白き友をけわう

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 その後数人の客の対応をし、谷の街にも夕方が訪れた。夕方とはいえ谷の街のそれは空の色が変わる前に訪れる。周囲を高い山に囲まれているから、太陽がオレンジ色になるより日が沈む方が早いのだ。その分店仕舞いも早い。ミランダへ帰宅を促そうとし、ケイトは彼女の横顔の異変に気が付いた。  ミランダはウェディングドレスの横で椅子に座っていた。デッサンはしておらず、スケッチブックも鉛筆も持っていない。描き終わったのだろうか。 「……ミランダ」  少し躊躇ってから名を呼ぶ。ミランダがケイトを見遣る。  思い詰めた様子のその顔へ何を言うこともできないまま、ケイトは苦し紛れに「紅茶、飲む?」と(たず)ねた。 「……いただきます」  ケイトが紅茶を二つ淹れている間に先程客がいた席へとミランダが座る。その向かいへ再び座り、ケイトは己の分の紅茶へと口をつけた。 「売らないんですか」  ミランダが唐突に問う。それは問いかけのようでいて確認めいていた。  少しの沈黙。 「……売れないんです」  紅茶の湖面を見つめたままのミランダへ、ケイトは呟くように答える。  絞り出すように、改めるように。  思い返すように。 「売ってはいけないんです。あれは、私の大切な子へのプレゼントだったから」 「……大切な、子」  ミランダの小さな声に頷く。 「友達。学生時代からの」 「……どんな?」 「明るい子だった。それと、モテた。いろんな男の子と遊んでて、でも人生を投げ出したわけじゃなくて、本当に……純粋に相手の好意に報いようとしていた、良い子だった。でも相手はそうじゃなかったみたいで」  ティーカップから湯気が上がる。谷の街の朝霧のように、白い煙が立つ。 「妊娠したの」  ケイトの言葉にミランダは何も言わない。 「男の方は逃げた。でもあの子は逃げなかった。それどころかその後にものすごく良い人を見つけてね、妊娠したこともわかった上で結婚してくれるんだって、この人と結婚したいんだって、笑ってて」  とても明るい子だったんだ、とケイトは笑った。 「本当に、底抜けに、良いことばかりを考える子だった。家庭環境はあまり良くなくて、それでも捻くれずに『自分の力で自分を幸せにしてやるんだ!』って拳振り上げてね。ほんと、笑っちゃうくらい……だから私も気付いてあげられなかった。ううん、気付こうとしてあげられなかった」 「……その子は……」 「死んだの。殺された。旦那になるはずだった人にね。逃げた男の依頼であの子を殺したの。偉い人の息子だったしあの子には血縁者もなくて、事件は有耶無耶(うやむや)」  ケイトは店頭へと目を向けた。そこに立つ、白いウェディングドレスを見つめた。 「あのドレス、お腹周りを緩くしてあるの。締め付けないように設計してて、だから他の人には売れない。あの子のためだけのウェディングドレスだった。サプライズで作ってたんだけど最後に喧嘩別れしちゃってね。あの子もあの子なりにストレス抱えてたのを気付けなくて。謝ったんだけど聞き入れてもらえなくて……会えないまま死んじゃって、結局着てもらえなかった」 「……怒った?」 「まさか。悲しかったけど。あの子には幸せになって欲しかったもの。この思いはあのウェディングドレスに詰め込んである。布にも糸にも込めてある。今更それをあの子以外に着せるつもりはないよ。……ねえ、ミランダ」  ケイトはそっと少女へと語りかける。 「あのウェディングドレス、着てくれる?」  ミランダは顔を跳ね上げた。そこにあったのは驚きだった。そうだろう、今の話を聞いていたら、ケイトのこの提案は突拍子もないものだということがよくわかる。  それでもケイトは訊ねる。 「どうかな」 「……どうして?」  ケイトは答えなかった。ミランダはウェディングドレスを見つめ、しばらく押し黙った後、小さく頷いた。 ***  扉の板を「CLOSED」にしてから、ケイトはウェディングドレスを店頭から外した。緩めにしていたお腹周りを調節し、ミランダへとそれを着せる。  お腹周り以外はミランダにぴったりだった。  ついでにとミランダの髪を結い上げ、顔へ化粧も施した。白い肌に赤い口紅、ラメを宿す目元は柔らかなベージュ。頬の赤らみはチークによる色だけではない。 「……すごい」  ふわりとミランダは鏡の前で身体を捻る。その動きに合わせて裾が床を擦り、布がゆらりと揺れる。  揺めきに合わせて、ミランダの目にも喜びの色が差す。  艶やかな、煌めき。  歓喜の色。 「こんなに、綺麗に、フリルがひらめいて。お姫様になったみたい」 「妖精の女王様イメージなの。あの子そういう話が好きだったから」 「背中のフリル重ねは翅?」 「そう。ラメ入りで半透明の布だから照明でキラキラ光るし」 「すごい」  すごい、と数度繰り返してミランダは己の姿を見た。何度もくるりと身を返し、何度も胸元を見下ろし、何度もケイトへと微笑んだ。 「ありがとう」  その微笑みはやがて、花嫁が浮かべる至福のものになる。 「ありがとう、ケイト」 「こちらこそ」  ケイトが手を差し伸べる。その手へミランダが手を乗せる。手のひらが合わさる。  ミランダの手は朝霧のように冷え、朝霧のように白んでいた。 「おめでとう。……さようなら、ミランダ」  ミランダの姿が透き通る。霧に紛れるように白んでいく。ケイトが頬へと伸ばした手に応えるようにミランダは笑み、そして。  ――ありがとう、さようなら。  赤い唇だけを動かして。  その声は空気を震わせることなく霧散する。  トサ、とウェディングドレスが床へと崩れ落ちる。雪解けの音のようなそれを、ケイトは手を宙に差し伸べたまま聞いていた。 「……遅いよ、ミランダ」  その頬には見守るような微笑みが残っている。 「ずっと、待ってたんだから。私のこと忘れないとここに来れなかったの? 私と喧嘩別れしたのそんなに気にしてた? ふふ、馬鹿だなあ……」  小さな笑い声が誰もいない店の中で消えていく。誰の耳にも届かないまま、消えていく。  日が昇り始めた谷の街の霧のように。  ゆっくりと、靄が晴れるように。 ***  その後、ケイトは長年店頭に佇んでいたウェディングドレスを廃棄した。店頭のマネキンは季節に合わせてお洒落をするようになり、谷の街セルナータの仕立て屋「マーガレット」は季節折々の華やかな服を求める客で賑わったという。
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