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このピアスは俺たちのバトン
人は皆、生まれ落ちると平等にスタートに立つ。そして、死というゴールに向かって生きていく。
高校一年生のときに、朝登はそんな残酷な真理に気づいた。高体連の地方大会。スターターが合図する前、朝登を含めた走者が一斉に並んだ瞬間。「俺って毎日、何十回も人生を繰り返してきたようなものなんだな」と、気づいたのだ。
(でも、ちがうのは……)
この『人生』は何度も生まれ変わる。過去を反省して、次に生かせる。本当の人生は、再び生まれてやり直しができるかはわからない。朝登も他の人間も、誰ひとり命を失ったことはない。死の向こうに何があるかは誰も知らない。考えたって真実にたどり着けないから、朝登は目をそらすしかなかった。
朝登は、100メートルの『人生』を幾度も生き直すことに力を注いだ。走る。ふりかえる。また走る。単純なルーティンでも、確実に自分が成長するのがわかってうれしかった。
0コンマ01秒で勝敗が決まる競技。短距離100メートル走。一瞬で終わるこの競技も残酷だ。しかし開始から10秒足らずで決着がつく、その潔さに朝登は惹かれた。
高体連のアイドルと呼ばれた女子高生がいる。
宮崎夏美。
ショートカットに片耳ピアスという目立つ格好をしていた。
朝登は、彼女がうらやましかった。マスコミにちやほやされるからではない。
ゴールした瞬間、夏美はきらめく。右耳につけた水色の小さなピアスが太陽に照らされて、まぶしく光るからだ。
朝登が通う高校では、ピアスは禁止されている。たとえ容認されていたとしても、朝登はピアスをつけなかっただろう。耳に穴を開ける。死と同じく、未知の経験が朝登には怖かった。本番で頭が痛くなったときどうしよう。そんな不安から、朝登は頭痛薬をシルバーのピルケースネックレスに入れていた。その薬が必要になったことはないが、安心したくていつも忍ばせている。
耳にピアッサーを刺して穴を開けた夏美は勇気がある。常に好成績を残し、インタビューに汗がにじんだ笑顔で応じる夏美。夏美の輝く右耳を見ながら、朝登はいつも思っていた。
朝登と夏美は同い年だった。
夏美というメディアが騒ぐ存在がいるので、朝登たち陸上男子は伸び伸びとプレイできた。
高校最後の高体連。
決勝前のトレーニングのときに、何かがトラックに落ちていた。水色のピアスだった。
「あ、すみません」
夏美が近づいてきた。
「それ、私のです。見つかってよかった」
夏美はジャージのポケットにピアスを入れようとした。
「つけないの、ピアス」
「地面に落ちたから、一度消毒しないとね。あーあ、今回はゲン担ぎなしかあ」
「おしゃれでつけてるんじゃないんだ?」
「走る前に耳たぶを撫でると落ち着くの。バイト代が足りなくて、一個しか買えなかった大事なピアスなんだ。拾ってくれてありがとう」
朝登は自分のピルケースネックレスを取り出した。
「それ、大切なピアスなんだろ? このネックレスに入れて、走れよ。……俺がずっとつけてたから汗臭いと思うけど」
笑いながら言うと、朝登はピルケースから頭痛薬を出した。
「いいの? あなたのゲン担ぎじゃない? 私が身につけていいの?」
「男子決勝は女子のあとだから、直前に返してくれたらいいよ」
「ありがとう。私、がんばるね!」
夏美はネックレスを握りしめて、自分のチームのもとへ走り去った。
その後ろ姿を見つめながら、朝登は頭痛薬を握った。ふと、違和感を覚えた。
薬のカプセルは溶けていた。ずっとピルケースに入れて持ち歩いていたから、熱がこもったのだろう。
「いつのまにか、必要なくなったのかな」
またひとつ、生まれ変わったと思った。晴れやかな気持ちで、朝登は空を見上げた。雲ひとつない澄み切った青空だった。
「やったよ、自己ベスト更新したよ! ありがとう、ありがとう!」
夏美はインタビューの前に、朝登にネックレスを返してくれた。夏美は朝登の首にネックレスをかけた。まだ勝負が決まっていないのに、朝登は金メダルをもらったようなくすぐったい気分になった。
「競技が終わったら、また会おうね。応援してるよ!」
夏美は去っていった。
(『また会おうね』? 俺は、高体連のアイドルとお友達になったのかな?)
朝登はバッグから取り出した頭痛薬を、ピルケースに入れようとした。もう自分には薬はいらないかもしれない。それでも、最後の勝負を前に勇気が出なかった。
ピルケースの蓋を開けようとしたとき、音が鳴った。
夏美のピアスが入っている。取り忘れたのだろうか。
きっと、朝登も自己ベストが出るようにと、願って入れてくれたのだろう。
(このピアスがあれば、俺は本当に生まれ変われる)
臆病だった自分にさよならできるはずだ。朝登は、頭痛薬をバッグにしまった。
朝登はスタートラインに並んだ。身体を動かすたびに、ネックレスが揺れた。
ピアスが奏でる音はとても涼やかで、新鮮だった。
(このピアスは、俺たちのバトンだ)
人は皆、生まれ落ちると平等にスタートに立つ。そして、死というゴールに向かって生きていく。
けれど、ともに走る人、ゴールの向こうで待っている人、見送る人が必ずいる。
(俺はもうひとりじゃない)
高校最後の夏がいま、はじまる。
【了】
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