夏の話

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夏の話

「良かったね」  肌を焦がす熱がじりりと音を立てる。健康的に焼けた肌を惜しみなく曝け出す海青に対して、櫟の細く長い腕は黒い布に覆い隠されていた。麻で織り込まれたシャツは肌馴染みも風通しも良かったが、外出してから二時間。僅かに汗を滲ませるだけの櫟に、海青は何度も繰り返し熱中症を心配する声を掛けていた。彼らが一緒に過ごす夏はこれで六度目となるが、いつまでも半袖を着ようとしない櫟の姿に、海青が慣れた様子を見せることはない。  そんな海青も、今は両手に抱え込んだ一冊の本に夢中である。袋に入れられていないハードカバーのそれは黒を基調とした表紙に、滲むような淡い光と僅かな波紋が広がっていた。デザインだけではホラー小説なのかと思えてしまうが、実際は胸が締め付けられて苦しくなるほどの純愛物語だった。  流石に歩きながら読むような危ない真似を実行することはなかったが、それでも裏表紙に白文字で書きこまれたあらすじに視線を寄越したり、真新しく癖のないページを捲ってみたり、花でも飛ばしそうな勢いだ。  ほろりと崩れていく頬を引き締めることも出来ず、海青は言葉もなく全身から嬉しさを醸し出していた。抱き込んだハードカバーから視線を上げようとしない海青を気遣って、いつもよりゆったりとしたスピードを心掛けている櫟はそっと笑みを溢す。  遊んでいそうな見た目とは変わって、海青の趣味は読書だった。ジャンルは問わず何でも読む姿勢は見せるものの、気に入ったもの以外に執着はない。読み終わると会社帰りにでも売りに行くおかげで、二人が寝室として使っている部屋には小さな本棚がぽつりと、忘れ去られるよう隅に置かれているだけだった。  すぐに売り払ってしまわなくても、とは櫟の言葉で、内容は憶えているから、と海青は多くを残そうとしなかった。本棚に置かれているのは特に好きだというミステリー物のシリーズがひとつと、惚れ込んでいるのだという作者のハードカバー数冊だけ。今日はその名前を見とめただけで買ってしまうという作者の新作が発売される日であった。  晴れ渡った太陽の下を歩くのは、例え五分であっても汗が吹き出してしまう始末。いつもであれば日も沈んで涼しさの増えた時間から出歩くような気温であったが、朝からそわそわと落ち着かない海青の姿に櫟は覚悟を決めていた。  電車を乗り継いで、普段は寄り付かない若者の街にまでやって来た。都内でも有数の大型書店まで辿り着いた頃には、海青の額にはびっしりと汗が浮かんでいた。それも室内の涼しい風に煽られて、目的の書棚を見つけたときにはさっぱりと消えている。  新刊コーナーの一番目立つスペースにうず高く積まれたハードカバーに、海青の瞳は一層期待に輝いていく。良かったね、と声を掛ける櫟にひとつ頷いて、颯爽と手を伸ばした海青の目に映ったのはサイン本、と書かれたポップだった。  なんでも、櫟とそこまで年齢の変わらない中堅どころの作者は、この大型書店にゆかりがあるらしい。元書店員です、と書かれた案内に感心したのは櫟だけで、海青はもうサインの書かれているだろうハードカバーに釘付けだった。  迷うことなくビニールに包まれたサイン本を手に取って、走り出してしまいそうな衝動をぐっと堪える。それでも早足になるのは止められなくて、混み合った店内をレジまで一直線に進んでいく海青の姿を、櫟は呆気に取られたように眺めてから、その可愛らしさに笑みを深くした。  会計が済んで自分の所有物となってからも、汗の滲む太陽の元に出てからも、海青の意識は買ったばかりの本に向かい続けている。すれ違う人の流れにぶつかりそうになっては櫟が腕を引いて事なきを得ていたが、人通りの多い交差点に出てしまってはそれも難しくなるだろう。 「そろそろ片さないと、危ないよ」 「分かってる、けど、さぁ」  渡ろうとしている交差点で信号が赤に変わり、櫟はそのまま直進してしまいそうな海青の裾を掴んでやることで足を止めさせる。期待に胸を躍らせる年下の恋人の姿は、書を習いに駆け足で来る小学生とよく似ていて、櫟はいつもとは違う幼い様子に笑ってしまう。  だけどこのままでは事故を起こしてしまう、と眉尻をぐにゃりと曲げ、宥めすかせるように声を漏らす。サイン本に意識を飛ばした海青からは宙に浮かんだような曖昧な声だけが返ってきて、視線は未だ手元に落とされたままだ。  何かに夢中になれること自体は良いことだ、と薄い素材のTシャツを掴んだままに櫟は思う。生業としている書の道は趣味としても兼ねられているが、それ以外に好きだ、と胸を張れるものを櫟は持っていない。たったひとつにしか意識を割けなくなった海青の姿に憧れさえ向けてしまえるが、こうも危なっかしいと宥めてしまいたくもなる。  さて、どうやって意識を逸らしてしまおうか。櫟も百八十を超える長身であったが、海青はそれよりも頭半分ほどは高い。暑さにも寒さにも弱い櫟を気遣うように、歩いているときでさえ頻繁に向けられる視線が書店に着いて以降はさっぱり無くなっている。違和感に櫟が淋しさを覚えてしまうのも無理はなく、危険だから、というのも言い訳染みた色を帯びる。  信号が変わるまであとどれくらいだろうか。人型の横で光る赤い点線は三つを残していて、一分もしない内に青へと変わる。それまでには握り締めたサイン本を、鞄の中とまではいかなくとも目線からは外してやりたい。櫟はどうしようか、とぐるりと視線を回した先で、二人の元へと真っ直ぐに寄ってくる女性を見つけた。 「ミオ? ねぇ、ミオでしょ?」  お盆休みまではまだ日があるとは言え、休日盛りの昼間だ。交差点で信号待ちをしている人の影は多く、こちらに視線を向けていると言っても二人の知り合いである可能性は低い。先に気が付いていた櫟には見覚えがなくて、隣でスマートフォンを弄っている男性の知り合いなのだろう。軽く考えていた櫟に、その声は少しばかり衝撃を与えた。  海青も櫟も、連れ立って歩けば自然と人の目を集めてしまう。揃って身長が高く、爽やかで甘いマスクの海青と、年相応に落ち着いた雰囲気を醸し出す櫟はどこを歩いても目立ち、声を掛けられることも少なくはない。女性特有の鼻に掛かった甘ったるい声色は聞き慣れてしまったものだが、名前の知る人物に声を掛けられるのは初めてだった。  漢字が珍しい櫟や萌と違って、海青は名前の読み方が珍しい。元々はミオと読む一般的な漢字を当て嵌めるつもりだったらしい彼の両親が、まさか生まれるのが男の子だとは思っていなかったのだろう。慌てて名前を変えようと試行錯誤したらしいのだが、結局は決めていた読みを諦めることが出来ず、当て字のように今の漢字が付けられた。  櫟も漢字自体は珍しいものだが、植物の名前として正式に定められているものだ。けれども海青の読みは独特で、小さい頃から何度も間違われていた。幼い時分は半ば意地になって繰り返し訂正していたが、今はもう間違われることに慣れ果ててしまう。手続き上で何か問題があるときでもない限り、訂正することはしない。  それなのに、海青の背中を叩いて覗き込んでいる女性は正しい読みで彼を呼んだ。そのことに櫟は胸に引っ掛かる感情を自覚したが、表情にはおくびにも出さないよう口角を引き結んだ。 「あ? ……あー、久し振り。引っ越したんじゃなかったっけ?」  背中に走る衝撃に前のめりに腰を曲げてから、海青は呼ばれた方に視線を向ける。ヒールを履いている女性の身長は低いわけでもないが、高身長の海青からしたら総じて視線は下げなければいけないものだ。  像を結んだ女性の姿に心当たりがあったのか、胸のあたりにまで持ち上げていたサイン本を隠すようにそっと下ろし、大きな手のひらで包み込んでしまう。櫟の側にある右手に握られたそれは、綺麗にタイトル部分が覆われていた。  まるでハードカバー本そのものを見せたくないような仕草に、一連の動きを視線だけで追っていた櫟はあれ、と首を傾げる。本好きであることは隠していないはずで、職場でも休憩中に読んでは続きが気になって仕方が無い、と愚痴を溢している。正しく海青の名前を呼んだ彼女は知っているんじゃないだろうか。 