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いつの間にか夜の住宅街に立っていた。朧な雰囲気はすぐに夢だと知れた。右手にだけ家が立ち並び、左側は吸い込まれそうな闇があった。アスファルトが側溝まで続き、そこから先は闇に溶けている。壁もなく、まるでその先が崖にでもなっているかのように、ぽっかりと闇しかない。ただ、奇妙なことに、電燈が規則正しく並んでいた。光はアスファルトしか照らさず、闇を暴きはしていないが、確かな光源になっている。目の前にあるのはそんな光景だった。
なら、後ろは?そう思っても振り向いてみる気にならない。なぜか、恐ろしい気がした。すべては夢だ。そう思っても恐ろしかった。
住宅街を進むことにする。俺が横に来るたびに家の明かりが消えた。人の気配は背後にしかない。よそよそしい知らない町、知らない造り、だが一本道なので迷いようもない。背後の存在から逃れたくて、でも俺は歩いていた。走り出したら、その気配がたちまち形をとるような気がした。ゆっくりとした足取りに、確かにそいつはついてくる。だが、それ以外は穏やかな夜の散歩に過ぎなかった。
やがて、一本道の向こう、地平線からつきが顔を出し始めた。白く、緩やかなカーブを描く頭が黒一色の空にせりあがる。大きい。まだほんの上部しか出ていないのに、夜空そのものを持ち上げるように視界に映る。ありえない大きさの月。だがそれもまた、夢だった。夢でしかなかった。だから俺は進む。背後の気配を無視して、少し足を速める。
まばゆく大きい月の光が、右手の家々を照らした。表札の文字が浮かび上がる。進みながらも俺は右手に徐行した。「はるか」「けんた」「かすみ」「しょうご」「るり」「しょういち」そんな名前だけの表札を掲げた家々が、俺のお通りで音も立てずに明かりを消した。
「たのしい?」
その声は大きくもなく、耳元でささやいたように確かに届いた。思わず足を止める。二つ先の電燈に、白い少女が立っていた。
「よそ見しちゃダメ」
そういう自分は月を見上げたまま。俺から見たらそっぽを向いてるようだった。
「君を見てるよ」
「よそ見だよ」
私を見て、というわけではないらしかった。ならば、声をかけられるまで見ていた表札、名札のことだろうか。
「読まなきゃダメなのかい」
「もちろん」
やけに落ち着いた声で言う。そんな少女に興味がわいて、再び歩みを進める。背後の気配は待っていたようだ。
「こんな時間に何をしてるの?」
靴音を立てても少女は動かない。身じろぎせずに月を見ている。
「よく見えるよ」
指を差す。見上げれば、月はその姿を3分の2ほども出したところだった。空をほとんど覆ってしまう。その光に満たされる視界の端で、またひとつの明かりが消えた。名札は見ない。
「よそ見はダメ」
「ちゃんと見てるさ」
電燈を1本通り過ぎ、次が見えたので立ち止まる。ぐい、と左の袖が引かれた。
「見なきゃダメ」
右へと誘う。
「勘弁してくれよ」
宥めて抱き上げる。薬指を握られたので、右に抱えて目隠しにしつつ指きりげんまんのようにつないだまま。
「ほぅら、よく見えるだろ?」
ちらと伺うと、少女は髪まで白く、前髪で顔は隠れている。頬や首は、抱き上げたシフォンのワンピースのように柔らかく、滑らかそうだ。
「よそ見だよ」
「ちゃんと見てるよ。君がいるから見えないんだ」
沈黙は困惑か、不満か。ついに少女は黙りこくった。
「ごめんごめん。じゃあ、僕の質問に答えてくれ。そしたら言うとおりにしよう」
初めて少女が僕を見た。といっても見えるのは前髪だけ。その奥の顔がこっちを見たのだ。
「なあに」
「お月様のことだ」
抑揚がなくとも興味を持つ。興味を持てばすぐ釣れる。子供は本当にかわいい。
「よくみてごらん」
白くて大きなお月様。少女はちらりと目を戻す。
「月に暮らすウサギさんを信じるかい?」
返事はない。完全に月に向き直る少女。
「探してごらん」
一緒に見上げる。薬指はつないだまま。
「こんなに大きな月なら、もしかしたら見えるかもしれないよ」
小さな手を手繰り寄せる。小さな肩、その奥の首筋―――
「そんなことなら」
ぼりぼりぼり
「いるよ」
奇妙な物音とくぐもった声。左の手に奇妙な感覚。
「いるよ」
ゆっくりを視線をおろす。明かりの残った家の屋根。視界をふさいで上下する白い頭。白い額。真っ赤で大きなウサギの目。
「いるんだよ」
諭すような6人分の子供の声。6人の面影を映したウサギの顔。僕の指をかじりつくして、手首に迫る。締め上げるはずだった細いノドを、僕の肉が通り過ぎる。
「いるんだよ」
僕を頬張っているはずの彼女の、愉しそうな声がする。左の腕が食い尽くされて、少女は僕のノドに飛びつく。バランスを失った僕は、真後ろへ仰向けに押し倒される。月は空を埋め尽くす。
そして僕の真後ろには、見慣れた妊婦が立っていた。月と同じ色のマタニティドレス。振り乱した髪。月を見上げてのけぞったノド。響き渡るのは音の立たない哄笑。息が漏れる音もさせずに、全身で笑うあの姿。
「確かに、いたね」
僕はそれだけいうことができた。そこで声帯はもがれたけれど、不思議と唇は動き続けた。誰にも届かぬその言葉。
「ごめんなさい」
世界に聞こえぬ、その言葉。
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