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 ホールスタッフ募集<BR>  10:00~23:30で3時間以上勤務できる方<BR>  土日勤務できる方歓迎、経験年齢不問<BR>  時給1200円(ただし22時以降は1440円)<BR>  交通費別途支給、ユニフォーム貸与<BR><BR>  アットホームな職場です。私たちと一緒に働きませんか?<BR>  美咲はディスプレイに表示されたその記述を、マウスポインタでなぞって削除した。そして、「ただいま募集しておりません」と打ち込んで、ファイルを保存した。  今年の四月以降、飲食業や観光業は想像を絶する不況に見舞われた。その破壊力は、一瞬で全てを薙ぎ倒して粉微塵にする竜巻のようでありながら、いつまで経っても終わらず延焼し続ける火事のようでもある。  美咲は会社からの指示を受けて、クライアントのウェブサイトをメンテナンスする作業をしている。  クライアントは中小のBtoC事業、つまり小売店や飲食店などが多い。  ウェブサイトから求人募集の内容を削除する指示が、毎日のようにやってくる。そして、あるいはウェブサイトそのものの削除の指示もある。  お店が閉店または倒産したのだろう。  作業自体は十秒も要さない単純なものだが、誰かもしくは何かの終わりを告げる作業は、あまり気分の良いものではなかった。  ノートパソコンのキーボードから手を離し、コーヒーを飲んだ。マグカップのなかですっかりぬるくなったコーヒーは、舌の根に微かな酸味を残す。  さて続きをやろうと思ったところで、家の一階からインターホンが鳴る音が聞こえてきた。  美咲は部屋を出て、 「はーい」と言いながら階段を下りた。  玄関の三和土に出て、母のサンダルに足を突っ込みドアを開いた。 「回覧板です」と、そこには六十代の女が立っていた。  隣家の主婦の大黒(おおぐろ)だ。 「あ、どうも」回覧板を受け取りながら美咲は言った。  大黒家には美咲より四歳年下の幸子がいて、子供のころは一緒に遊んだり、大黒宅に呼ばれてお菓子をごちそうになったりすることもあったが、小学校高学年くらいになると四歳差という年齢差がずいぶんと大きく感じるようになったため、疎遠になってしまった。  ちなみに幸子は、今は県北のほうで専業主婦をしているらしい。すでに子供も二人いるようだ。 「もしかして美咲ちゃん、お仕事中じゃった?」 「ええ、まあ」 「お邪魔してごめんね。お母さんはまだお仕事やね?」 「はい」 「そう、じゃあお母さんにもよろしく伝えといてえね」  そう言って大黒は去って行った。  緑色の大型バインダーの形をしている回覧板の(おもて)には、「第二新光集落回覧板 五班」とプリントしてある。それを開くと、そこには次のようなことが書いてあるA4の紙がバインダーに挟まれていた。 *** 九月五日 自治会長よりお知らせ ①九月二十三日に予定していた公民館での敬老会は、新型ウイルス流行のために中止になりました。 ②本年十月より燃やせるゴミの収集が月・木から月・金に変更される予定です。お気を付けください。収集ゴミの分別にご協力をお願いします。 ③すでにお知らせしているとおり、地区別運動会は来年に延期されております。具体的な日時は他の自治会と協議し、決まり次第お知らせします。 ④感染症予防のため、手洗いやマスクの着用、三密の回避に引き続きご協力ください。 ⑤…… ***  そこまで読むと、美咲は回覧板から目を離した。  読むまでもない。その文書を作成して印刷したのは美咲なのだから、内容は全て承知している。  ふつう、地域の自治会や町内会というものは、「○○町自治会」や「○○町町内会」とその地域の住所や町名が冠に付いた名称になっているものだが、美咲の実家があるこの地域は、「第二新光集落自治会」という名称になっている。ちなみに「新光町」という住所はこの市内にはない。  