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私はその時、なぜ首を横に振ったのか。
「言わない」
となぜ、言ってしまったのか。
私が自分には逆らえな従順な下僕だ、と悟った中尾は途端に友好的な笑顔になって私の肩を抱いた。
「おい、圭太。今度、安藤さんが発情期ヒートに入ったら教えろよ。見舞いに行くからさ」
「でも……あなたは」
「いいんだよ、細かい事なんか。さっき言ったろ?俺は安藤さんが好きなの。そんな俺がさあ……酷い事なんてすると、思う?」
「いえ……しないと思いますけど」
「じゃあいいじゃねえか。うん、決まりな」
そう言って中尾は私の胸ポケットに、万札を数万、入れた。
オメガの発情期は、人によってまちまちだそうだ。
発情のサイクルが短くて一か月、長くて三か月。時には半年、というオメガもいるそうだ。
彼が初めての発情期に突入したのは、一か月半後の事だった。
私が朝起きると、妙な匂いがした。
むせかえる、花のような匂いだ。
嗅いだことがある、そう思った瞬間にこれはおじさんの匂いだ、という事に気が付いて慌ててベッドサイドにあった興奮抑制剤を口にした。私が彼に興奮してしまってはどうしようもないからだ。飲んでから三十分ほどして、効果が出そうだと思った時にドアを開けると。
匂いが、充満していた。
それは獣の残り香のようでもあり、女から香る体臭と石鹸が入り混じった魅惑的な質感の匂いでもある。
嫌な匂いではない。
だが、おかしくなりそうな匂いだった。
「おじさん、大丈夫?」
私は彼の部屋の扉の前で呼びかけると、返事はなかった。
思い切って私はドアを開ける。
すると、おじさんはベッドで寝ていた。
寝ていたのだろう。
私は濃厚な匂いにぐらり、として眩暈のような感覚に襲われた。立っているのも精一杯で、目も開けられなかった。
(これが、オメガの発情期か。普段出会うオメガは薬を飲んでいるから……なんとかして、薬を)
そう思っても、どうにも身動きがとれない。下手すれば。考えたくもないが。考えたこともないのに。
私がおじさんを、犯してしまいそうだった。
私は慌てて廊下に出る。
このままでは、ミイラ取りがミイラになってしまう。
さて、どうしたものかと思っていると、携帯電話が鳴った。
ディスプレイを見てみると、中尾だった。息を整えてから電話に出ると、開口一番に中尾が言った。
「どうした?」
「え?」
「いや……安藤さんに電話かけたらさ、電話をとるんだけど、何も話さなくてさ……それですぐに切れて……そこから電話してもうんともすんとも言わねえもんだから、なにかあったのかと思って」
「それが……あの……今、中尾さんが来たらまずいと思います」
「ん?」
「じつは」
「もしかして、発情期か」
「はい」
「すぐ行くわ」
そう言って、通話が切れた。
まさか、来るのだろうか。
ベータの私でも身動きの出来ないほどの匂いなのに。
この匂いをごまかすために窓を開けたり換気扇をつけようかとも思ったが、外に開け放った匂いが誰かの鼻をくすぐったりしたら。そんな思いが脳裏をよぎって、結局換気はできなかった。
三十分も経たないうちに中尾が家にやってきた。
「すげえ、匂いだな」
中尾は眉をしかめたが、彼は平気な様子だった。
「中尾さん、平気なんですか」
「ん……?ああ、抑制剤を飲んできたから。それもきつい、やつ」
「そうですか、すみません。私は……」
「お前が飲んでるやつ、病院で最初に処方されるやつだろ。この匂い、そんなんじゃ効かないぜ。多分、安藤さん……体の変化が追い付かなくて、濃くなってるんだ」
「濃く?」
「うん……、本当はここまで匂うやつはそうそういないんだけど。まあそんなことはいいや、部屋に案内してくれよ」
中尾がそう言うので、案内すると中尾はずかずかと部屋に入り込み、ベッドに寝ているであろうおじさんの顔を覗き込んで「あーあ、キマってんなあ」と言って笑った。それから彼が身に着けている寝間着を剥がしながらこう言った。
「とりあえず汗で濡れてるから体を拭こう。圭太、お湯を沸かしてさ、持ってきてくれないか。後タオルと、あれば栄養ドリンクな」
「はい、解りました」
私は素直に頷いて、お湯を沸かし、バケツに入れた。栄養ドリンクはなかったがスポーツドリンクはあったので、これでもいいかと言う気になってそれを小脇に抱えておじさんの部屋に入った。
入った瞬間、私は後悔した。
なぜ、私は中尾のいう事を聞いてしまったのだろうか。
なぜ、私は中尾を家に上げてしまったのか。
よく解らない。ただ、中尾を信用してしまった。
一番、信用してはならない男を、信用してしまった。
私の目に映ったのは。
おじさんを正常位で犯している中尾の姿だった。
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