空飛ぶ中年

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空飛ぶ中年

ある田舎町に、中年の男性がいた。 中年は小太りで、頭の毛も薄くなり始めている。 中年は原動機付自転車、いわゆる原付バイクで会社に向かっていた。 中年の仕事は、携帯ショップ店員だ。 現代ではスマートフォン、すなわちスマホが主流となり、旧型の携帯電話、所謂ガラケーを購入する人はほとんどいなかったが、中年はスマホを持っておらず、未だにガラケーを使用していた。 中年はショップ店員であるがガラケー専門のため、販売成績はいつもビリで、販売数が多いほど給料も多くなる歩合制を導入しているため、入社ニ年目の後輩よりも給料が低いこともあった。 ある日、中年は、他県から異動してきた新しい年下の店長に嫌われてしまい、毎日罵倒されても、それでも会社を辞めなかった。 辞めない理由は特に無かった。 あるとすれば、会社を辞めて新しい仕事を始めるのが億劫だったからだ。 そんな中年にも趣味があった。 それは、写真を撮ることだった。 友達は一人もおらず、お酒やギャンブルなども一切しなかった。 給料は、アパートの家賃と食費とガソリン代と水道光熱費以外では、カメラだけに使った。 原付しか持っていなかったしガソリン代を浮かすために、遠くには行けなかったが、地元を歩き、何気ない風景を撮るのが好きだった。 そんな中年にも、家族ができた。 奥さんも写真を撮るのが好きだった。 たまたま公園の夕焼けを撮っていたのが同じで、それで知り合った。 奥さんの方からアプローチがあり、二人は結婚することが決まり、やがて男の子が一人産まれた。 幸せそうに見える家族だったが、中年は愛された記憶が無く、人の愛し方を知らなかった。 中年が幼い頃、両親は離婚しており、中年は親族をたらい回しにされ、酒を飲んだ義理父にいつも暴力を振るわれ、時には朝から夜暗くなるまで公園にずっといて、時間が経過するにつれて風景が変わるのを見ているのが楽しかった。 だから、中年は奥さんや子供といるより、幼い時のようにただ一日中、外に出て風景を眺めているのが好きだった。 そんな中年が会社へ原付で出勤中、国道をまっすぐ走っていた時だ。 左側の道路から一旦停止を無視した車に激突された。 中年はそのまま飛ばされた。 ドサッと大きな音がして、ハッと気が付くと、中年は空を飛んでいた。 下を見ると、おそらく自分であろう人が血だらけで倒れていて、周りにたくさんの人が集まってきて、程なくして救急車のサイレンの音が聞こえた。 中年はそれらを高い空の上から見ていたが、やがて、自分で飛ぶ方向が操れることを知った。 中年は今まで行ったことのない、隣の県まで飛んで行った。 そこには見たことのない大きなビルや大きなショッピングモールが見えた。 それから更にまっすぐ進むと、今度は大きな山がたくさん見えた。 山道には登山する人たちが見えた。 中年はそんな風景をずっと見ていたいと思った。 次に見えてきたのは大きな海が見えた。 山に囲まれた田舎町で育った中年は、海を見たことが無かった。 太陽の光が海に反射されて、キラキラと輝いていた海を見て、中年は初めて涙を流した。 自分の涙が出たことに驚いた中年は、サッと腕で涙を拭き、もっともっと遠くへ飛んで行った。 小さな島や船がたくさん見えたが、中年は立ち止まらずに、それらを眺めながらどんどん遠くへ飛んで行った。 しばらく海が続いたあとは、また大きな大陸が見えた。 そして大きな港町が見えて、大きな建物がたくさん見えた。 大きな街にはたくさんの人が見えた。 中年はもっともっと遠くへ行ってたくさんのものを見てみたいと思った。 だが、その時、空の上から中年の名前を呼ぶ声が聞こえた。 中年のお母さんの声だと気が付くまでしばらく時間がかかったが、何度も呼ばれる声を聞いて、中年は幼い頃の記憶からやっと思い出した。 ふと目を開けると、看護師さんが驚いた顔をしながら先生を呼びに行った。 左腕と左足のギブスのまま、MRIと呼ばれる機械に入らされたりといろいろな検査を受けて、退院することが決まった。 中年はもう空を飛べなくなっていたが、あの時見た光景が忘れられなかった。 家に帰ろうとすると、ふと思い出したことがあった。 奥さんと子供はどうしたのだろうか。 そういえば入院中に一度も顔を見ていない。 中年はアパートに帰り、奥さんと子供の荷物が無いことを知ったが、そんなことよりも、あの時に見た光景を、もう一度自分の目で見てみたいと思った。 幸い、貯金は引き出されていなかったため、クレジットカードを持ち、パスポートを申請しに向かった。 申請してからパスポートが手に入る一週間が、とてつもなく長く感じたが、カメラの手入れや充電池の予備を買ったりしていると落ち着けた。 事故の日から会社へは行っていないが、事故の時に壊れたガラケーのあとは買っていないため、誰からも連絡が無く、中年の家は誰も知らなかったので、分からなかった。 もちろん、給料も振り込まれていないが、中年は気にしなかった。 やがてパスポートを受け取ると、すぐに原付で駅まで走らせて、新幹線で空港へ向かった。 飛行機の予約の仕方も分からなかったので、受付にて当日便を予約する。 幸いなことに4時間後のフライトがあった。 中年はとてもワクワクしながら初めての飛行機に乗り込んだ。 飛行機の窓から見える大陸や海は、あの時見たのと同じで、とても幻想的だった。 中年は途中数時間のフライトもあっという間に感じ、到着するなり、たくさんの写真を撮った。 中年はあの事故の日、空を飛んだ不思議な体験をした際の光景を思い出しながら、一枚一枚写真を撮っていった。 〜〜〜〜〜〜 ある国に、中年がいた。 中年は仕事も家族も無かったが、それでも、心は充実感で一杯だった。 やがて中年が年老いて亡くなった後、唯一の遺品であるカメラを一人の男性が引き取り、その男性が経営している美術館で、中年が撮った写真を飾ることにした。 同じ風景の写真でも、時間が経つにつれてまるで別の場所に見える。 それは、中年がこれまで生きてきた「今」を撮り続けていたのだろう。 中年に良く似た男性は、目に涙を浮かべながら写真一枚一枚を丁寧に見終えた後、どの写真を飾ろうか考えていた。 以上です。 読んでいただきどうもありがとうございました。 中年が「もうええっちゅーねん!」と言った。 をオチにするつもりで書き始めましたが、どう転んでもその展開が浮かばなかったので、こういったラストにしてみました(笑) 気が向けばそんなオチバージョンも書いてみたいですね。
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