三十五年前に市と大手建設会社が共同で山のふもとを開発し、宅地造成して戸建て用敷地として売り出した。造成された区画は大きく二分して売り出され、不動産業者がそのひとつを第一新光集落、もうひとつを第二新光集落と仮称として名乗ったものが、今でも引き続き使われている。  自治会は、トップである自治会長と二名の副会長、そして渉外担当、防犯担当、広報担当、会計担当、書記担当の役員、合計八名で構成されている。  また、合計八つあるブロックにそれぞれ一名ずつ、連絡役の班長が置かれている。ちなみに各ブロックは十五戸から二十戸の家で構成されており、第二新光集落は空き家になっている家を除いて、合計百四十六世帯で構成されている。  毎月、第四水曜日の夕方から、集会所で定期の自治会会議が開催され、役員及び班長は特段の事情がない限りは参加しなければならない。  役員班長の選任方法はくじ引きだが、くじに当たって役員または班長を一年務めれば、その後五年は役員や班長就任を免除されることになっている。  もちろん、進んで役員や班長をやりたいなどと思っている住人は皆無で、誰もがこのくじに外れることを心から願っていた。当たるにしても、役員が欠けたときのバックアップ要員でほとんど仕事のない副会長になることを期待した。  今年度四月からのくじ引きで運悪く美咲の母親の敏子が、書記に当たってしまったのだ。  書記の主な仕事は、役員班長会議での内容をまとめ、回覧板で住人に報知すべき情報があれば、その文書を作成して広報担当役員まで届ける、というものだった。広報担当役員は、その文書を回覧板に挟んで各班長まで届け、そして班長から順番に各班を構成する家庭へ回覧するということになっている。  美咲は紙をめくっていちばん後ろに挟まっている回覧表を見た。  そしてボールペンを手に取り、スラッシュの区切られた小さい枠のなかに今日の日付である「9」と「15」を記入して、そのすぐ下の枠に、「古瀬」と書き込んだ。  回覧表を見ると、向こう隣りの鈴木家の日付が九月十四日になっていたので、回覧板は鈴木家か大黒家で一泊したのだろう。署名をする欄は、フルネームを書いているものもあれば、苗字をカタカナで書いてあるもの、枠を左右にはみ出しながらシャチハタ印鑑を押してあるものなど、いろいろある。  美咲はさっそく隣の加藤家に回覧板を持って行こうと思ったが、昼過ぎのこの時間帯は留守にしていることが多い。靴箱の上に、無造作に回覧板を置いた。  部屋に戻ると、スクリーンセイバーが動いている画面を見て、ノートパソコンのすぐそばに置いてあったマルボロメンソールの箱の口を開く。空になっている中身を見て、一時間ほど前に吸ったのが最後の一本だったことを思い出した。  キーボードのエンターキーを叩いてスクリーンセイバーを解除し、画面の時刻を確認すると、午後三時四十八分だった。  美咲は立ち上がって、白のTシャツを脱いで長袖のシャツに着替えた。そしてツバの長いキャップをかぶる。  スニーカーを履いて玄関を出ると、まだ夏の熱気で満ちていた。  玄関に鍵を掛けて門扉を出ると、美咲は自分の住んでいる家を眺めた。敷地六十坪の一戸建てはすでに築三十年を超えている。白かった塀はすっかり色あせて、ところどころに緑の苔が貼り付いている。  ここに家を持つことを強く希望したの父だったと、美咲は母の敏子から聞いたことがあった。市の中心部からは十キロほど離れており、決して便利な立地とは言えない。農村と言ってもよい地域を抜けて、山のふもとにいきなり現れる密集した戸建て群は、異様な雰囲気に満ちている。  集落のなかを歩いて、集会所の前を通り、その横の公園をちらりと横目で見る。公園と道路を隔てる金網に、「第二新光中央公園」という古びた看板が掛かっているが、「中央」などとたいそうな名前にはふさわしくない、大中小の各サイズの鉄棒とブランコがあるだけのふつうの公園。  