「引っ越したって言っても都内よ。ミオは何? 買い物中?」  櫟へと向けられた視線には、どこか余所余所しいような、明るく弾んだ声の調子とは違ったものが混ぜられる。それには櫟も心当たりがあって、曖昧に引き攣る微笑みを浮かべるしか出来ない。  彼女の目的は海青のみにあって、隣でぼんやりと立ち尽くすこいつは誰なのか、と雄弁に物語っている。身体のラインに添うようなぴったりとしたTシャツに、膝の開いたスキニーデニムを合わせた女性は自分の魅せ方を随分とよく分かっているようだった。しな垂れかかるように海青に寄り添い、てらついた赤いリップグロスがわざとらしい。  隠すことなく櫟を邪魔もの扱いしてくる女性に、これもまた仕方が無いのだろう、と溜息が漏れてしまう。海青の隣で、一緒に暮らす年下の女性二人の傍で、幾度となく向けられてきた視線と同じだ。友人にも身内にも見えない関係性は、見る人にどういった感想を与えているのか。正しく紐解いて理解する人間は、それこそ同類でもないといないだろう。  疲れ切った様子を滲ませる櫟に、海青はしっかりと気が付いていた。海青の名前を呼んで縋りついてくる女性の目的も、向けられた視線の意味に無関心を貫こうとする櫟の心情にも気が付いて、腹立たしさに内心で舌を打つ。 「関係無いだろ、じゃあな」 「っぇ、ちょっと! ミオ!」  掬い上げられた左手に櫟が驚く暇もなく、いつのまにか青へと変わっていた信号を足早に突き進んでいく。偶然出会ったサイン本に浮かれていた心は急下降して、乱気流が渦巻いているみたいにざわざわと落ち着かない。苛立ちを抑えきれない海青の背中に、櫟は躓きそうになる足を何とか動かした。  今でこそ櫟一筋に真っ直ぐ愛情を形にしている海青だったが、櫟に出逢う前の彼は所謂遊び人と評される部類で、一夜限りの睦言ばかりを紡いでいた。優しい顔立ちは爽やかさを乗せ、物静かかと思えば相手の調子に合わせて言葉を連ねていく。後腐れない関係を好んでいるくせして、軽い調子だけを見せない海青を放っておく女性はおらず、常に傍らには違う誰かを惹き寄せていた。  彼女もそんな中の一人で、学生時代に出入りしていたクラブで知り合った女性だった。顔見知りからよく喋る人になり、彼氏と別れてしまったのだと涙を流す彼女とホテルに行った。そのすぐあとに引っ越していったおかげで今の今まで忘れていたが、こんなところで声を掛けられるとは微塵も思っていなかった。  櫟も海青がふらりと気分のままに遊んでいたことを知っていたが、そのときに繋がった女性とは全て関係を切ったのだと聞いていた。嘘はないのか、と疑っているわけでもないが、こうしてたまたま再会してしまうのは誰にも防げない。仕方が無いのだ、ともう一度詰まった息を吐き出して、信号を渡りきってもぐんぐんと進んでいく海青の腕を引いて止める。  このあとは今月から開催されている書道展に行く予定であった。毎年行われている展覧会は櫟も参加していて、今回は一番目立つところに作品が飾られた。思ってもいなかった注目度に照れた櫟は反対したのだが、海青が一緒に行くと譲らない。熱心な海青の姿に櫟が根負けする形となったのだが、初めて行く海青は会場までの順序を知らなかった。 「……ごめん、痛かった?」  櫟の方へと振り向いた海青は情けなく眉間に皺を寄せていて、イケメンだと揶揄される顔が台無しだ。スーツを着ているときは格好良く決まっているくせに、櫟の前だと途端に可愛らしくふにゃりと力を崩してしまうのは、惚れた弱みと言えるのだろうか。  耳も尻尾も垂らした犬のようにしょげた海青の様子に、櫟は眉間に寄った皺を人差し指で伸ばしてやる。漂っていた面倒臭そうな苛立ちは歩いているうちに霧散したのか、不機嫌さはなくなっている。年下の可愛らしい様子に、櫟は愛おしさを隠すこともせずに目尻を垂らした。 「ん? 平気だよ、これくらい。それよりどうする? なにか、」 「ミオ!待ってよぉ!」  苛立ちを乗せて掴まれていた手首は少しだけひりひりと痛いのだが、そんな些細なものを気にする櫟ではない。百八十を余裕で超える身長に見合った食欲を持ち合わせた海青の腹を心配して、軽く何か食べようかと櫟は顎に指を這わす。櫟の言わんとしていることに気付いたのか、海青は俯き気味になっていた視線を上げようとする。だけれど、言葉も行動も切り込むように降ってきた甘ったるい声に邪魔をされて、中途半端なところで途切れてしまう。  ざわりと揺れた空気は麻のシャツを宙に浮かせ、こめかみを伝って落ちていく汗はきっと、気温のせいだけではない。櫟の細い腕を掴んでいる方とは逆側を取った女性は、めげずに着飾った己の身体を海青に擦りつける。 「ねぇ、今日休みでしょ? これからどっか行かない? ご飯でも、ホテルでも、さぁ?」  間延びした語尾が焦がし尽くす太陽の輝きと一緒に二人へと突き刺さる。はねあがったアイラインが丸い瞳を悪戯に彩り、ラインストーンの光る指先が海青に絡みつく。ねっとりと、足場を崩していくようなやり方はなるほど、夜の世界では何よりもモテるのだろう。  彼女の瞳には櫟を遠ざけようとする敵意が満ち溢れていて、櫟は海青の大きな手のひらに掴まれていた腕さえも払い除ける。彼女の視線から自分たちの関係を出来るだけ消し去ろうとでもする行動は無意識によるものなのだろうが、櫟の様子にいち早く反応した海青は縋りつく女性にきつく細めた視線を向ける。  櫟によって伸ばされた眉間の皺がさっきよりもぐっと細かく刻まれ、甘さの落とし込まれた表情を険しく模っていく。 「行くわけねぇだろ、離せ」  大好きな恋人と出掛けて、大好きな作家のサイン本を偶然手に入れて、恋人が隈を浮かべながら書き上げ、自信を持って送り出した展示を観に行く。海青にとって好きなものに溢れるはずだった休日が、過去として清算した相手に邪魔をされているのだ。  押し付けられた胸を一瞥して、櫟に出逢う前の自分であったのならば二つ返事で誘いに乗っていただろう、と過去の自分に口惜しさを覚えて唇を噛み締める。ホテルで休憩を選び、時間になれば振り返ることもなく帰っていく。楽しければそれでいいと信じていたのは確かだが、タイムマシンを作って今すぐ殴りに行きたかった。  豊かな女性の身体から、櫟へと視線をずらしていく。困ったように眉尻を下げ、落ち着かなさにぎゅっと両手を結んでいたが、海青を見上げてくる瞳には潔いまでの微笑みが滲んでいる。櫟を裏切って女性に転がるとは思っていないだろうが、そうなっても仕方ないな、と許してしまうような諦めと、一欠けらの淋しさが灯っていた。  ぐっと奥歯を噛み締めて、海青はもう一度腕を絡ませたまま離そうとしない女性へと視線を向ける。自分を選んでくれると錯覚でも起こしたのか、女性は勝ち誇ったように口角を吊り上げた。 「デート中なんだから邪魔すんな」  緩慢な動きで細められた瞳に、女性の吊り上がった口角がゆっくりと開く。勝利の言葉でも溢そうとしたのか、ふるりとグロスを輝かせて半端に開けた唇は、照り付ける太陽の熱さを凍らせる一言によって遮られてしまった。  マスカラに囲まれた真ん丸い瞳が浴びせられた言葉の意味を疑うように、ぱっちりと音を立てて瞬きを繰り返していく。爆弾とも言えそうな海青の言葉に驚いたのは彼女だけではなく、成り行きを見守るだけになっていた櫟にも衝撃を与えていた。 「え……、海青……?」 「ちょっと、ミオ? どうしちゃったの? 暑さでバカにでもなった?」  驚きに硬くなった声を絞り出す櫟と、薄ら笑いを浮かべて取り繕う女性の声が重なる。太陽が照り返すラインストーンは海青のシャツに皺を作ったが、彼が手を伸ばしたのは麻に包まれた細い腕だった。  どれだけ言葉を重ねても、腕を絡みつかせても、海青の意識は櫟にしか向いていない。伸ばされた手のひらが何を掴んでいるのか確かめたのだろう。繋がった二本の腕から静かに視線を上げて、彼女は煌びやかに飾り立てた瞳に拒絶の色を塗りたくる。 「はぁ? なに、マジで言ってんの? あんた大丈夫? ホモとか今時ウケないよ?」 「黙れよ。その汚ぇツラ二度と見せんな」  軽蔑に塗られ、侮蔑に歪む言葉は、低く力強い声が遮断する。