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白猫のたこ焼き屋さん
「ココは今日もかわいいねえ。飼い主に似たのかねえ」
「あんたに似たんじゃないわよ。あたしは千春ちゃんの猫になるんだから、美を追求してんのよ」
いま俺は、スマートフォンを構えてシャッターボタンを押しながら会話をしている。
ひとりで。そう、たったひとりでだ。
「ココ。きみと出会ってもう二十日だっけ?」
「二十七日よ。しっかりして、瑛太。明日には千春ちゃんにプロポーズするんでしょ?」
「そうでした、そうでした。……うーん、ココの向きを変えてみるか」
俺は堤防に座るココーー猫のぬいぐるみを横向きにした。
こうすれば、ココのピンクの鼻が目立つはず。
夏の空は青がくっきりしていて清々しい。雲ひとつない青空に、白猫のココ。このコントラストを写真に残したいから、いつもより早い朝に撮影することにしたのだ。
「もう一枚。……よし、今日の一枚はこれでいこう! さて、仕事開始だ」
俺はスマートフォンをポケットにしまうと、ココを手に持ってキッチンカーに乗り込んだ。
ピンク色のボディに、側面と上の看板に白猫のイラストが描かれた車。看板には、猫の足跡をあしらったオリジナルの書体で、こう書かれてある。
『白猫のたこ焼き屋さん』
ここが俺の仕事場だ。訂正。ココと俺の仕事場だ。
今日の販売場所は、ドラッグストア前の駐車場だ。もちろん、管理者には許可を取ってある。
営業時間になると、俺はたこ焼きをひたすらつくる。狭いキッチンカーは熱がこもる。少しでも熱を逃がそうと俺はファンつきのベストを着ている。
ココはキッチンカーの奥から、客に向かって愛想を振りまく。当然ココはぬいぐるみだから、営業スマイルもしなければ「いらっしゃいませ」も言えない。でも、たこ焼きを受け取る客が一瞬ココを見る。ココは看板娘としてしっかり働いている。
「よお、にいちゃん」
常連のおじさんが、首に巻いたタオルで汗を拭きながらやってきた。
「あ、こんにちは! 今日もネギ塩ですか?」
「おう、ひとつな。あ、作り置きでいいよ。できたてでなくていいから」
「ありがとうございます!」
「今年は熱いから、涼しくなったら布団のクリーニングが増えるだろうなあ……」
「そうですね。俺も頼もうかなあ」
「お、にいちゃんだったら、安くしとくよ!」
「やめてくださいよ。こちらはおまけしたことないですよ。はい、お待たせしました。ネギ塩です」
「ははは、きっちりやるか、お互い! ……ところでさ、前から気になってたんだが。どうして、にいちゃんは移動販売をはじめたんだい? 天気に左右される商売って大変だろ?」
「えっと、その……好きな人の足と目なんです、この車」
客と店員の関係なんだから、無難な返事でもよかった。でも俺は、毎日のようにたこ焼きを食べてくれるおじさんには、本当のことを話したかった。
「恋人に、いろんな景色を見せたいんです」
車椅子に乗る千春が、じっと写真を眺めている。ココを膝に乗せて。
仕事を終えた俺は、コンビニで写真を一枚だけプリントアウトして、千春の家にやってきた。
「潮風を感じる写真だね。思い出した。海岸線をバイクで信号待ちをしているとね、口のなかが、じわーっとしょっぱくなるの」
千春はココの頭を撫でた。
「よかったね、ココ。今日も瑛太と旅ができたね。あれ。ココったら、ちょっと日焼けしたんじゃない?」
「なあ、千春。明日、キッチンカーで出かけないか? 連れて行きたいところがあるんだ。車椅子は乗せられないけど……」
「いいよ! 瑛太の仕事が終わってからだよね?」
「ありがとう、楽しみにしてて!」
千春は車椅子を動かして、本棚にある水色のポケットアルバムを手に取った。ソファに座る俺の近くまでやってくる。
「瑛太、ココを抱っこして」
「うん」
千春はポケットアルバムをめくる。
公園の噴水前。カフェのテラス席。銅像の足元。どの写真にもココが写っている。
俺が毎日一枚ずつ撮影した写真だ。
今日の写真をアルバムにおさめると、千春は微笑んだ。
「ほら、やっぱり。ココ、日焼けしてるよ。瑛太、いっぱい写真撮ったね。あと一枚でアルバム完成だね」
このポケットアルバムは二十八枚入り。今日でココを撮影して二十七日目だ。
「私も『ココの旅アルバム』に写っていいの? 明日出かけるって、そういうことだよね?」
「え! えっと……も、もちろんだよ」
まさか明日のサプライズが知られたのだろうか? 一瞬ドキッとしたが、バレてはいないようだった。
家に帰り、明日の仕込みを終えて、俺はベッドに潜り込んだ。
ココをベッドサイドテーブルに置いた。
俺は目を閉じた。図書館前のベンチ。無人駅の窓。バスの待合室。ラベンダー畑。いままでココを撮影した場所が次々と浮かんできた。
俺とココが出会ったのは、ジュエリーショップだ。
『このぬいぐるみは、当店のマスコットです。婚約指輪と一緒にプレゼントされると喜ばれますよ』
