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失うということ
通夜からの帰り道。星はいつもと変わらず瞬いている。俺が徹夜して見る空と全く同じだった。
街の灯りが、滲んで見えた。
人が命の灯を消したって、世界は普通に時を刻んでいく。
そんな当たり前のことが悔しくて、悔しくて、熱いものがこみ上げた。けれど、人が大勢いる街中を泣きながら歩くのは、はばかられる。もう、声をあげて泣くほど幼くはない。湧き上がってくる感情に蓋をする。大人なら当然だ。
俺は立ち止まると濃紺の空を見上げた。喪服のネクタイを緩める。真由美さん……明日荼毘に付され天国に旅立つはずの先輩のことを思い返した。
『犬養くんが作家になるって信じてたよ。おめでとう!』
三年前、新人賞を受賞したときにメッセージを送ると、真由美さんはすぐに電話をかけてくれた。あのとき俺の鼓膜を揺らした祝福の言葉は、いまでも覚えている。
真由美さんは大学の文芸サークルの一年先輩だ。卒業してからも『私は犬養くんのファン一号だよ』と言って、原稿を読んでくれた。
「真由美さん。『次は私の番』って言っていたのに……疲れちゃったな。読んでほしい人がいなくなっちゃったもんなあ……」
「あ、あの……」
声をかけられた。俺より少し若い、二十歳くらいの女性だった。
「作家の犬養蓮先生ですよね?」
「そうですけど……」
「本物だ……! 握手してください!」
俺が断る前に女性は手を差し出した。
「ずっとファンでした」
「は、はい……」
……ファン、かあ。
真由美さんもそんなこと言っていたなあ。
俺は女性と握手した。女性の手はあたたかった。
生きているからこその熱だった。
……そういや、俺。真由美さんに一度もふれなかったな。抱きしめることも、手を繋ぐことも。あんなに親しかったのに。
どんなに俺が求めても、真由美さん、いないんだ。
こんなに早く、別れが来るなんて。
俺は握手していない方の手で顔を覆った。いままでこらえていたものがあふれ出す。泣き顔で崩れた表情なんて、初対面の人に見せたくない。
「すみません。悲しまれているときに」
女性は手を離した。俺の格好からして、どんな状況かわかったのだろう。
「……さっきの言葉、聞こえちゃって。どうしても言いたくて。犬養先生の小説、みんな大好きですよ。これからも読む人がどんどん増えますよ。だから、だから……」
女性は頬を紅潮させて早口で言った。
「……そうですね。ありがとうございます」
俺はそう言うのがやっとだった。
帰宅後、俺はパソコンを立ち上げた。締め切りが近い。ただ無心で、キーボードを打った。なかなか進まない。
明るく静かな部屋で、言葉を打ちながら何度も頭をよぎった。
いまの感情を作品に込められないか。
その思いが沸き起こるたびに、必死で抑え込もうとした。
恐ろしい人間だ。身近な人の死を、創作の食い物にするのだから。
……でも、いつか俺は書くんだろうな。
無情なことに、人が亡くなってもこの地球は何事もなかったようにまわっていく。自然界のものがそんなに冷たいのなら、生きている人がひたすら弔うしかない。
俺の弔いかた。もっとも真由美さんが喜ぶであろう弔いかた。
それは、真由美さんとの思い出を小説に込めること。
文章を打つと、真由美さんからもらったいろいろな言葉が頭の奥で響く。
『小説って難しいよね。この世にいない人を生きてるように書かなくちゃいけないんだから』
『書いているうちにさ、『この言葉を生み出すために私は生まれたんだ!』そう実感するときってあるよね』
『なんてやっかいな趣味を持っちゃんだろうね、私たち。こうなったら、プロ、目指そうか』
『本屋で犬養君の小説を見つけたら、私、お客さんに大声で叫びたくなるの。『この本を買ってください、読んでください、絶対損はさせません!』って』
カーテンの隙間から、朝陽が差し込んできた。俺は飲みかけのコーヒーを持って、ベランダに出た。誰も歩いていない。車が数台走っているだけだ。
すっかりぬるくなったコーヒーを口に含んだ。
胃に落ちる瞬間、腹の底にたまっていたやりきれなさとぶつかって、苦みをより感じた。
やわらかい金色の朝の光。
光があまりにも綺麗なので、真由美さんの死を憐れんでいるのかと思った。そんなことはないとわかっているのに、そう思いたくて仕方がなかった。
「もう会えないんだね、真由美さん……」
これからどんな朝を迎えても、俺はひとりなんだ。
『なんで病気になっちゃったんだろう、私』
俺が見舞いに行くと、真由美さんはいつもつぶやいていた。
その白く細い手をしっかりと握ってやればよかった。
もしかしたら、俺の熱で真由美さんは生き長らえたかもしれない。たとえ命を失うことになっても、真由美さんは俺の熱を抱いたまま旅立つことができただろう。
真由美さんは元気だった頃、ご両親からもらったプラチナの指輪を右手の薬指にはめていた。
『この指輪。いつか、またつけられるかなあ』
入院してやつれた真由美さんは、指輪をネックレスにしていた。
あのとき、新しい指輪をプレゼントしたってよかったんだ。きっと喜んでくれただろう。真由美さんをこの世界に繋ぎ止められたかもしれない。
確かにあった真由美さんの温もりをどこかに閉じ込めていたら、きっと俺はすぐに開封して、ずっとずっと手のなかでいじっただろう。そうやって立ち止まっていたら、いつまでも歩き出せない。
『たくさん書いてね、犬養くん』
不意に真由美さんの言葉を思い出した。
まだ作家になる前、長い時間をかけて書き上げた長編小説を読んでもらったときだった。
読み終わると、満足そうな笑みを浮かべて真由美さんは言った。
『私が『お腹いっぱいもうたくさん!』って、言うまで書いてね、犬養くん』
「真由美さん……結局、お腹いっぱいにならなかったね」
ふっと笑って、俺は空を眺めた。
朝焼けを見るたびに、コーヒーを飲むたびに、俺は真由美さんを思い出すだろう。いや、きっと日常のふとした瞬間に彼女を思い出しては、喪失感にさいなまれるのだろう。まだ彼女を失った傷はできたばかりで、ふれただけで痛みを覚える。
この悲しみに向き合える日が来たら……いつか来たら。
俺は真由美さんを書く。
そのとき。彼女は永遠に生きる。
物語という終わらない世界のなかで。
大学時代。サークルの部室で、真由美さんはさみしそうに言っていた。
『小説のなかの子供って、ずっと子供のままじゃない? なんだかかわいそう』
『それじゃあ、俺、キャラクターが大人になっていく小説を書こうかなあ』
『いいね、それ! 面白そう!』
あのときの笑顔が忘れられない。
真由美さん。
これからは俺の物語のなかで、いっぱい笑って。いっぱい泣いて。
そして、いろんな恋をして。あなたが現実で叶えられかなったことを、俺が描いてみせる。
俺が老いるのと同じ早さで、あなたもちゃんと歳を取っていくんだ。
俺の話のなかで、自由に羽ばたいて、輝いて、真由美さん。
ごめんね、俺にはこれくらいのことしかできないんだ。
真由美さん、あなたは。
二十七歳で、はかなく散ったあなたは。
あなたは、俺のヒロインです。
いままでも、これからも。
【了】
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