竜と妻

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 その洞(あな)には、竜と妻の二人きりがあった。  竜は妻に問うた。 「なぜ動かぬ?」  妻は答えず、ただじっと竜を見詰めた。 「なぜ話さぬ? なぜもう何日も、我の言葉に答えてくれぬのだ」  妻はやはり答えない。ただ黙ってその場に寝そべっているだけで、指先一つ、動かしてはくれなかった。竜は目の上にある、柔らかい鱗を寄せて、呻いた。 「よもや、恨んでおるのか。そなたをかどわかした我を。あの幼きときより、ずっと恨んでおったのか」  問いかけながら、そうに違いないという確信があった。  憎まれてもやむを得ないと思う。  竜が妻を見初めたのは、妻が十二になったころだった。雛鳥のように小さく、愛らしい娘であった。羽を休めていた竜に恐れることなく歩み寄り、木の芽みたいな指先で、黒鱗を「きれいね」と撫でてくれた。だから竜は娘を拐(さら)った。竜は求愛の言葉を知らぬ。その娘を愛おしく思ったなら、拐うほかになかった。  失神した娘を住処に連れ込んだ。そしてここで暮らすよう強要した。  妻は泣いていた。親が愛しかった違いない。好き合った男があったやもしれぬ。それでも竜は妻を帰さなかった。  二日が経った頃、妻は竜に問うた。 「あなた様は私を食らわぬのですか」  竜は驚いた。 「ばかを言うな。そなたは我が妻だ」 「ばかをおっしゃる。ヒトが竜の伴侶になれるものですか」  妻は気丈に言い返してきた。 「竜とヒトとでは子ができませぬ。あなた様はさっさとわたくしを食うてしもうたほうが得でございます」 「……食うてしまわれたいのか?」 「ええ、食うてしまわれとうございます」  娘はきっぱりと言いきった。 「竜の妻としての生など、幸福であろうはずがありません。女の悦びもしらず年老いて、醜く朽ち果てていくのは嫌でございます」 「……大切にする。我に思いつく限りの悦びを、そなたに与えよう」 「結構でございます。食ってください。殺してください」  妻はかたくなだった。拗ねたような顔も愛らしかったが、あまりの意固地さに竜もまた意地になった。 「わかった、そなたの望み通り食い殺してやる。しかし我が妻たるもの、不幸になることは許さない。我はそなたが最も美しく最も幸福なとき、その命を齧り取ることにした」  妻はフンと鼻を鳴らした。そんな仕草も愛おしかった。  竜はヒトのことをよく識らない。  ヒトが生きていくのに何が必要なのかもわからなかった。  妻を迎えて三日目の朝、妻は無言のまま真横に倒れた。何の病かと問う竜に、妻は「空腹で目が回っているに決まってるでしょう」と怒鳴った。なるほどヒトは飯を食わねばならぬのかと、とりあえず兎を狩ってきた。しかし妻はまた怒った。 「ヒトが獣の肉を生で食っては腹を壊すわ。そんなことも知らないのか、このどあほう」  竜は慌てて火を熾(おこ)した。  それからというもの、妻は何度も体調を崩した。やれ野菜や果物も必要だ、日光に当たらねば生きていけない、運動しないと足が腐るだのと、文句ばかりであった。  妻自身、不調を感じて初めて識ることが多いようだった。妻もまた幼く、竜はそれに輪をかけてものを識らなかった。妻が生き続けるには、夫婦で知恵を絞る必要があった。  毎日毎日が手探りだった。毎年毎年が暗中模索であった。暗闇の中で手を取り合い、どうにかこうにか、夫婦は月日を重ねていった。 「……悪いことをしたなあ。苦労を掛けたなあ」  竜はしみじみと思う。今更ながら、妻に詫びた。 「ごめんなあ」  その言葉は、妻から教わったものだった。悪いことをしたらこう言って謝るのだと。  反面、竜が妻に詫びを求めることは何もなかった。竜にとって、妻との時間はすべてが芳しいものであった。妻との暮らしはすべてがおもしろかった。竜の図体がでかいからと蹴飛ばす妻、熱にうなされ虚空を掻く妻、「あんたのうろこ、ひんやりして気持ちがいいね」と頬を寄せる妻、そのすべてが愛らしく見えた。  そしてきっと、妻にとってもそうであろうと思っていた。竜の目には、妻がいつも輝いて見えた。