子供のころは、この公園で美咲もよく遊んだものだが、集落は少子高齢化しているため、最近はあまり利用する人がいないようで、公園の地面はびっしりと夏を越えた雑草に侵されていた。年に二回、この公園の草むしりをすることも自治会役員の重要な仕事だと母が言っていた。  十分あまり歩いて、第二新光集落を超えて第一新光集落を抜けると、道路の左右は農地や耕作放棄地に囲まれる場所に出る。  道路の右側を歩いていると、左車線を軽自動車が通り抜けて行った。しかしその軽自動車は、いきなり減速し、そのまま停車した。  気に留めず通り過ぎようとすると、軽自動車の運転手の男が運転席からこちらを見ている気配を感じた。  そして運転席の窓が下に降りていく。  いったい何なんだろう、まさか昼間から道端でナンパでもしてくるつもりだろうか。  そう思って歩く足を速めると、 「ねえ、すみません。あなた古瀬さんじゃないですか? 古瀬美咲さん」という声が聞こえてきた。  いきなり自分の名前を呼ばれたので、立ち止まって振り返る。帽子のつばを少し持ち上げた。青いシャツを着た、短髪で丸顔の男が運転席に座っている。  どなたですか、と問おうとした瞬間に、一気にいろんなことを思い出した。 「やっぱり、みっちゃんだ。ひさしぶりやん。覚えとる?」 「あー、ゆうちゃん!」と美咲は言った。  窪園雄一郎。美咲と同い年で、第二新光集落の八班が属する区画住んでいる。子供のころはよく一緒に遊んでいた。いわば、幼なじみという関係になるのだろう。 「みっちゃん、こっち帰ってきとったんやね。いつ?」雄一郎は言った。 「うん、今年の四月くらいに」 「へえ、全然知らんかった。……で、今どこ行きよるん?」 「ちょっと、コンビニに」 「コンビニって、公民館前のファミマ?」 「うん、そう」 「ほいじゃ、乗ってく? 俺もちょうどそっちのほうに行くけん」  雄一郎はそう言って助手席のほうを指さした。 「いや、いいよ。すぐ近くだし」美咲は軽く手を振ったが、 「遠慮しなくてもええて、どうせついでなんやし」  雄一郎は、せかすように左手の親指で助手席のドアを指している。 「それじゃ、お願いします」  そう言って美咲は助手席に乗り込んだ。 「十五年ぶり、くらいかな。もっとかな」と美咲は言った。  冷房の風が矢のように細く直接頬に飛んでくるようで、冷たい。美咲は帽子を脱いだ。  幼なじみとの思わぬ再会に、気分が少し高揚していることを自覚する。 「そんなになるんか。みっちゃん、ぜんぜん変わっとらんね。後ろ姿ですぐわかった」 「ゆうちゃんもぜんぜん変わってないよ。不思議だなあ。お互いちゃんと歳取ってるはずなのに」 「みっちゃん、まだ独身やね」雄一郎は遠慮なしにそう言う。 「なんでわかるの?」 「だって、指輪してない」  言われて美咲は自分の左手を上げて見る。  そしてハンドルを握っている雄一郎の手に視線を移した。 「ゆうちゃんも?」 「いや、俺はバツイツ」平気な表情のままそう言った。 「あらら、そうだったの」 「七年くらい前になるんかな。二十七のときに結婚したんじゃけど、三年ももたずにダメになってしもて」 「そう。子供は?」 「元嫁さんとこに、女の子がひとり。今年で五才」 「そう」  同級生がすでに結婚し子供もおり、さらに離婚したと聞かされても、美咲はそれほど驚かなかった。実際、昔からの同級生の友人はほとんど結婚しており、独身なのは美咲ほか数名ほど。 「で、みっちゃんは何でコンビニ行くのに歩いてた? 車は?」雄一郎が言った。 「あ、いや……、私ペーパードライバーだから」美咲はそう言いながら少し恥ずかしさを覚えた。 「ああ、そっか」雄一郎は納得した様子で言った。  地方で生活するには、車は必須だと言ってもいい。鉄道も路線バスも本数が少なく、生活の足にするにはあまりに不便だ。だから家庭に一台どころか、成人一人に一台が必要となる。 