そうスタッフに言われてショーケースを見たとき、俺は声を上げそうになった。
俺の店の名前は、『白猫のたこ焼き屋さん』いま目の前にあるのも白猫。
この偶然は運命に違いない。
俺はその店で、千春の婚約指輪をオーダーメイドして、ぬいぐるみを購入した。
指輪ができるのが二十八日後と知り、帰りに写真屋で二十八枚入りのポケットアルバムを買った。
特別な日をもっと大切な日にしたい。
このプロポーズを最高の思い出にしたい。
俺は千春に指輪を渡すまでの二十八日間を未来に残すことにした。
それが、『ココの旅アルバム』だ。
バイク事故で歩けなくなった千春に、俺は街で見たことを話していた。最初は口にするのをためらっていた。
きっと、遠くまで髪を風になびかせて走っていた日々を思い出してしまうだろう。そう思っていたけれど……。
『瑛太が話してくれるから、バイクに乗っていた頃を忘れなくて済むんだよ。時間が経つと記憶って曖昧になるから……。私、歩けなくても、バイクで走ったときの気持ちはずっと覚えていたいんだ』
そう千春は言ってくれた。
時が経つと忘れていく。
俺も、プロポーズしたときのことをやがて忘れてしまうのだろうか。
いまの心は、いつか時の彼方へ消え去ってしまうかもしれない。俺はそれが怖かった。
千春に結婚を申し込もうと決めた日は、一晩中眠れなかった。付き合おうと言った日よりも、たかぶっていた。
指輪を発注する店を探し、デザインを決めたときは、心が踊った。がっかりしないかなと不安になることもあった。
できることなら、千春と過ごした日々を、人生最期の日まで、すべて忘れずに生きていきたい。交わした言葉、ふれた温もり。全部、全部、ずっと抱えていたい。
そんなことは到底無理だから、俺は形に残すことにしたんだ。
毎日の写真に思いを託していく。
いつか俺がおじいちゃんになったら、おばあちゃんになった千春といっしょに、この日々を懐かしむために。
「あれ、ソースだけ余っちゃったな」
翌日。仕事は順調だった。ただ、ソースの分量を間違えて多めにつくってしまった。俺はソースが入った鍋を持ち上げた。
「完売したから捨てるか……って、うわ!」
鍋を落としてしまった。飛び散るソース。俺の服にはかからず、ほとんどは……。
「ココ!」
ココの体にかかってしまった。
「白猫が茶色の猫になってる……」
「よう、にいちゃん。たこ焼きあるか?」
いつものおじさんだ。
「今日は完売しました……」
「売れたのに、しょげてんのか? ……うわ、なんだそのぬいぐるみ!」
「たこ焼きのソースがかかってしまいました」
「いま汚れたのか? それなら任せろ!」
おじさんはココを俺から奪うと、走っていった。
数十分後。おじさんが戻ってきた。
「ほらよ」
「すごい、綺麗になってる!」
「俺の店のコインランドリーで洗ってきた。お急ぎコースにしたから、ちょっと匂いが残ってるけどな」
「真っ白になったから充分ですよ。ありがとうございます! 今度いらっしゃったときは、おまけします!」
「何言ってるんだよ。お互いきっちり働こうって約束しただろ。俺はただ、自分の仕事をしただけだよ。じゃあな」
「本当にありがとうございます!」
俺はココを抱っこしたまま、深々と頭を下げた。
ジュエリーショップで指輪を受け取ったあと、千春をキッチンカーに乗せた。
「この車、おいしそうな匂いがする」
「たこ焼きがあるからね」
「え、食べていいの?」
「うん、今日は千春の分を残してあるんだ」
海水浴場の駐車場にキッチンカーを停めた。シャッターを閉じて『本日の営業は終了しました』とはってあるから、客は誰も来ない。
俺はキッチンスペースに向かうと、たこ焼きと、千春に渡すものを入れたバッグを手にした。運転席に戻る。
「はい、お待たせ」
「ありがとう、いただきます。このたこ焼き、熱いね」
「ヒーターの上に乗せていたから冷めてないんだ」
「おいしい。瑛太、いつもがんばってきたね」
「俺がどうしてがんばってると思う? 千春を笑顔にするためだよ。……だからさ」
俺はバックからココと、紺色のリングケースを取り出した。すぐ近くで、千春の息を呑む音が聞こえる。
リングケースを開ける。なかにあるルビーがついた指輪を、ココの腕に通した。
両手でココを抱えて、俺はゆっくり言った。
「これからも、ずっとずっと千春を笑顔にすると約束します。俺と結婚してください」
千春はココを胸に抱いて、何度も、何度も頷いている。
俺は千春の左手を取ると、薬指にリングをはめた。
指輪のルビーは、夕陽に照らされて紅く輝いている。
涙を拭う千春を優しく抱きしめた。顔を近づけたとき、千春は笑っていた。
「瑛太とココ、おんなじ匂いがする」
俺は思わず吹き出した。
「おいしそうな匂いしてるだろ?」
「うん。すごくあったかくて、私が大好きな匂いだよ」
【了】
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