私の説明書

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私の説明書             自分でこんな人間だと思ってしまえばそれだけの人間にしかならないのです。byヘレン・ケラー              私は日本三大都市の中の一つとある都市の隅っこの田舎で生まれました。私が生まれた時は両親は離婚してました、母親はギャンブル依存症で借金まみれ父親はその借金を返すのにやっと。3人の兄がいて一番上の兄とは14離れていました。私が生まれた時は長男、次男は年子で地元でも1.2を争う不良でした。三男坊はまだ5才でいつもわんわん泣いていました。そんな中私が生まれました。順調に産まれれば良かったのですがなんと私は10万人に一人の心臓病の難病で産まれてしまいました。三せん弁閉鎖症という難病でした、そこから母親は私に付きっきりで私は生まれてすぐ入院生まれてから28日目に最初の手術をしました。そして2歳頃に2度目の手術、最初の記憶は病棟で同じ病気の子供と親達、看護婦さんたちとクリスマス会。確か主治医がサンタの格好をして途中から乱入、私以外の子ども達はサンタさんだ!とかプレゼントをもらって浮かれていました。だけど私は三男からサンタなんかいないといらない情報を教えてもらっていたのでどうせ松島先生だろ、ほら、ちょっとハゲてるやんなどとこころの中で思いながらその場の雰囲気やがんばっている松島先生に悪いと思いみんなとはしゃぐ演技をしていました。今になってみれば可愛くない子どもだなぁと思ったりします、それだけではありません確かそのクリスマス会の記憶が4才頃だと思うのですがその頃から私にはなんか根拠のない自信みたいなものがありました。ちなみに当時38年前の三せん弁閉鎖症の10年生存率は確か10パーセントもなかったと思います。ですが今に思えばその4才の時は勿論生存率とか知りませんでしたが私は長生きできるとか学校行けるとかなんかよくわからない自信がありました。そしてしばらくして退院できました。それからしばらく母親と三男と私の3人で平和に暮らしていました。だが突然ある日、次男が猫を引き連れ勝手に一緒に住みだしたのです。離婚後、長男次男は父親に引き取られていましたが突然来たのです。その日からは散々でしたか。次男は母親や三男に暴力を振ったり三男をパシリに使ったりやりたい放題でした、そのうち三男は母親の知人の家に住む事になりました。私にまで暴力を振るうようになりました。そしてある日私が玄関先で遊んでいたらいきなりドカッと音がしました。部屋に戻ると母親は倒れていました。脳梗塞でした。その後、私は母親の妹つまり叔母と暮らす事になりました。叔母は私と養子縁組をしてくれて我が子のように接してくれました。幼稚園も半年だけですが行かせてくれました。そして小学校も行かせてくれて市営住宅に住む事になり幸せでした。        家が貧しくても体に障害があってもくじけてはいけません。今自分の周りにある人や物事は自分が作り出した影と知りなさい by野口英世             市営住宅で私は叔母と暮らしながら成長していきましました、叔母は犬好きで犬を二匹飼っていましたそれはいいんですが叔母は犬のうんちや尿を片付けないのです。たまに片付けるだけそんな生活だから私はだんだん犬臭くなりました。小学校5年の頃からクラスのみんなから犬臭い、うんち臭いといじめにあうようになりました。いじめは散々なものでした。○○菌とか机とかに触らないで菌が移るなど、そして菌とか言いながらクラスの不良達からの暴力、上履きには画びょうを入れられたりそれはひどいものでした。それが約2年間続きようやく小学校卒業をしました、次は中学です、あぁまたいじめられるのかなと思うと嫌になりイメチェンしようと思いました。小学校までは坊主頭でしたけど髪の毛を伸ばして明るく振る舞おうと思って中学に入学しました。幸いいじめてた人とは同じクラスにならずにほとんど知らない人ばかりでしめしめと思い入学してしばらく様子を見ながらおちゃらけていました。そして私はクラスの人気者になりました、しめしめと思いながらおちゃらけて部活は美術部に入り部活でもほとんど活動なんかしなくて何故か筋トレしたりテレビのバラエティ番組のマネして遊んでいました。そんなこんなで3年が経ちその時には学年中の人気者でした男子オンリーだけども、私が面白いのでほぼ毎日10人ぐらいで下校していました、やっぱり自分が変われば周りも変わるんだなぁと思いながらそして卒業しました。次は高校です、私は勉強はできなくて家の近くのその地域では一番偏差値の低い高校にしかも推薦で入学する予定でした。私立高校でした、私立高校なのでお金がかかりますある日叔母が私の眼の前で親戚や兄弟に私の高校の入学金を借りる電話をしていましたことごとく断られて私は心の中でもう高校はいいや。俺には夢がある。