「大学卒業した後も、東京の会社に就職してずっとあっちで暮らしてて、免許はあっても車を運転する機会がなかったから……。こっち帰ってきてからは、ちょっとした買い物は歩いて行ってて、遠くに行く必要があるときは、お母さんに乗っけていってもらってるんだけど」 「そう。てことは、会社辞めてこっちに帰ってきたん?」 「いや、今年の春先から、会社が完全リモートワークになっちゃってね。あっちで借りてた部屋はそのまんまにしてるんだけど、どうせ通う必要がないなら、戻って来ないかってお母さんが言ってね。まあ、あっちの部屋を引き払って完全にこっちに戻ってくるか、また向こうに帰るかは、まだ決めてないんだけど。会社のほうも、リモートを継続するかどうかまだ決めかねてるみたいだし」 「へえ、都会のほうじゃ、今やそういうのが主流なんやね。仕事内容はどんなの?」 「今は大手IT屋の子会社に勤務してるんだけど、企業のウェブサイトをデザインしたり、メンテナンスしたり」 「すごいんやね。俺そっち方面のこと、ぜんぜんわからけん」 「ぜんぜんすごくないよ。単純作業に毛が生えたようなもん。今どき中学生でもちょっと慣れればできるようなことだし。私たちIT屋の作業員なんて、『デジタル土方』とか『IT土方』とか言われてるくらいだしね」  車通りのない交差点を曲がって、視界の先に目的地であるコンビニの看板が見えてきた。 「ゆうちゃんは、今どうしてるの?」  雄一郎は高校卒業後、県庁所在地の○○市にある調理師専門学校に進学したことを美咲は思い出した。 「ああ、俺、今失業者なんよ。今日もこれから職安に行くとこじゃったんじゃ」 「あら、そうなの?」 「学校卒業した後、○○市の高級料亭に修行のつもりで就職したんじゃけどね」 「高級料亭って?」 「知ってるかな、『たむら』っていうところ。『た』は田んぼの田で、『むら』は平仮名の」  美咲もその「田むら」という名前は聞いたことがあった。県内で最も有名な料亭で、地元の政治家や企業経営者が会員となっていて、よそから来た賓客をもてなすときにも選ばれる料亭だった。もちろん美咲は田むらに行ったことはない。  雄一郎は話を続ける。 「高級料亭って、給料めちゃくちゃ安いんじゃ。夜は店を閉めるのが明けて一時くらいで、そっから後片付け。ちょっと仮眠を取ると、市場に仕入れに出かけて、家に帰れるのはようやく朝の八時くらい。寝て起きたら、夕方にはもう出勤で、超激務。その割に給料は時給に換算したらギリギリ最低賃金を上回ってるくらいなんよ。まあ、修行させてもらってるみたいなところもあるんじゃけど」 「田むらって、コースの懐石料理だと一人前で五万円は下回らないってうわさ聞いたことあるけど、本当?」  雄一郎は少し苦笑した。 「うん、本当。材料もいちばんええとこ使っとるから、どうしてもそういう値段になるみたい。それでも、週に三回くらい来る客もおるんよ。いったい何やっとる人かは知らんけど。……ほいで、二十五くらいまで田むらで修行させてもろうたんじゃけど、そっから給料のええ別の店に移ったんじゃけどね」 「辞めっちゃったの?」 「いや、倒産してしもうた。二か月前に」  美咲は、先ほど自分が消去したウェブサイトの記述を思い出した。飲食店が窮地に陥ってるのは、日本全国どこも同じらしい。 「離婚した後も○○市にずっと住んどったんじゃけど、家賃も掛かるから仕事が見つかるまではということで、実家に帰ってきたんじゃ。でも、飲食店での仕事はなかなか見つからん。というか、求人がほとんどない。いつ回復するかも、ぜんぜん見通し立たんし」 「そっか、厳しいね。……それじゃ、ゆうちゃん料理は得意なんだね」 「まあ、得意というか、いちおうプロじゃし。洋食はぜんぜんダメやけど」  美咲は大学生になって以降、長く一人暮らしをしていたが、料理はほとんどできない。最初は気合を入れて、調味料一式を揃えて見よう見真似でいろいろやってみたのだが、肉を焼いても魚を煮ても満足いくものは作れず、そして余った材料を冷蔵庫で腐らせるだけだった。