勢いに任せて振り払われた彼女の細っこい腕は宙を彷徨い、オレンジのチークが淡く乗せられた頬は真っ赤に染まっていく。唇を噛んだせいで、彼女の前歯には赤いグロスがべったりと張り付いていた。 「ホモに抱かれてたとかマジ無理、最悪」  呪詛のように少しずつ、殊更ゆったりと吐き出されていく声はじっとりと二人に纏わりついていく。大通りの真ん中で立ち止まった三人に周りからは薄情なまでに冷淡な視線が寄せられ、通り過ぎていく人からは舌打ちまでされてしまう。  過去になった女性だとしても、一度は海青と関係を持った女性だ。吐き出される言葉の鋭さに苦しくはなるものの、櫟は取り繕う言葉を探して口を開く。だけど二人の仲がどれほどのものだったのか、何も知らない櫟には上手く言葉を見つけることは出来ず、全身で罵倒を浴びた海青を見上げた。 「行こ、腹減った」 「え? ……ぁあ、うん」  そっと引かれた腕に、二人の視線が交差する。櫟に向けられた瞳にもまだ苛立ちの炎は燻って、ゆらゆらと不安定に揺らめいていた。  甘ったるさを引き攣らして罵ってくる声は背中に向かって投げられ続けていたが、櫟も海青も振り返ることはしない。雑踏の中に身を滑らせて、紛れた人混みに届く声は薄れていく。骨の目立つ櫟の腕を掴んでいた手のひらはいつの間にか落ちていき、あっけなく二人の手のひらは重なり、繋がっていた。  外で手を繋ぐことなんてしたことはない。萌や深月ならば可愛らしい、仲睦まじい、と微笑ましく素通りされていく光景だろうが、男同士だと奇異の視線を向けられる。張り付いてくる視線を煩わしく思っているからこそやったことも、やろうと思ったこともなかったのだが、今は重なってじっとりと汗の滲む手のひらが心地良い。 「読書家なのに、随分と口が悪かったねぇ」 「……別に、今更だろ。気ぃ張るのは仕事中だけで充分だ」  週に何冊も本を読み終えるほど楽しんでいるくせに、プライベートの海青は呆れるほどに口が悪かった。繕おうと気を配ることもしないおかげで櫟はそんな彼の方が慣れ親しいものとなっていたが、他人に向けられる正直な言葉にいっそ笑ってしまう。  それを指摘して笑ってやれば、海青は拗ねたように唇を尖らせた。幼い仕草にはまだ苛立ちも見え隠れしていたが、彼女から離れたおかげか、釈然としていないまでも落ち着きは取り戻していた。 「昔の知り合いなんでしょ? 言って良かったの?」 「もう会うこともねぇし。損も得もねぇだろ」  清算してしまった相手だとしても過去に関係を持った女性だ。そんな人からあんな侮蔑の瞳を向けられていいのだろうか、と心配になった櫟は重なった指先に力を込める。お返しのように、安心させようとするかのように、海青は飛び出た甲の骨を撫でさする。微かに滲んだ汗が引っ掛かって、スムーズには進まない優しさに櫟は口元を綻ばせた。 「そっか。俺の彼氏はかっこいいなぁ」 「……それは、どーも」  嬉しいような、恥ずかしいような。海青の堂々とした言葉は羨ましくもあり、後ろ髪を引かれるものでもあった。重なった手のひらを離すことも出来ないくせに、胸をくすぐる淡さに頬が歪んでいく。軽く褒め称える声は震えてこそいなかったが、それでも痛みを滲ませる些細な変化に、海青は気付かれないように眉根を寄せる。  ふわりと向けられた言葉は軽いのに、櫟の視線は海青に向けられない。真っ直ぐに逸らされた横顔は淋しさを浮かべていて、それは海青が何よりも見たくなかった表情だった。  じりじりと焦げ付く太陽の下で、手のひらを重ね合わせたままゆったりと歩いていく。寄せた肩がぶつかって、見合わせた瞳には笑みが浮かぶ。目指すのは展示会場近くにあるレトロな喫茶店に定められた。涼しい店内で腹を満たし、たまたま遭遇してしまった彼女のことは忘れてしまおう。  そう思っているのはきっと、互いに同じだった。 ****  六年前。営業部に配属されてやっと三年目に入り、元々の器用さも手伝って要領を掴めてきた海青は、深く酔いの回る足を懸命に動かしていた。取引先の上役と営業部長に連れられて料亭では正座をし、お洒落なバルでは頬が引き攣るまで笑顔を振り撒いた。  海青はアルコールに強く出来てはいない。ビールは舌を刺激する苦みが嫌いだったし、ワインやウイスキーの類は一口でも飲めば脳がぐるりと回転し始める。可愛らしさの代表として上げられるカシスオレンジ一杯でも十分に酔っぱらえるほどであるのに、肌を撫でる風に蒸し暑さが滲むようになってきたこの日は、上役の勧めを断ることも出来ずに杯を重ねていた。  五十に差し掛かっただろう取引先の上役も、二件目を出た時点で千鳥足にたたらを踏んでいた。心配する風を装ってタクシーに突っ込んで、自分も帰ろうと上司を振り返れば不敵ににやける顔がひとつ。やばい、とこれまでの経験が警鐘を鳴らしたところで、海青も覚束ない足元を隠せない程度には酔っぱらっている。引き摺られるままにこじんまりとしたバーに連れられて、酒臭い溜息を吐き出していた。  朝まで付き合わされる覚悟を決めて、だけれど熱く滾った脳もぼやけて回る視界も、持ち主である海青の意思を置いてけぼりに駆けてしまう。あ、と気付いたときには、すでに誰かとぶつかったあとだった。 「あー……、すん、ません、」 「大丈夫、気にしないで。君こそ大丈夫? 随分と酔ってるみたいだけど、……タクシー呼ぼうか?」  ぼやける視界の先で、黒いなにかがぞろりと動く。朧げに聞こえてくる声はのんびりとゆるやかな調子で、低く落ち着いた色に男性なのだと、ただそれだけが分かった。自分を心配して続けられる言葉が不自然に途切れて、だけれどすぐに気遣わし気な様子を見せた。  ぶつかったおかげで脳みそは揺れ動いたのか、わき上がってくる吐き気を必死に飲み込んで、海青はここまで一緒に来ていたはずの上司を視線だけで探す。鼓膜を震わせるのは目の前にいる知らない男性のものだけで、すぐ前を歩いていたはずの聞き慣れた声はどこかに消えた。ぶれる視界にも草臥れたスーツはなくて、向けられた疑問符に応えることも出来ずに首を傾げて見せる。 「お連れの方? それなら女性と奥に消えていったよ」  ふらりと覚束ない視線に応えてくれたのは気遣ってくれる男性で、ずらしていた視線を目の前に結んでいく。アルコールのせいで姿ははっきりと現してくれないが、線が細くて色は白く、細めた瞳に疲れを乗せる年上の男性だった。  垂らした眉尻が優しそうなくせに、白々しい表情は何も受け付けていないように見える。酔っぱらいの相手など面倒なものでしかないと知っている海青からしてみれば声を掛けることさえも嫌なのに、興味がない相手にもこの男は気にも留めずに心配が出来るらしい。覚束ない思考で浮かぶのは碌でもないことばかりで、だけれど表面に浮かべた心配と心に沈む無関心さの落差に、この男と話してみたいと興味が惹かれた。 「ほんとに大丈夫……?」  自分に視線を寄せたまま黙ってしまった海青を不審に思ったのか、男はスツールに腰を下ろした状態で指先を伸ばしてくる。深い酔いに支配された海青は迫ってくる綺麗な指をただ眺めるだけで、反応は何も返せない。ひやりと、結露に濡れた指の腹が海青の目尻をそっと撫でて、冷えた手のひらが額を覆う。  火照った身体には冷たいそれが気持ち良くて、手首、肘、と続く細い腕をとろりと落ちた瞳で追っていく。ぱちりと音が弾けそうなくらい真っ直ぐにぶつかった視線が熱くて、海青は無意識に手のひらを握り締めた。  重なった視界に、気付いた男はひっそりと笑う。目元も口角も眉尻も、ほんの僅かに移動しただけのささやかな笑みだった。靄のかかった視界でも何故だかそれはしっかりと像を作っていて、海青はぐっと無理矢理入り込んできた空気に何度か喉を鳴らす。  男に表すものではないと分かっていて、それでも綺麗な笑顔だったと思う。ささやかな変化はいじらしささえも生み出し、線の細さも相俟って清らかさも加え含める。連れた女性はいないようだったが、モテるのだろうな、と嫉妬を覚えることもない。  だけれど、酷く淋しそうだとも思って、吸い込んだ空気を二酸化炭素に変えて吐き出していく。幸の薄そうな、とは、いつか読んだ小説に出てきた一節だったが、目の前の男にはそれこそよく似合う。