芸人になりたいと思い結局高校は行かずじまいになりました。           夢は逃げない逃げるのはいつも自分だ。by誰か忘れました。           中学を卒業した時には私は叔母とは住んでおらず父親と暮していました。それは何故かというと叔母は事業に失敗して多額の借金を背負っといてそのせいか私の面倒も見ないで給食費でさえ払えなくなっていてある日の心臓の定期検診で栄養失調と診断されるくらいあまり食べ物も食べていなくていわゆるネグレスト状態だったから私は自分で父親の家に助けを求めました。その頃には3人の兄貴達は独立していました。それで私はファーストフード店でアルバイトしながら中学校で仲が良かった友達とコンビを組み吉本養成所に入学しました。笑龍の誕生です。最初私達はボケ・ツッコミではなくボケボケでやっていました、よく作家の先生からはネタを見せていましたがお前らボケボケだから笑い所がわからん!どうゆうことや!などと叱られていました。そんな形で芸人をやり1年が過ぎあるとき一期先輩の京都出身のツッコミの人が君達面白いねとなんと私達と組みたいと言って来たのでツッコミが欲しかった私達は是非入って下さいとなんとトリオで漫才やコントをするようになりにそしてみるみるうちにレギュラーまで上り詰めました。私は他の芸人のネタを見て絶対俺のほうが面白いわとまた根拠のない自信を持っていました。そしてなんだかんだで約3年間芸人をしました、その時のバイトはスーパー銭湯の宴会場のウエイターでした。3年が経ち18才になっていました。そして3度目の手術がありもう芸人はできないと思いやめました。今になれば心臓病を盾に逃げた気がします。3度目の手術も無事に終え芸人もやめて心にぽっかり穴が空きました。それ以後2年間は何にもならないせずに家に引きこもりニート状態でした。そして二十歳の時に4度目と最後5度目の手術をしました。これはキツかったです。最初の4度目の手術が失敗したかなんかわかりませんが血流が逆流してしまいサチュレーション(体内酸素)が50にまで下がってしまって本当にしんどかったです。参照に通常の人間はサチュレーションは95以上です。50って言うのはエベレスト山頂と同じぐらい空気の薄い所にいると一緒です。本当にきつかったです、そんな状態なのですぐ5度目の手術に取り掛かることにしましただが日数が2週間後でした。2週間もサチュレーション50でいるのは本当に地獄でした。ご飯は食べれないし痩せすぎて体力も落ちてベッドから起き上がるのがやっとでした。そして2週間耐え抜いて5度目の手術が成功してリハビリもがんばってやっとの事でサチュレーション90までいくようになりました。         生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ。byシェイクスピアハムレット       そして退院になりましたが私は精神を病んでいてどうしても一人で暮したくなり障害年金と福祉のちからをもらい一人暮らししました。その一人暮らしが13年間続きます、その間も地獄でした体は楽になりましたが心が疲れ果ててしまい自殺未遂も何度か経験しました、酒、タバコもしました。毎日浴びるほど酒を飲みタバコを暇さえあれば吸っていました。はっきり言って廃人でした。病院にもいかず薬も飲まずカーテンは昼間でもしめきってお風呂にも入らずただただお気に入りのDVDを何回も何回もリピートして見ていました。そんな生活が13年続きました。         一寸先は光 by自分         そして今から約4年前、34歳の時とあることである女性と知り合いました。その人が妻です。出会いのできっかけは妻が言わないでと言うので言いません。妻はまさに希望の光でした、妻と出会ってなかったら今の私は居ませんでした。まぁしょっちゅう喧嘩するんですが喧嘩するほど仲がイイではありませんが今の所仲良く過ごしています。約38年間生きてきました。10才までもたないと言われていたのに…今思えばいい思い出もあれば嫌な思い出も沢山ありました。本当、一寸先は光です。皆さんも特に若くて健康な体をもってる人に言いたい。もし夢や希望があるのならそれを目指して生きて下さいなんの為に生まれたのかよく考えて下さい。幸せになるためです。家が貧しい人でも病気もってる人でも諦めず頑張って下さい。人生何が起きるかわかりません。さぁ次の扉を開きましょう。恐れないでほんの少しの勇気で人生は変わります。私も今こうして自分の自伝を書きました。どうか一人でも多くの人に読んでもらいたいです。私も人生まだまだこれからです、私にはなんかわからない自信があります。多分長生きできる!タバコ吸ってるけど長生きできる!それに今の私には夢があります。そう、小説家になることです。
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