ほとほと自分は料理をするということに向いてないと理解するまでに、三か月を要しなかった。使い切れなかったみりんや三温糖や出汁昆布などの調味料や材料は、結局全部捨てた。以来、インスタントラーメンと朝食用の目玉焼き以外は、何も作ったことがない。 「じゃあゆうちゃん、もし仕事見つからなかったら、私が養ってあげようか?」美咲は冗談めかして言った。 「いやあ、さすがにそうはいかん。やっぱりいつかは、俺も自分の店を持ちたいし」雄一郎は苦笑しながら言った。  車はコンビニの駐車場に入った。地方のコンビニは、店舗の床面積よりもはるかに広大な駐車場を有している。 「ありがとうね」そう言って美咲は下車した。 「あ、みっちゃん。もしどっか行くとこがあったら、いつでも俺が足になっちゃるけん。遠慮せずに言ってきて。うちに電話してくれたらええけん。どうせ俺もすることないし。うちの電話番号、知っとるじゃろ?」 「えっと、昔と番号変わってないんだよね。うんわかった。何かあったときはよろしく」  美咲はドアを閉めた。  軽自動車は左に曲がりながらバックして、するりと駐車場を抜けて行った。美咲はそれに向かって軽く手を振った。  第二新光集落には、ほかにも同級生が何人かいたが、ほとんどが親元を離れて東京や大阪や福岡などの大都市か、県庁所在地の○○市にいる。進学を機に故郷を出て、そのまま帰ってくることはほとんどない。盆や正月にだけ、都会の人間の顔を装って帰省する。  政府から企業へリモートワークが強く推奨されるようになり、地方移住や故郷に帰ることを選ぶ人間はけっこう多いようで、美咲もその一人なのだが、はたしてこれが定着するのだろうか。それとも、嵐が過ぎ去ればまた都市に吸い寄せられるように戻ることになるのだろうか。根拠はあまりないが、美咲は後者のような気がしている。  夕方六時過ぎ、美咲がリビングでテレビの夕方のニュースを見ていると、母の敏子が帰宅した。 「安売りじゃったけん、ちょっと買いすぎてしもた。レジ袋有料になったんじゃね」  敏子はいつも使っているエコバッグのほかに、白いレジ袋を手に提げていた。なかに入っているシチューの固形スープの黄色い箱が透けて見える。 「まったく、なんでレジ袋にお金払わないかんのんよ。あのバカボン大臣のせいで」敏子は悪態をついた。  今年の七月一日から、環境問題に対処するためという名目で、スーパーやコンビニで買い物をするときのレジ袋が有料化された。消費者にとってはずいぶん評判の悪い政策で、ニュースを見ると小売店側もレジでの接客に支障を来したり、またマイバッグを持つ人が増えたために万引きを見つけることが難しくなったということだった。しかも焦点となるはずの環境対策も、レジ袋を有料化したところでプラスチック消費の総量にはあまり影響がないらしく、本当に誰も得をしない愚策となっている。  当の環境大臣でさえ、「有料化はプラスチックごみ対策ではなく、環境問題に意識を持つきっかけとなることを期待している」などと、得体の知れない自信を満たしながら言っている。少なくとも美咲には、この愚策は意識を持つきっかけにはならなかった。 「すぐ晩御飯作るけん、待っとってね」敏子はそう言って、台所に向かう。  冷蔵庫の扉を開けて、食材を中に入れている母に向かって、 「今日、お昼に回覧板来たんだけど」と言った。 「あー、下駄箱の上にあったね」 「見る?」 「別に見んでもええじゃろ。何書いとるか、全部知っとるし」 「そうだよね。じゃあ、私お隣に回してくるね。たぶん、もう帰ってると思うから」 「お願い」  美咲は玄関に行き、回覧板を手に取るとサンダルを履いた。  夕食は、サンマの塩焼きに切り干し大根とにんじんの煮物、豆腐とわかめの味噌汁に、昨日の残りものでほとんどショウガと醤油の味しかしないこんにゃくとレバーの煮物。  