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普通の斎藤
斎藤は、まったくもって普通の男だった。中流階級の家に生まれ、容姿も普通、勉学も普通。地元の普通の大学を卒業後、東京で普通のサラリーマンをしている。斎藤と街ですれ違って、彼の顔を思い出せる人はない。とはいえ、思い出せないことに気づく人もまたない。誰も斎藤を気に留めないのだ。かといって、影が薄いとか、この世に存在しない幽霊なんてことはない。東京という街の背景として、交差点を埋め尽くす人混みの一パーツとして、そこに配置され、会社とアパートを行き来するだけの存在。それが斎藤だった。
斎藤は、自分が普通であることに気がついていた。そして、自分が普通であることをあまりよく思っていなかった。斎藤は変わろうとしていた。思えば、斎藤の人生は平坦なものであった。下りもなければ上りもない。斎藤は、生まれて初めて船を漕ぎ出そうとしていたのだ。しかし、その決心こそ、上京したての成人男性の普通の考えであることに斎藤は気づかなかった。斎藤はそのあり余る情熱を、部屋の掃除に費やした。
ホコリひとつない部屋の真ん中で斎藤は腐っていた。こういうことではないのだ。もっと一瞬で人生が変わるような、何か。斎藤の若さは無意味の焦りを生み出し、深夜の静けさはそれを加速させた。斎藤は、普通の人であるので、努力が嫌いだった。特に、結果の保証されない努力が大嫌いだった。無気力と気力のせめぎ合いで、斎藤は眠れなかった。
次の日、一睡もできないまま迎えた土曜日の朝はとても気持ちの良いものであった。目的もなくアパートを出て、公園に向かう足取りはとても軽かった。まだ朝早いというのに子供たちが遊んでいた。ベンチ脇の自動販売機は太陽の熱を帯び、缶コーヒーの冷気を際立たせている。騒がしい子供たちのごっこ遊びを見るでもなく眺めながら、斎藤はこれからのことを考えた。しかし、降り注ぐ強い日差しとセミの鳴き声は、斎藤の思考を瞑想にも似た無意識の世界へ追いやる。その時、斎藤は休日の夏の公園という概念へ溶け込んでいた。
土曜日はあっという間に過ぎた。夜、斎藤はまたも焦っていた。何も成さなかった一日は、その日の反省をすることすら許さない。今日という日の思い出を八十年分引き伸ばして、斎藤の人生は終わるのだ。そう思うと斎藤は恐怖を感じた。広い宇宙空間の中で一人、視線の置き場すらない闇の中、さみしく彷徨い続けるような錯覚を覚えた。斎藤はまたも眠れなかった。
外はとうに明るくなっている。斎藤は苛立っていた。もう二晩も寝ていないのだ。そして、その時間は何も生み出さなかった。貴重な二十代の数十時間はまったくの無駄だった。斎藤は手元の枕を投げた。叫んだ。こんなことは今までなかった。焦りと恐怖だけが斎藤を支配していた。窓からさす光が無性に腹立たしかった。暗い部屋の隅が照らされて、そこから何かが這い出てくるような気がした。背後に気配を感じて、慌てて家を飛び出した。斎藤は公園へ向かった。なぜか、走っていた。焦っていた。太陽が照りつける。全速力で走って、疲れて、坂道で立ち止まる。心臓のドキドキという音が頭に響く。頭が痛い。怖い。急がないと。自分でも何がしたいのか分からない。また、走り出す。怖い。汗が吹き出し、シャツが張り付いてくる。気持ち悪い。息が切れる。呼吸の乱れが焦りを加速させる。頭の中で誰かが叫んでいる。何かを追いかけながら、何かに追われている。
声にならない声をあげて、息を切らして公園に着く。涼しい風が吹いた。公園では、昨日と同じように子供たちが遊んでいた。誰もが不安を抱いていない。真っ直ぐに笑っていた。誰も斎藤に気づいていない。子供たちは彼らの想像の世界に夢中になっている。斎藤はしばらくそれを見つめていた。斎藤は何故か涙が止まらなかった。公園の中は時間がゆっくりだった。斎藤の呼吸だけが、はやかった。頭の中はとても静かだった。何かに背中を押されて、走り回る子供たちのもとへ、斎藤はゆっくりと歩いていった。斎藤はそれからのことを何も覚えていない。
気づいたら、サイレンの音が聞こえてきた。公園の真ん中で、斎藤は立っていた。傍には子供の体が転がっている。顔があるべきところは真っ赤になっている。可哀想な姿だ。斎藤の周りを警察が取り囲み、地面に叩きつけられた。痛みがやけに鮮烈だった。手錠の感触がとても冷たかった。パトカーに乗せられ、窓越しに斎藤のアパートを見た。築三十年の建物はボロボロで、あんなところに住みたくないなと思った。
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