アルコールに濡れた溜息を浴びただろうに、微笑んだままの男は海青を見上げて指先を下ろそうともしない。  額を覆った薄い手のひらは海青の火照った温度を吸って、じんわりと温もりが広がっていた。与えた温度がどんな色を伴っていたのか、知らない海青はその手を乱暴に掴んで、酔いに任せて力の限りに握り込む。痛いほどでもないが燃え爛れそうな熱さに、男は笑んでいた表情を微かに顰めさせた。 「あんた、常連?」 「んー、そこまでじゃないけど、たまに寄らせてもらってる、かな?」  返答を成していない言葉にも、男は気にした様子を見せずウンターの中に視線を向ける。シェイカーを両手に包んでいたこの店の主人は皺の浮かぶ顔をそっと和らげ、充分に常連ですよ、と艶やかな渋い声を溢す。  主人の言葉に納得していないのか、困ったように眉尻を下げる男の顔は微笑むさっきよりもずっと人間らしさに溢れている。落差に置いていかれそうだ、ともう一度ぬるついた溜息を吐き出して、握っていた手のひらを離す。 「また来る、待ってろよ」  心配してくれた礼も、疑問符に返す言葉もなく、海青はただ自分の言いたいことを告げて踵を返す。背中には男の戸惑う声が聞こえてきたが、構っていられるほど正常な思考はなかった。未だにぐるりと回り続ける脳に吐き気は収まらず、捕まえたタクシーの中では奥歯を噛み締めて耐え忍んだ。  アルコールに犯された思考では分かりきっていなかったが、紛れもなく海青の一目惚れだった。ぼやける視界に男の容姿ははっきりと像を結ばなかったが、穏やかにゆったりと零される声にも、心配する振りをして無関心を貫いている心にも、興味が湧いて尽きなかった。  恵まれた見た目と後腐れのないさっぱりとした性格のおかげで、海青は自分から告白をしたことも、誰かを好きだと恋い焦がれたこともない。相手は勝手に寄ってきて、嫌われないように媚びを売る。自分はそれを眺めるだけでいいのだと思い込んでいたのだが、まさか一目見ただけの男に覆されるとは。  名刺を置いてこなかったのはわざとだった。金曜日にスーツを着ていなかった理由までは分からないが、男から名刺を交換されるとは思えなかったからだ。酔っぱらったままで連絡先を交換する気にもならず、何もせずに帰るだけになってしまったのだが、二度と会えないとは思わなかった。  その証拠に、一週間後の金曜日。終業間近に舞い込んできた仕事に舌を打ちながらも熟し、一時間の残業で会社を後にした。その足で向かうのは先週に男と会ったバーで、期待と不安で心臓は早鐘を打つ。会える自信しかないけれど、それが今日とは限らない。酒に弱く好きでもないために、早く会えたらいいな、とは思うが、根気勝負になるだろう。  果たして、男はいなかった。カウンターに一人で座った海青を憶えていたのか、店の主人は苦笑いを滲ませて今日は来ないと思いますよ、と午後六時四十三分に断言された。先週会ったのは日付も超えた深い時間で、夕食を済ませてくるのかもしれない。  主人の予想に逆らって、カシスオレンジとモスコミュールのたった二杯で日付が超えるまで粘ってはみたが、男の姿がカウンターに滑ることはない。ほらね、と言わんばかりの主人は結露の滲んだグラスを下げて、新しい氷の浮かぶ水を出してくれる。意地になった幼い自分が情けなくて、火照った頬をグラスで冷やしながらすみません、と頭を下げる。  ちらほらと出入りのある店はそれでも半分程度しか埋まってはいなくて、カウンターには海青が一人座っているだけ。扉を睨むように眺めるだけの彼はさして迷惑にはならなかったのは、主人は穏やかに微笑みを浮かべる。 「明日は来てくださると思いますよ。今週は仕事が忙しいと仰っていたので、今日はきっと、泥のように眠っているはずです」  眠れたら、の話ですけれど。  アドバイスのように柔らかな言葉は、続く掠れた吐息に頭を擡げてしまう。確かに疲れを滲ませる目元はくっきりとした隈を色付けていたが、飲んでいたアルコールはウイスキーのロックだった。眠れない人間が飲むものだとはどうしても思えず、言葉の理由を話そうとはしない主人に、海青は支払いを済ませて終電に滑り込んだ。  主人の言葉を信じて、次の日も海青は無地のパーカーにデニムパンツを合わせてバーに出向いていた。逸る心を落ち着かせるために開いた文庫本は文字を認識してくれなくて、一ページも進まずに閉じてしまう。やることのなくなった海青は軽く夕食を済ませて、午後六時三分に店前へと着いてしまった。  オープンしたすぐに入ったところで、男がいる可能性は限りなく低い。飲めないのに長々と居座るのは申し訳ない気がして、喫茶店にでも入ろうかと思案する。近くに何があるだろうかと調べるためにスマートフォンを取り出して、背中に視線を感じて振り返る。 「ぁあ、やっぱり。先週はちゃんと帰れた?」  白のTシャツに、薄手のジャケットと細身のパンツは黒。身長に見合った大きさの服装は、だけれど横幅の薄さに着せられているような錯覚を生み出していく。白々しい電球の下で見る男は先週よりもずっと肌を白く染め、細められた瞼の元には隈が濃く影を落とす。たった一週間で増した不健康さに、海青の眉間には皺が寄る。 「……、先週は、ありがとうございました。碌にお礼も言えずに帰って、すみません」 「そんなの気にしてないよ。無事ならよかった」  入らないの、と指差す先は目的のバーではあったものの、目当ての人物は無感動に微笑む目の前の男だ。社会人として取り敢えず、の体を装って溢されたお礼もさらりと流されて、海青は男のガードが意外にも固いことを思い知った。  一目惚れをしたこと自体もそうだが、同性相手に心が揺れ動いたことも初めてだった。そういう行為を男としたことはあったが、好きだとも嫌いだとも思わなかった。行為だけなら柔らかい女としたかったし、嫌悪感は抱かないまでも、同性は友人にしかならない。  そう思っていたのに、目の前の男には惹かれて仕方が無い。何も知らないくせに、この男の深いところを理解して、もっと幸せそうに笑ってほしいと願ってしまう。幸の薄そうな、とは自分の感想でしかないが、なんとなく、バーの主人もそう思っているように感じた。 「飯、行きませんか?」  店に入ろうと扉に手を掛けた男は、告げられた言葉に驚きを隠せていない。真ん丸く開いた瞳は真っ直ぐに海青を見上げて、大した身長差もないのに上目遣いになるあざとさに海青はくらりと心が揺れる。  返事も待たずに掬った手のひらは冷たくて、薄い。額に残った感触は氷の浮かぶグラスによって下げられたものだと思っていたが、男の体温そのものが低かった。  些細な抵抗は気にせずに、男と連れ立って入ったのは三軒隣にある創作居酒屋で、何度か入ったことのある海青は秘かに気に入っていた。和食が中心となっているメニューは出汁が軽やかで、疲れ切った身体に沁み渡っていく。細い男がどれだけ食べられるかは分からないが、一品の量が少ないこの店はぴったりだろう。  土曜日の居酒屋は早い時間でも混み合っていて、カウンターの端っこが空いているだけだった。並んで座って、胡乱気に瞳を細める男の視線は無視してやる。 「嫌いなものとか、アレルギーは?」 「……、何も」  むっつりと口元を引き結んで頬を膨らませた男は、年上だろうに随分と幼く見えて笑ってしまう。海青の態度を不思議に思って納得は出来ないまでも、逃げられないと悟った男は諦めて溜息を溢す。大学生らしいアルバイトの男の子に注文を告げる海青の横で、男はビールだけをお願いした。 「あ、そうだ。藤代海青です。これ、名刺」 「ミオ? へぇ、綺麗だね」  名刺を受け取った相手は、いつだって珍しいだとか、逆に憶えやすいだとか、同じようなことばかりを言われていた。海青自身も読み間違われることの多さに辟易としていたが、綺麗だと手放しに褒められて頬が熱くなる。  しげしげと名刺を眺めていた男は、置かれたビールに視線を移すこともなくパンツのポケットから財布を取り出して、レシートに紛れた名刺を海青に差し出した。 「ごめん、ちょっと折れちゃってるけど。小鳥遊櫟、年上だろうけど敬語はなくて大丈夫だよ」  右上の角についた折れ目を指先で伸ばして、恥ずかしそうにそっと向けられた四文字は一見すると読めそうにない。