テレビを見ながら敏子が、 「サンマも高なったねえ、昔は冷凍もんなら一匹九十八円とかじゃったのに、今は二百円もして、その上に消費税が掛かるんじゃけん」などと独り言のように言っている。 「あ、そういえば今日の昼間、ゆうちゃんに会ったよ。窪園さんとこのゆうちゃん」  敏子はそれを聞くと、少し箸を止めて何かを思い出すように視線を天井のほうに向けた。 「窪園さんとこの。ああ、そいえば、少し前に帰ってきたみたいじゃね。あの子はたしか○○市のほうにいっとったはずやけど」 「うん、飲食店に勤めてたらしいんだけど、お店が潰れちゃったんだって。だからこっちに帰ってきたって」 「そう。残念じゃね。今はどこも厳しいんやねえ。特に料理屋さんとか旅館とか」  母は雄一郎がこちらに帰ってきていたことは知っていたようだが、ほかのことは知らないらしい。ということは、雄一郎がバツイチであるということも知らないのだろう、美咲はそう思った。もちろん、わざわざ知らない人に知らせるような情報ではないため、美咲はそれ以上は言わなかった。 「そういや、窪園さんところの子も、一人っ子やったね。子供のころ、あんたとよう仲良うしよったね」  それを聞いて、母はやはり気づいていなかったのか、と美咲は思った。  実は、高校一年から三年の夏あたりまで、美咲と雄一郎は恋人どうしという関係だった。ふたりは中学までは学校が一緒だったが、高校は別のところに進学した。しかし、自転車で高校まで向かっていると、家を出るタイミングがほぼ同じなのか、第二新光集落の中央公園のあるあたりで鉢合わせするので、それぞれの高校に向かう分かれ道まで、一緒にしゃべりながら通学するということがよくあった。  そして、そのころにようやく携帯電話を持たせてもらうようになったので、美咲は雄一郎と電話番号とメールアドレスを交換した。それがきっかけとなり、幼なじみと頻繁に連絡するようになって、距離を徐々に近づけることになった。  別れを切り出したのは、美咲からだった。理由は、「受験勉強に専念したい」というものだった。言い訳に受験勉強を持ち出したのではなく、本当にそうだった。家にいても雄一郎とメールのやり取りをしているうちに、いくらでも時間が潰れてしまう。しかし、やってきたメールに何時間も返信しないわけにもいかない。いつの間にか、美咲にとって雄一郎の存在が負担になっていた。  別れを告げられたほうの雄一郎もあっさりしたもので、嫌な顔ひとつ見せずに、「それじゃ、がんばって」と言い、美咲の前から去って行った。後になってから、美咲と別れた後にすぐ雄一郎はほかの女と付き合い始めた、などとどこかで聞いた記憶があるが、真相がいかなるものだったのかは知らない。  ふたりが交際していることを親に隠していたわけではないが、敏子は保険の外交員としてフルタイムで勤務しており、土日も営業に出ることが多かったので、しぜんと親子の会話も少なくなってしまい、告げる機会もなかった。  夕食が終わると、敏子は炊飯器の飯を小さなお椀の形をした仏器に盛り、和室に入って仏壇に供えた。そして線香に火を点けて、おごそかに手を合わせた。  飯の水蒸気と線香の煙、ふたつがいびつな渦を空中に描き伸びて消える。  美咲は食後のタバコを吸いに行こうと、二階の自室に向って階段を登っていると、それを察した敏子が、 「いいかげん、止めなさいよ。身体にも悪いんじゃけん。女のくせにタバコなんか吸いよったら、いつまで経ってもお嫁に行けんよ」と怒気を含んだ大きな声で言ってきた。 「うるさいなあ。女は関係ないでしょ。今残ってるぶんを全部、吸ってしまったら止めます」おざなりに美咲は答えた。  部屋に入って、さっそくタバコに火を点ける。「禁煙など簡単だ。私は何回もやっている」と豪語した著名人がいたが、いったい誰だったか。  IT屋に勤務している人間は男女問わず、おそらく他業種よりも喫煙率が高い。ディスプレイに向かっての単純作業を延々と続けることになるため、気分転換を必要とする人が多いのだろう。  