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エピローグ
「ごめんね、送ってもらっちゃって」助手席に乗っている美咲は、運転席の雄一郎に言った。
「いや、別に。本当に、新幹線の駅まで送っていかんでええん?」
「うん、普通列車で向こうの駅まで行って、そこからのぞみに乗り換えるから」
「もう帰って来んのじゃろ?」
「さあ、どうだろう。でもしばらくは帰って来ないと思う」
軽自動車の貧弱なサスペンションが、拾った道路の段差を吸収しきれず、車体が上下に揺れる。
「私のうちほどじゃないけど、ゆうちゃんとこもけっこう大変だったんじゃないの?」美咲が雄一郎に問う。
「まあ、なあ……。別に昔のことはどうでもええけど、ご近所にみっちゃんのことを悪く言いふらしよったっちゅうのは、ちょっと許せんわい。俺も、仕事見つからんでも、家を出ようと思うとる」
自治会は活動を完全に停止した。今年度末の住民総会を経て、正式に解散されることになる。
自治会長の五島は、自分の任期中に集落で殺人事件が相次いだことに責任を感じたのか、重度のストレス性胃潰瘍と大腸炎を併発して入院した。会計の東は、義捐金の返還トラブルが原因となり、熟年離婚になった。新興宗教の信者だった高崎は、追われるようにどこかに引っ越して行った。殺された酒本の美容院は、土地と建物が開業の際に借りた銀行融資の抵当になっていたため、銀行差し押さえとなった。
自治会の所有物である集会所の土地建物をどうするかまだ決定していない。売却するにしても、トイレはあっても風呂はないので居宅としては非常に使い勝手が悪く、しかも大山田が殺された事件現場である集会所を欲しがる第三者が現れるとは思えない。更地にして売り出しても、買い手が付くだろうか。
誰もが不幸になった。きっと美咲が知らないだけで、存在しない殺人事件をめぐって、住人どうしが争い諍い、そして何かを失った人がほかにもいるのだろう。
美咲はハンドルを握っている雄一郎の左手の甲に、手を重ねた。
「もしよかったら、私と一緒に東京来ない? 来たからって、別に何かが変わるわけでもないけど……」
雄一郎は前を見ていた目を、ちらりと美咲のほうに向けた。
「東京行っても、土地勘がない場所で仕事見つけてやっていけるかどうか。俺はずっと田舎で暮らしてきたけん。なんぼ地方の有名な料亭で修行したいうても、都会じゃ誰も知らんじゃろう」
「いつか言ったでしょ、私が養ってあげるって。その代わり、私専属の料理人と運転手やってもらうけどね」
雄一郎は鼻先で小さく笑った。
「俺は和食しか作れんぞ。寿司は握れても、洋食も中華も専門学校以来やっとらんけん、毎日食べるような家庭料理はできん」
「でも、私よりはましでしょ。私なんか、ゆでたまごの殻むきもまもとにできないもん」
「自慢げに言うことかいな」
そんな会話をしながら、美咲は自分が笑顔になっているのを自覚した。ここ最近、笑っていなかったことを思い出す。
「そういや、来月はみっちゃんの誕生日じゃったの」
いきなりそう言われて、美咲は少し驚いた。来月十二月八日で、美咲は三十四歳になる。
「覚えてたの?」
「忘れるかい。忘れようと思ても、忘れられんわい」
美咲は自分も雄一郎の誕生日を覚えていることを、脳内で確認する。四月八日。ほかの人の誕生日はことごとく忘れ去ってしまったが、なぜか雄一郎の誕生日だけはしっかりと記憶されていて、消えない。
駅前に到着した。客待ちをしているタクシーの列ができている。雄一郎はその十メートルほど手前に車を停めた。
「それじゃ、連絡待ってるからね」
美咲はそう言って降車し手を振ると、キャリーバッグを引きずって駅の入り口に向かった。
了
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