見慣れない漢字に、だけれど男を表すに相応しいと思えてしまう。折れてぼろぼろの名刺を大切に両手で掴む海青の姿に、櫟はふわりと呼吸を乱してしまった。  視線を上げた海青に、櫟は手のひらを振って応える。薄い手のひらは海青の額を覆い、酔っぱらいの力で握られ、ここに攫われてくるまで重なっていた。焼け落ちそうな温度で見つめられて、櫟はビールを握り込むことで冷やす。  ビールとウーロン茶で乾杯をして、運ばれてくる料理を取り分けながら海青は質問を重ねていく。仕事は、年齢は、お酒は強いんですか、お勧めの店は。そのどれにも櫟は丁寧に答えて、箸はなかなか進まない。それに気付いた海青は眉間にぐっと皺を寄せて、なんだか酷く情けなく眉尻を下げた。 「すんません、食べてください」 「気にしないで。あんまり食べるのは得意じゃないから」  さらりと流された言葉に海青は睫毛を揺らして、櫟は滑らせてしまった言葉に口元を抑える。溢すつもりではなかったのか、櫟は恐る恐る海青の反応を確認して、それから観念したようにビールを煽った。  静かに溢されたのは、両親を亡くしたことと、離婚をしたこと。元々食に興味はなかったが、慌ただしい喪失感に食べる気力はいくらも湧いてこなかった。アルコールにもカロリーはあるから、と櫟が力なく笑ったところで、大人しく耳を傾けていた海青は頭を左右に振った。 「あんた、分かってます? 自分が今どんな顔してんのか」 「……笑えてたらいいなぁ、とは思ってるよ」  海青の瞳に映る目の前の男は、確かに笑っていた。だけれど下がった目尻も、歪んだ口角も、無理をしているのがありありと分かるもの。初めて見た男に幸が薄そうだと、淋しそうな笑みだと、直感的に抱いた気持ちに間違いはなかった。  失くしたものの大きさに、きっとこの男は気付いていない。なんでもない風を装っているのは他人に対してではなく、自分自身に向かってのことだ。下瞼にこびりついた隈に、バーの主人から聞いた言葉を思い出す。疲れているのに眠れないのは、夜の帳を怖がっているからではないのだろうか。  ぎゅっと絞られたのは心か、心臓か。分からないままに海青は櫟の薄い手のひらを掬って、握り込む。突然の行動に驚いた櫟は何も反応を返せず、瞬きを繰り返すだけだ。 「好きです、あんたの隣に居させてください」  真っ直ぐな言葉は熱に浮ついた喧騒に紛れて、櫟だけに向かっていく。鼓膜を震わせて、脳を揺らして、言葉の意味に気付いた頃には海青の頬は真っ赤に染まってしまった。告げた本人の方が照れているのは滑稽であったが、告白など二十五歳にして初めてなのだから仕方が無い。開き直って逸らされない視線に、櫟はぱちぱちと何度も、何度も瞬きを繰り返す。  一秒にも、永遠にも感じられた二対の視線は、櫟から逸らされた。移された先では櫟の渡した名刺が、律儀にもテーブルの左上に置かれている。周りをお絞りで囲むようにしているのは、まさか汚さないようにするためなのだろうか。  結局、海青の告げた言葉はさらりと流されて、連絡先を交換するだけに留まった。ビールにハイボールに日本酒に、と注文するたびに銘柄を変える櫟とは反対に、海青は終始ウーロン茶で喉を潤す。素面の頭でも断られてしまったのだ、と理解は出来たが、諦めるつもりは微塵もなかった。  これから当初の目的であったバーに行くのだという櫟を扉の前まで見送って、海青は物理的には何も重くなっていないスマートフォンを両手に握り締める。電話番号と、メールアドレスと、SNSのアカウントと。三つに櫟の名前が追加されて、海青の心は落ち着かない。  酒に濡れる唇は閉じることを知らずに、なんてことのない日常が延々と溢される。海青と同じ営業職であるらしい櫟は昇進を打診されるたびに断っているらしく、どうしてだと尋ねる年若い海青に苦笑いだけを浮かべた。上にいけば給料もボーナスも増えるのに、海青には理解が出来なかった。  最低限稼げればいいのだ、と笑う櫟は淋しさを乗せていて、離婚したのだと語っていたことを思い出す。たった一人が残って、その自分一人を持て余している。  淋しさも、口惜しさも。二回会っただけの年上に抱く感情ではないと知りながら、海青は募っていく感情を抑えられないと思った。櫟の隣に立って、自覚しない喪失感に溺れる男を守ってやりたい。渦巻く愛おしさは初めて感じるもので、だけど悪い気はしなかった。  連絡をして、バーで待ち合わせて、興味が無いのだと話す食事に連れ出して。会社は違うのに、他部署で同期の深月よりも日を置かずに会っていた。櫟からも連絡はあって、引き合う感情を実感して、そのたびに告白しては振られてしまう。  陥落したのは六回目の告白のときで、やっぱり櫟は淋しそうに笑っていた。出逢って半年にも満たない期間は、だけれど互いを知るには充分な期間でもあった。 「男だし、バツイチだし、年上だし。海青は、それでもいいの?」  藤代くん、と余所余所しい呼び方から温度が増した名前は、先月から呼ばれるようになっていた。何度も名前で呼んでくれと頼んで、その度にやんわりと断られていた。きっと櫟は好意を伝えてくる海青から逃げようと画策していて、ようやく逃げられないのだと悟った。 「俺はあんたがいい。それ以上でもそれ以下でもない」  海青の溢す音が親しみのこもった馴れ馴れしいものに変わったのは、三回目にバーで会ったときから。初めから櫟を逃がすつもりは欠片もなくて、どう攻めていこうかと思案した結果だった。するりと馴染んだ距離感に櫟が違和感を抱いたのかどうかを、海青は聞くつもりもなかった。  ぐっと寄せられた眉根に、海青は関節の太い指先を伸ばして押してやる。ぐるぐると揺れる小さな頭に、堪らなくなった海青は晒された額に唇を落とす。櫟の暮らすマンションはファミリータイプで、そこかしこに別れたのだと話す女性の影があった。  夏の終わりに、櫟は自分のことをゲイだと打ち明けていた。同性に心を惹かれるけれど、だからって君を受け入れるわけにはいかないんだ。そう告げる櫟の眉間には深い皺が刻まれていて、そのときも海青は指の腹で伸ばしてやっていた。  櫟が結婚を選んだ理由は教えてもらえなかったが、海青は無理に聞き出そうとはしなかった。饒舌な櫟にしては珍しく頑なに拒んでいる言葉を、海青は強い関心を持てずにいる。目の前にあることが全てなのだと、言って聞かせるたびに櫟は淋しそうに笑う。  ひっそりと交際を始めて、櫟がサラリーマンから書道家に転身して、都内で廃れるように聳えていた実家に引っ越して。海青は変わらず会社から四駅の狭いワンルームで生活をしていたが、週末には櫟の家に入り浸るようになった。  小さな一軒家はリビングとダイニングが繋がって、二階に二つの部屋があるだけだった。一つが両親の寝室で、もう一つが櫟の部屋。櫟は決して両親の寝室に入ろうとはしなかったから、たまに窓を開けて掃除をするのは海青の役目になっていた。  海青の隣で微笑む櫟は一人でカウンターに座る姿からは想像も出来ないほど明るくなって、でもやっぱり淋しそうに笑うときもある。上背だけの薄っぺらい身体を抱き締めて、死ぬまでには心からの笑顔ばかりにしようと、誰にも告げず心に決めていた。 *****  昔懐かしいような、古臭くなってしまったような。煙草の吸える喫茶店はたった一度の訪問で二人のお気に入りとなった。揃って煙草を片手に注文したコーヒーを待っている間、店内には地方局のラジオがささやかに流れるだけで、窓の外を流れる喧騒とは世界を切り分けていた。  海青の頼んだナポリタンは玉葱とピーマン、それから気紛れにフォークへと引っ掛かる細長いウインナーだけの素朴なものであったが、ぴりりと胡椒の効いたそれは美味しく、一口だけ貰った櫟も美味い、と口角を上げる。濃いめに淹れられたコーヒーはだけど舌ざわりが柔らかく、ソーサーに置かれた一欠けらのクッキーも時季外れのツリーを模っていた。  櫟は出品している身として何度か足を運んではいたが、それでも土地勘がないことに変わりはない。たまたま記憶に残っていた店に入るという冒険ではあったが、これは予期せぬ収穫である。