかった。
帰ってくるなり、吾輩のことを強く抱きしめた。ぎゅっと、ぎゅっと両手で抱きしめた。いや、ここまではむしろ普段通りだろうか。違うのは、ご主人様が泣いていること。
──ご主人様? どうして泣くの?
浮かない表情をしているご主人様を観察しながら、吾輩は必至で涙の理由を考えた。しばらく考えたのちに、ご主人様が泣いている理由が『失恋』なのだと確信に至る。
ご主人様は、大学生の彼氏の話をよく吾輩に語ってくれた。
どうやら、あの男と喧嘩別れをしたらしい。
──泣かないで、ご主人様。
──ご主人様には吾輩がいる。
その後も、ご主人様の涙が枯れることは夜半過ぎまでなかった。長めのお風呂からあがったあとも、濡れた長い髪を乾かすことなく、そのままご主人様は床に就いた。お気に入りのまくらから漂う甘い香りも、今日はちょっとだけ切ない涙の匂い。
笑って……欲しいにゃあ。
どうしてあげることもできない自分の無力さに歯がみしながら、暗い部屋のなか、吾輩も丸くなって眠りについた。するとあら不思議。ふと目が覚めた吾輩の体は、いつのまにか人間の男の物に変化していた。
「あなたは?」
目を覚ましたご主人様が、瞳を瞬かせて首を傾げた。
「吾輩は──」そう答えようとして、途中で発言を差し替えた。
『僕は、あなたのことを愛しています。あのような白状な男のことなど忘れて、僕と一緒に暮らしませんか?』
泣きながら、吾輩の胸に飛び込んできたご主人様。長い髪をすくようになでながら、わきあがる喜びに全身がうち震えた。
こんな日がくればいいなと、ずっと思っていた。吾輩がご主人様を幸せにしてあげるんだにゃあ。そして──。
僅かに開いたカーテンの隙間から差し込んでいる朝日。
なんだ──夢か。
翌日は日曜日。ご主人様が昼食の準備を進めていくさなか、テーブルカウンターの上の携帯電話が着信を知らせる。
とたん。ご主人様は、ぱっと笑顔の花を咲かせた。
上機嫌に変わり、歌を口ずさみながら綺麗な洋服に着替えをすませると、吾輩の頭を撫でてから溌剌とした様子で外出していった。
そうか、と唐突に吾輩は思う。今まで通りの日常が戻ったんだと。
おめでとう、ご主人様。
ご主人様の幸せこそが吾輩の幸せなのだから、これでいいのだ。吾輩はそう嬉しく思うと同時に、ちょっとだけ寂しい感情にとらわれるのだった。
窓から差し込む朝日に目を眇めると、ガラスを一枚隔てた向こうがわ。カラスの奴が「カア」と鳴いた。
~おしまい~
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