不幸な娘があんなに美しいわけがない。我を愛しておらぬなら、こんなに笑ってくれるはずがない。我らは愛し合っている、と思っていた。  しかし……今、妻は、竜の呼びかけに答えもしない。竜は初めて、妻の愛を疑った。そして深く後悔した。 「ごめんなぁ……我はやはり、そなたを幸福にはできなかったようだ。ごめんなあ」  竜が言うと、妻は二度、瞬きをした。これは妻が竜を諫めるとき、つまりは竜が間違っているのをたしなめるときにやる仕草だ。共に暮らし始めて二十年目に、やっと気づけた妻のクセだった。  竜は困惑した。 「我を憎んでおらぬのか」  妻は一度、ゆっくりと瞬きをした。これは「そのとおり、よくわかったわね」と納得したときの妻のクセ。三十年がかりで理解したのだ、間違いない。  竜はますます困惑し、白くなった妻の髪を、尖った爪でそうっと梳ってみる。しかし妻は動かなかった。 「ならば……なぜ、我の鬣を撫で返してくれぬのだ」  妻は悲しそうに目を閉じた。  竜も悲しい気持ちになった。  妻がこんなに悲しい顔をしたのは見たことがなかった。十二の歳にかどわかしたときですら、妻はもっと気丈なようすで、竜を睨みつけていた。  妻が二十歳前のころ、慰みに飼っていた鳥が死んだ。そのとき妻はたいそう悲しんでいた。  しかし妻が四十を過ぎたころ、妻の故郷が土砂に飲まれた。おそらくは妻の親も兄弟も土の下に埋まったと思われたが、妻は静かに涙粒を落としたきり、泣き叫びはしなかった。 「命は必ずいつか尽きるもの。彼らはこれまで幸福に生き、そして死んだ。遺されたものは彼らの不幸を嘆くのではなく、幸福であっただろう彼らの生涯を喜びましょう」  竜はこのとき、妻の言うことがよくわからなかった。  大地と同時に生まれた竜にとって、『死』とはもっとも遠いものだった。  老いも病もわからぬ。しかし『生』だけはわかる。それは幸せなことだ。そして美しいことだ。楽しいことだ。  生きている妻はいつも幸せそうに見えた。白いものが混じった髪も、少々形が変わってきた顔や体も美しかった。妻との暮らしはいつだって楽しかった。  娘が最も美しく幸福である時、その命を齧り取ってやる――かつてそう言ったのは、売り言葉に買い言葉の脅しではなかった。  本当にそうしてやろうと思っていた。  しかし去年よりも今年、昨日よりも今日、妻はひたすらに美しくなっていった。そして去年よりも今年、昨日よりも今日のほうが幸せそうだ。だからきっと、来年よりも再来年、明日よりも明後日、そうであろうと思っていた。  それが最高潮になった日、我は妻を食らい、ひとつになろう――そう思っていた。  毎日がただただ幸福であった。それがずっと続いていた。竜にとって何も変わらない日々、少しずつ姿を変えていく妻――。  そして今……妻は白く薄くなって、竜の前に横たわっている。  そこで竜は思いついた。 「もしやヒトというものは、長く生きているだけで、死ぬのか?」  半ば独り言のような呟きに、妻は一度、瞬きをする。竜は息を呑んだ。 「では、そなたはもう死ぬのか」  妻は、眞白になったまつげを震わせ、目を閉じた。  かすかに微笑みを浮かべている。その姿はやはり美しく、これまでともに生きてきた中で最も幸福そうであった。  妻の目は閉じたままになった。竜の問いかけに瞼を震わせることもない。浅い呼吸に上下していた胸も、やがて動かなくなっていった。  命というものが尽き、妻は一握の肉塊となった。  それから長い年月が経った。妻の肉は腐り、溶け、土塊となった。それでも竜にとって、妻の美しさは変わらなかった。妻のにおいが風化してゆくにつれ、愛おしさは増すばかりであった。  目を閉じれば、幸福そうに笑う妻の姿があった。  叶うならば声を聞きたい。触れたくて、触れてほしくて、切なくて、恋しくて恋しくて、ずっと愛おしくて、虚空に浮かぶ幻にいつ齧りつけばいいものかわからなかった。  果てしなく続く刻を、竜は瞼の裏にある、愛しい妻とともに暮らした。
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