互いに満足して喫茶店を後にした海青と櫟は、浮足立つままに展示会場へと足を急がせた。  目的の十階建てのビルは周りに比べると小さく、一つの階に三十人規模の部屋が二つか三つ、とこじんまりとした印象だ。だけれど最上階にある部屋だけは特別に大きく、エレベーターを降りるとすぐに一つの開けた空間へと繋がっている。ホールとして使われているそこは月ごとに様々な催しが行われており、今月は櫟も作品を寄せる書道展が開催されていた。 「すげぇ、一番目立つじゃん」 「ありがたいことに、選んでもらえたよ」  広い空間の真ん中には太い柱があって、エレベーターを降りて真っ先に見える場所には櫟の作品が掛けられていた。彼らの身長以上に大きな半紙は重厚な額に飾られ、力強く墨を飛ばした字はまるで喜び勇んでいるかのようにも見える。繊細で流麗な作風を誇っている櫟を知る人には珍しいと称賛され、子どもたちと遊ぶように筆を操っている普段の櫟ばかりを見ている海青には彼らしいと映った。  包まれそうなほどに大きい半紙に書かれているのはたったの一文字だ。それも小学生で習う簡単で、画数も多くはない漢字。習字の練習にでも使われそうなはずのその文字は、見渡す限り飾られているどの作品よりもずっと、真っ直ぐに海青の心を打ち付けた。 「すげぇ……、すげぇかっこいいよ」  海青の視線は高く堂々と掲げられたたった一文字に注がれて、彼を見上げる櫟には向けられない。飾り気のない言葉は幼いものではあったけれど、過去に掛けられたどんな言葉よりも櫟の心を熱く、柔らかに砕いていく。  背筋をすっきりと伸ばし、何よりも近くで見ようと踵を伸ばして背伸びの体勢になった海青は喉仏を晒す。喧騒が止んで、今の海青には櫟が小さく呟いたくらいでは意識を逸らせないだろう。それほどに集中し、脈打つ心臓を鷲掴みにされてしまった。 「あら、小鳥遊さんと藤代さん、よね」  晴れた土曜日ということもあり、広い会場には多くの人が足を運んでいた。一人で来ている年若い女性、繋ぎ合った手にはシルバーのリングが光るご夫婦、学生服を着た男子高校生のグループ、歯も生え揃っていない小さな子どもを抱えたご家族もいる。それぞれに好きな作品の前で止まり、あれがいい、これが好きだ、と耳を擽る声が気持ち良い。  たった一文字の前から動こうとしない櫟と海青の周りには日常とはほど遠い穏やかで、緩やかな空気が流れていた。出品者である櫟は搬入した日以来始めての訪問だ。そろそろ挨拶回りに出向こうか、と考え出したところで、ふと聞き覚えのある声が二人の空気に沁み込んできた。 「えっ? あ、佐々木さん。こんにちは」 「はい、こんにちは。お久し振りねぇ」 「ご無沙汰してます」  声の響いた方を振り返った二人の前には、なだらかな隆線を描いた腰を抑える女性と、杖を握る男性が並び立っていた。七十代に入った頃だろうか。女性を支えるかの如く触れ合う距離を押さえた男性は、むっつりと口を真一文字に引き結んではいるものの、二人へと向ける視線には孫に充てるような親しみが込められている。気遣わし気に言葉を投げる女性も、艶の濃いふくよかな顔を微笑みに彩り、近寄ってくる歩幅は力強い。  この老夫婦は櫟や海青の暮らす一軒家の大家だった。元々は彼らの娘夫婦が住んでいたらしいのだが、婿養子である旦那の転勤で海外に引っ越さなければならなくなった。まだ建てられて十年にも満たない家を壊すのも、完璧に譲渡するにも惜しく、親である老夫婦が管理人になることで貸しに出されたのだ。  管理人と借り手だからと言って交流があるわけでもなかったが、お中元や年賀状のやり取りはされていた。今年のお中元として京都で燻された抹茶を贈り、ここで行われる書道展の案内も同封していた。二人の住まいからも少し距離は出来てしまうが、わざわざここまで出向いてくれたらしい。 「来てくださってありがとうございます」 「小鳥遊さんの字はあなたにそっくり。名前を見なくてもすぐ分かったわ。柔らかくて強くて、それでいてどこか少しだけ、泣きたくなるわ」 「……最高の褒め言葉です」  手放しとは言えない女性の言葉に、櫟は複雑に表情を歪めたまま小さく頭を下げる。覗いた旋毛には先程まで一心不乱に一つの文字へと注がれていた視線が落とされていたが、伏せた瞼に影を作る櫟はそれに気付くことはない。  癖ひとつない短髪は旋毛が見つけやすく、櫟よりも身長の高い海青からすれば間違いさがしにもならない。 柔らかく、強く、物悲しい。それは櫟の作品に向けられる感想としては有り触れていて、だけれど芯に迫っている。悲しく見える理由を、泣きたくなってしまう感情を、海青は誰よりも深く理解してしまっていた。 「ああ、小鳥遊くん。あっちの書のことなんだが」  女性の浮かべる感想を寄り添うようにじっと聞いていた男性は、ふと思い出したように左奥に指先を向ける。柱と柱で区切られるように空間を仕切られたそこには、複数の出品者が同じ題材を掲げた連作が置かれている。今回の展示では花形に位置する櫟ももちろん参加していたが、崩し字で書かれた作品には解説を求められることが多かった。  ちょっと行ってくるね、と言い置いて、杖に体重を乗せる男性を支えるようにゆっくりとしたスピードで櫟が離れていく。大きな作品の前には海青と女性だけが残されて、ふらりと覚束ない空気が流れ込んだ。 「もう見て回ったの?」 「いえ、まだこれだけです」  会場に着いて十分弱、まだ櫟の書いた一点しか見ていない。だけれど、海青には分かっていた。全部を見て回ろうと、他にどれだけ秀麗な作品が置かれていようと、海青にはこのたった一文字だけが強く、深いところまで鮮明に根付いていくだろう。  一緒に暮らし始めてからはまだ二年も経っていないが、付き合っている期間はそう短いものではない。元々会社に勤めていた櫟がその地位を捨て、書道家として動き出したのは二人が付き合うようになってからだ。  コンテストに応募して、小さな展示会に作品を提出して、子どもたちに字を教えて。飽きもせず筆を握り、思うように進んでいかない道に口惜しさを滲ませて、それでも泣き言ひとつ漏らさない櫟を一番近くで見てきた。  そんな中で櫟にこれを書いていいか、と聞かれたのは今回が初めてだった。春の霞が消えて汗が吹き出してくるようになった、僅かな季節の変わり目。作品の提出期限が明日と迫った日にも一番の目玉である作品は完成せず、行き詰っていた櫟が絞り出して、観念して、選んだ字。夏の盛りであるこの時期にはぴったりで、だけれど海青にとってはこれ以上ないほどの愛情表現だった。 「泣きたくなる、なんて言ったけれど。これだけは微笑ましくて愛おしくて、彼の幸せをお裾分けしてもらったように思えたわ」  僅かに腰の曲がった老婦人は海青の胸元までしか身長がない。それでも弾いた声はしっかりと響いて海青の元にまで届いてくる。揃って見上げた先には、櫟の持つ筆の中で一番の太さを誇るもので結ばれた《海》の文字がどっしりと構えていた。  櫟は自分の気持ちをあまり言葉にはしない。だから自分が、と余すところなく声に出すのはいつだって海青の役割であったが、櫟にしか出来ない愛の囁きはどこまでも甘く、蕩けるように優しい。  きっかけは海青の一目惚れで、櫟は抱えたものの重さに気付かないまま一人で背負う覚悟を決めていた。他人の手を取るという選択肢は彼の中に存在せず、死ぬまで独りなのだと言い聞かせていた。立て続けに別れをその身に浴びた櫟が淋しそうに笑う姿が許せなくて、自分が彼の最後になろうと、自分勝手に決めてしまう。  叶えるつもりではあったけれど、叶う保証はどこにもない。それでも折れず、諦めず、櫟の傍に居続けた海青が勝利を確信したのは出逢って半年が経つ頃だった。その時は櫟が死ぬまでに抱く愛情を理解して、受け取ってくれればいいとさえ思っていたが、こうして表立った場所でまで披露してくれるとは思ってもいなかった。  緩む頬が締まらない。櫟が戻ってくるまでにはどうにか取り繕いたいが、嬉しいものは嬉しいのだ。何につけても不器用な櫟にこの気持ちが伝わるのならば、だらしがないと揶揄されても許せるだろう。 「小鳥遊さんの大切な人は、あなただったのね」  展示に宛てられた櫟の作品は販売も同時に行われており、海青の一文字を切り取ったこの作品も例外ではない。