オフィスに出勤していたころは、少しでも臭いを減らすために加熱式のタバコを吸っていたのだが、リモートになってからは充電の必要がない紙巻きタバコを吸うようになった。  平均すると、三日で二箱を消費している。それほどのヘヴィスモーカーではないと美咲は自分では思っている。しかし、自分の健康にはあまり自信がない。実家に帰ってきて、外食やコンビニ弁当だけという生活を脱することはできたが、とにかく運動をしない。コンビニまでわざわざ歩いて行っているのも、ペーパードライバーというのもひとつの理由だが、運動不足を少しでも解消しようと思ってのことだった。  キーボードの上に置いてあったスマホを手に持ち、YouTubeのアプリを起動させたが、よく見ているチャンネルの新規投稿は無かったので、アプリを閉じた。  敏子は毎日、必ず仏壇に手を合わして美咲の父を弔う。  美咲に父の記憶は一切ない。父がどんな人だったのか全く知らない。  父の古瀬光俊が蒸発したのは、美咲が三才か四才のころだった。この第二新光集落に家を建てて、その五年後に蒸発してしまった。父が去った理由はもちろん美咲にはわからない。警察は事件性がない失踪については、ほぼ何もしてくれなかったらしい。  敏子は配偶者である光俊が蒸発した後も、この家に住み続けた。母子ふたりで住むには、二階建て4LDKの一戸建てはあまりに広大だが、それでも引っ越すことはなかった。  敏子は結婚後は専業主婦になることを選んだのだが、光俊の失踪後には自分が大黒柱となるために結婚前に勤務していたところとは別の保険会社に入社した。  昔の言葉でいう「生保レディ」だった母の成績はかなり良かったのか、美咲は一般的な母子家庭としてイメージされるような貧困を感じたことはない。実際、母の受け取る歩合制の給料は平均よりも高かったようなのだが、しかし住宅ローンをいなくなった光俊の代わりに払い続けるのはかなり厳しかったはずだ。おそらく光俊の父母つまり美咲の祖父母の援助もあったものだと推察するが、そこまでしてこの家に住み続けた理由はいったい何なのだろうか。  美咲はそのことを母に尋ねてみたことがあるが、「引っ越すのが面倒だった」とか、「引っ越してあんたの保育園が遠くなると大変だし、保育園を変わるのもかわいそうだと思った」みたいなことを言った。その答えに美咲はいまいち納得できていない。  父が蒸発してから七年が経過した日、ついに家庭裁判所より失踪宣告がされた。  美咲が十一才だったある日、業者がやってきて、和室に仏壇を運び込んできた。当時の美咲の身長より高さのある大きな仏壇で、実際かなり高級なものだとのちに知った。  仏壇にはややこしい漢字の書かれた位牌がおかれ、次の日曜日には寺の住職が呼ばれて、簡単な法要も行われた。  失踪宣告は法的な死を意味するが、敏子はそれをリアルな死としても捉えたようだった。仏壇を購入して供養まで行うということは、敏子は配偶者が帰ってくることはないと覚悟を決め、気持ちに区切りをつけたのだろう。  寺の敷地には父の墓もある。もちろん納めるべき遺骨はないので、骨壺のなかには父の写真と使用していた眼鏡などを入れているということだった。  美咲は母と違って、父の位牌を拝んだことは、一度もない。正確には何度か敏子に促されて、手を合わせる真似事をしたことはあるのだが、自ら進んでやったことはない。記憶にない人間を、どのようにすれば弔うことができるだろう。  実は美咲には、幼いころに見た父の記憶らしきものがある。  場所は間違いなくこの家のリビングで、短髪で口ひげを生やしていた男だった。しかし、生前の父の写真を見ても、父は当時には珍しく耳が隠れるほどの長髪に近い髪型をしており、髭を伸ばしたことは一度もないらしい。  記憶の底にはあるあの髭の男は、いったい誰なのだろう。ひょっとしたら父はまだ生きていて、そのうちひょっこり帰ってくるのではないだろうか。そんなことを考えたこともあった。