まだ駆け出しの部類に入るものの書道家として人気の出てきた櫟の作品はまだ半月も経っていないながらも完売しており、海青の手元に渡ってくることは一生無いだろう。彼の仕事を邪魔するような真似はしようとも思わないが、この一文字が誰かの元に行ってしまうのは淋しい。  襲ってくる虚しさとも、侘しさとも言えない何かに堪えていると、心底温かで、熱い言葉が降り注いでくる。視線の先へと意識の全力を向けていたせいで最初は何を言われたのか分からなくて、海青は眉間に皺を寄せてしまうが、逸らした先で微笑んだままの彼女を見て向けられた言葉の意味を理解した。  夏に向けた作品だったから、とはもっともらしい言い訳だ。確かにこれは海青の名前を取って書かれたもので、そこに櫟の感情が透けていないわけがない。だけれどここまで的確に、正しく意味を成して告げられるとは思ってもいなかった。 「それは、どういう意味ですか?」  答えなんて分かりきっている。年の離れた友人として、気心の知れた同居人として、重宝している人間なんですね、なんて。契約の際に櫟は深月と付き合っていると、勝手に相手が判断していったことではあるが、それを誰も否定していない。ここで老婦人が何を指しているかなんて、考えるまでもないことなのだ。 「……伝えるべきかどうかは、迷うところだけれど。それでも、私はこの字が好きよ」  普通は目の前に置かれる作品を見たところで、誤解しているという事実に気付くことはない。男性と付き合うのは女性だと、それが当たり前で常識なのだと世間が肯定している。櫟と海青の関係など疑う余地もなく、道徳的なものでさえありはしない。  それなのに、この老婦人はたった一文字に籠められた感情を掬い取って、理解しようとして、そうして、正しく受け取ってくれた。当たり前も非常識も関係なく、二人の関係として見てくれたのだ。 「すげぇな、ばあちゃん。俺もこれが一番好きだよ」  老婦人の勘違いだと否定しようとして、だけれどそれは出来なかった。書道家として自身を切り出している櫟や、昇進したいと懸命に頑張っている深月や、下っ端としてがむしゃらに働いている萌のことを思うと、自分だけの感情で勝手に同意するのは気が引ける。それでも素直に笑えたのは、彼女が櫟の紡ぎ出す愛情を肯定してくれたからだろう。  海青の両親はまだ健在であるはずだが、もう何年も前に縁を切ってしまっていて、今どこで何をしているのかは分からないでいる。幼少期から反抗して反発して、仲は拗れるところまで拗れてしまったせいで淋しいとは思わないし、切れた縁を後悔したこともないが、老婦人のようであればきっと、仲良く出来たのだろうと思った。 「初めてなんだよ。初めて、書いてくれた。簡単な字のくせに遊びでだって書いちゃくんなかった。でも、」 「そういうところも、好きなんでしょう」  引き取られた言葉の端に、交わった視線がくすぐったくなる。人生の先輩には何でもお見通しらしい、と両手を挙げて降参を示すと、彼女は眩しそうに睫毛を震わせる。重ねた年月に逆らうことなく目尻や口元には皺が刻まれ、背中はなだらかな山を築く。それなのに耳をくすぐる柔らかな笑い声も、ふっくらとした丸い頬も、穏やかな微笑みも、少女のように可愛らしく映った。  櫟の大切の中にいるのが自分だと認めてしまうことで、その影響は深月や萌にまで届いてしまう。それを慮って否定しようとしたものの、彼女の微笑みを見るだけで白状して良かったと思った。 「ばあちゃんに愛されるじいちゃんは、幸せものだな」  向けた視線の先では今もまだ、櫟と老紳士が穏やかに話をしていた。何故か櫟の作品ではなく他の人の作品を前にしているようだが、連作の一つだろうから流れで説明させられているのだろう。眉根一つ顰めず、反対に櫟の顔には珍しいくらいおかしそうな笑みが広がっていた。 「同じよ。好きで、好いてくれて。それはあなたたちもでしょう?」  なんてこともない、と明るく告げられた言葉は、確かに酷く単純明快な感情論だ。櫟も海青も、ただ好き合っているだけではあるけれど、老夫婦のような当たり前の中には存在しない。それでも、当たり前として扱ってくれる人がいるだけで心が晴れるようだった。 「ありがと、ばあちゃん」 「どういたしまして」  止まっていた喧騒が戻ってくる。小さな子どもが走る足音、途切れない話し声、離れていても分かる櫟の楽しそうな様子。自分たちはこの中で唯一の浮ついた存在かもしれないけれど、日常に隠れた当たり前を知っている。比べてしまうと似非だと笑われてしまうかもしれないけれど、それでも確かに、当たり前なのだ。  老婦人の目元に浮かぶ皺が一層深く刻まれる。下げた視線に認めた温かさを記憶に残して、海青はまた櫟の作品を見上げた。櫟がようやく見せてくれた、愛情の煮詰められたたったの一文字を。 *****  その日の夕食当番は海青だったため、フレンチがベースのお洒落なカフェテイストとなった。白く平たい大皿には白身魚のムニエルが盛られ、甘い舌ざわりに変化したレモンのソースで味付けられている。横に添えられているズッキーニや茄子、パプリカはただ焼かれているだけなのに、素材の味が柔らかく舌に溶けていくようだ。  付け合わせのサラダマリネにも手作りのレモンソースが混ぜられ、開け放った窓から流れ込んでくるぬるい風を引き払うようにさっぱりと冴えていく。冷製のコーンスープは去年から櫟のお気に入りとなっていて、夏の間中作ってくれとせがんでいた。展示であの大きな作品を見てしまった海青は帰る途中から絶対に作ってやろうと決めていて、スーパーでコーン缶を買ってからは櫟から期待の視線を浴びていた。 「暑くなってきたけど、二人のご飯はぺろっと食べれちゃうわ」  小さく切り分けたズッキーニを飲み込んだ深月はほうじ茶を片手にほぅ、と息を吐き出した。麦茶をあまり得意とはしない櫟のために冷蔵庫には二種類のお茶が常備されていたが、洋食には、と今日はほうじ茶が人気となっていた。  展示会場で偶然出会った大家の老夫婦とはあの後も四人で少しだけ話し、関係者に挨拶をするという櫟の言葉でお開きとなった。ほんのりと前かがみで歩く女性と、杖を支えにしながらも隣を気遣う男性が仲睦まじく歩いている後ろ姿はいじらしく、可愛らしいものがあった。人生の大半を共に過ごしてきただろう二人に流れる空気はよく似ていて、偶然の出会いに掛けられた言葉も、二人には尊い記憶として残っていった。 「佐々木さんにお会いするのは久々だったけど、どちらもお元気そうでよかったよ」  昼間に起こった偶然の出来事は櫟の口から早々に深月や萌にも語られ、行けば良かったと溢す深月に萌が不貞腐れたような振りをする。湿気も混じるこの季節は客も多いのか、休憩時間も碌に取れないとぼやく萌はただ、仲間外れにされたようで口惜しいのだろう。  頬を膨らませる萌を深月は存分に揶揄って、満足したのか互いにふわりとした笑みに変わっていく。ころころと変わっていく二人の様子がおかしくて海青も笑っていたが、ふと頭には老婦人と交わした言葉が浮かんだ。 「ああ、そうだ。ばあちゃんにはバレたから」  正確には気付かれた、なのだが、些細なニュアンスは無視される。海青を飾り立てる一文字を櫟が選んで書いた、というだけで分かるのだから、長く生きていることは伊達じゃない。海青の認識としては老婦人を褒め称える色が強く、三人に申し訳ないと思う感情はとっくに消えていた。だけれど、会場にいなかった二人に加えてあの場を離れていた櫟も初耳で、三人ともが舌鼓を打っていた動作を止める。 「バレた、って、何が……?」  ごとりと、大きな音を立ててスープ皿を置いた萌の顔色は血の気が下がり、戸惑いと焦りに興奮して青にも赤にも見える。フォークを握っていた右手を下げた深月も、ほうじ茶の並々と注がれたグラスを握り締めていた櫟も、表情は硬く強張ってしまう。  何を、とバレた内容を問う様式を取ってはいたが、三人ともそれが何を示しているのかなんて答えを聞かずとも分かっていた。だけれど、誰にも話そうとしていない、いっそ隠そうと躍起になっていることが知らぬところで披露されていたのだ、驚きに焦ってしまうのも無理はない。  そんな三人の視線を真っ直ぐに受けても、海青は涼しい顔のまま一口大に切ったムニエルを口に運ぶ。さっぱりと舌を刺激して、レモンの風味が鼻に向けていくのが心地良い。  三人から、特に帰省してからより一層意固地に閉じこもろうとしている萌から明るい反応が返ってくるとは海青も思っていない。どうして、なんで、そう問い詰められる予感はあった。面倒な問いかけ合いになるだろうと、それでも起きてしまったことの報告は済まさなければいけない。溜息にも満たない二酸化炭素を吐き出して、海青はぐるりと三人の顔を見渡していく。 「言っとくけど、ばあちゃんからだからな。別に、嘘吐いてまで隠すことでもねぇだろ」 「俺が旦那さんと話してたとき?ご婦人はなんで分かったの?」  あっけらかんと言い捨てる海青に、いち早く反応を返したのは櫟だった。老夫婦に会ったのは二人一緒のときではあったが、櫟は老紳士に呼ばれて解説に回っていた。老婦人と海青が二人きりで話していたのはその時しかなかったが、遠目に見ても仲の良い祖母と孫、という和やかなお喋りにしか見えていなかった。  それはそっくり、老婦人に受け入れてもらえた、ということでもある。違和感を醸していなかったのがその証拠である。だけれど困惑の勝った思考ではそんなことにも気付けず、下がった眉尻は上がらない。 「櫟さんの、一番でかい作品。幸せのお裾分けしてもらった気分になるって、すげぇ嬉しそうにしてたよ」  伝えていなかった褒め言葉がまだあったと思い出して、苦く笑うしかなくなった櫟にそのままを渡す。飾り気のない言葉はだからこそ真っ直ぐに届くのだろうが、タイミングの悪さに櫟はただ唇を噛み締めた。  老婦人が旦那に話すのかどうか、そこまでは海青も聞いていない。あれは、あの場でのみ成立する内緒話のように思っている。例え伝えることに決めたとしても、きっとあの夫婦は否定することはせず、ただありのままの事実を受け止めてくれるだろう。  戸惑い、焦る三人を横目に食べ続ける海青は、あと一口分残ったスープを飲み込めば食べ終わってしまう。冷たさが消えてしまう前に飲み干そうとカップに手を伸ばした海青は、だけれど萌の硬く掠れた声に止められてしまう。 「ちょっと、ねぇ、海青さん、ねぇって。なんで勝手に言っちゃうの? 誤魔化せばいいじゃん」 「ばあちゃんは否定しなかった。だったら誤魔化す必要もないだろ」 「だからって!わざわざ曝け出してく必要はないでしょ!」  叫びに濡れた声は苦々しさに満ちていて、ばちりと机に叩きつけた手は赤く火照っていく。萌の小さな手は夏でもあかぎれが目立ち、火照るたびに余計な痛みを伴っていく。眉間へと絞られていく皺はいくつにも重なっていき、悲痛さに見開かれた瞳は瞬きひとつで弾き落ちてしまいそうだ。  隣に座る櫟が焦りと憤りが混じって震える背中をひと撫でし、窘めるような視線を海青へと送る。その瞳にも混乱は色濃く塗り込められていて、海青は自分の判断が間違いであったのだろうかと、最後のスープを飲み込んだ。  同性とも異性とも恋愛関係になれる海青は、三人ほど他人に否定されたことはない。両親と離縁したのは表面上に浮かぶ人間としての相容れなさが原因であったし、遊び歩いていたときもその場限りだと割り切っていたために人間性は問われなかった。だからこそ三人の心にささくれ立つ痛みを理解しきることは出来なかったが、老婦人の微笑みを知ってしまえばそんな後悔はさらりと波に流されていく。 「この世の全員から隠れて生きてくつもりかよ。いい加減腹くくれ」  櫟も、深月も、萌も。柔らかい場所にある愛おしさを切り取った作品を見て微笑む彼女を見ていないから焦って、怖くなるのだ。海青の瞼には老婦人の目尻に刻まれた皺が、櫟と穏やかに喋っている旦那を見つめる柔らかな眼差しが、くっきりと像を結んでいる。  彼女の言葉に頷いたことを後悔はしていない。きっとあの場にいたのが他の三人のうち誰であったって、きっと海青と同じように頷いているはずだ。  それに、肯定してくれると言外に解りきってしまった人間に対してまで欺こうとするのは、ただ悪戯に精神を傷付けていくだけだ。肯定してくれる人には存分に肯定してもらった方がいい、と海青は思うのだけれど、三人の三様に歪んだ表情は変わらない。 「私たちに迷惑かけるって思わないんですか? さいってぇ」  真ん丸く見開いた瞳を震わせて、萌は勢いに任せて席を立つ。こちらを振り向かないままに飛び出していった萌の前には、まだ半分ほどの夕食が残されている。  嵐のように去っていく後ろ姿を隠してしまった扉を睨んで、盛大に吹きかけられた溜息に海青は横へと視線を移していく。食事中は一つに束ねられている長い髪の毛が宙に舞って、音もたてずに背中へと広がった。  じっとりと見上げてくる吊り目がちな瞳は大きいはずなのに、今は大半が睫毛に隠されてしまう。胡乱に光る視線には流石の海青も何か喋るのを躊躇って、冷えたほうじ茶を塞がる喉に無理矢理流し込んだ。 「考えなしなのは卒業したんじゃないの? この馬鹿」 「考えたよ。考えたから、ばあちゃんには言った」  解かれた髪の毛が、サファイヤに装飾された指先に持ち上げられる。もう一度手櫛で整えられた長い髪の毛が一つに纏まって、呆れを隠そうともしないまま食事は再開される。小さな子どものように幼い調子で持たれたフォークに白身魚が突き刺さり、無遠慮なまでに大きく開かれた口に飲み込まれていく。  前に座っている櫟はいつの間に持ち込んできたのか、軽く注がれた白ワインをグラスで燻り、滑らかに落ちていったところで喉奥へと吸い込んでいった。彼の眉間にも緩く皺は刻まれていて、駄々を捏ねる子どもを窘めるような、呆れかえったような苦笑いを浮かべていた。 「でも、もうちょっと二人のことを考えるべきだったね」  これが櫟と海青だけの問題であったのなら、彼はここまで呆れ果てたような態度は取らなかっただろう。仕方ないな、とひとつ笑って、酒に流し込んでは別の話題へと切り替えていく。内と外の区別がはっきりとしている分、櫟はどうでもいいと割り切ることが出来るのだ。 「私も、過ぎたことは仕方ないって思えるわよ」  付き合った経験は少ないのだと、酒を飲み交わす席で深月はぽつりと溢したことがある。母親とずっと二人で生きていくのだと誓ったはずの心にはいつの間にか萌がいて、守りたい存在が出来たからこそ強くなった、とも。 「近しい人の否定ほど、辛くて怖いものはないんだよ」  消えていった背中を探すように、櫟は廊下へと続く扉に目を向ける。少し前に深月を伴って帰省した萌は結果として何も話そうとはしなかったが、青褪めた唇に駄目だったのだろうと予想はついた。仲違いした原因が自分たちにあるのだとも分かって、だけど何も変えられやしない。海青は苦虫を噛み潰すように奥歯を軋らせる。  結果は良い方に転がったからと言って、無関係に喜ぶだけは出来ない。過程に起こり得る苦さを、恐怖を知っているからこそ、萌は大前提に広がろうとはしない。周りと断絶される溝の深さに嵌らないよう、自分で守るしかないのだ。  否定された経験がない海青にも、その辛さや恐怖を想像出来ないわけではない。もしかしたら老夫婦の顔に軽蔑と嘲笑が滲んでいたかもしれない。温かな二人の顔が歪んでいく想像をして、背筋に嫌な汗が伝っていく。  大学の友人が、世話をした部下が、行きつけのバーの主人が、こちらに指先を向けてこそこそと話しているところなんて思い描きたくもない。  でも、だからと言ってそれが隠して生きていく理由にはならないはずだ。萌の震えきった感情も、櫟や深月の窘める気持ちも分かるからこそ、海青の眉間には皺が刻まれていく。 「これからは、誰かに打ち明ける前にみんなで相談すること。いいね?」 「……分かった」  やるせなさに額は垂れ下がっていく。俯いてよく見えるようになった旋毛に、櫟の穏やかな声が降ってくる。気落ちした肩には深月の美味しい、と吐息交じりの賞賛が浴びせられ、素直に喜んでおきたいのに喜べない、複雑さにぐるりと腹が鳴った。
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