今でもある。  美咲はタバコの煙を吐き出した。先に宙に薄く漂っている煙を、自分の吐息が吹き飛ばして混ざっていく。  先ほど敏子が言った、「女のくせにタバコなんか吸いよったら、いつまで経ってもお嫁に行けんよ」という言葉が頭の中で残響となって消えない。もし同じ言葉を会社や公的な場でえらい人が言ったならば、即座に問題発言とされるだろう。政治家の発言ならば、辞任要求すらされるかもしれない。  男女同権が求められ、自由で多様な生き方が容認されるようになったことは良いことなのだろうが、一方で堅苦しさを感じることもある。  二十九歳のころ、同僚に誘われて業者が主催する婚活パーティというものに何度か行ったことはあるのだが、自らの過去や体形を「スペック」と比喩される形に数値化して顕し、その情報を交換するという作業は、まるで自分が店頭に並んでいる値札の付いた食材になったようで、あまり気分のいいものではなかった。  タバコを吸っている人間を配偶者に選びたくないという人は男女を問わず確実に一定数いて、婚活パーティに参加する際に書いたプロフィールにも、喫煙者か非喫煙者かを記入する欄があった。母の言っていることはそれほど的外れというわけではないだろう。パートナーを見つけるという目的を果たすためには、喫煙がマイナスになることはあってもプラスになることはない。  美咲は三十三歳で、今年で三十四になる。東京で借りているワンルームと職場を往復していると、いつの間にか二十代が終わっていた。  九月二十二日、第四水曜日の午後四時。  美咲はノートパソコンの入ったバッグを手に持って、敏子と一緒に第二新光集落の集会所に入った。  横開きのドアを開けて、靴を脱いで靴箱に入れる。そして木製枠のガラス戸を開けると、二十畳ほどの広い空間のなかに一人の男が足の低い長机の向こう側に、床にじかに座っていた。 「会長さん、こんにちは。もう来とったんじゃね」と敏子が言った。 「古瀬さん、こんにちは。さっき冷房のスイッチ入れたばっかりじゃけん、まだ涼しくなってないんじゃけど」  西日の差し込む集会所の大部屋は、九月半ばを過ぎてもまだ暑い。冷房が効き始めたときの独特の粘り気のある空気に満ちていた。  自治会長を務める五島岳(ごとうやまと)は、六十八歳の男。すっかり頭は禿げ上がっており、耳の横から後頭部にうっすらと馬の蹄鉄の形で髪の毛が残っているばかりだった。垂れ目で柔和な雰囲気をしており、実際喋り方もおだやかだ。その押しの弱い人に自治会長というリーダー役が務めるのだろうかと不安になるほどだが、これまで何とかやってきたようだ。  五島は必ず、役員班長会議に一番にやってきている。そして、長机をセットして窓を開けて換気をしておく、あるいは空調を起動させるということをやっている。 「どうも、いつもお疲れ様です」と敏子が五島をねぎらった。 「いやいや、これも会長の仕事じゃけん」  美咲はバッグからノートパソコンと充電コードを取り出して、 「すみません、自治会長さん。パソコンの電源、使わせてもらっていいですか?」と言った。 「ああ、どうぞどうぞ。ご自由に」  自治会長はコンセントのある集会所の隅を指さした。  自治会役員であるのは敏子で、美咲には役員班長会議に出席する義務はないのだが、書記の仕事である回覧板の文書を実際に作成するのは美咲の役割になっている。  六月までの役員班長会議は敏子だけが出席して、文書にすべき内容と敏子が手書きのメモを作って持ち帰り、それを見ながら美咲が文書を作成するということをやっていたのだが、七月の会議では敏子がメモを取っていたものの具体的な数字を間違ってメモしており、あらためて文書を作成しなおさなければならなくなるということがあったため、以降は美咲も一緒に出席して、その場で文書を作成するようになった。  コンセントに電源を指してノートパソコンのスイッチを入れると、出入口の扉が横に開かれた。  広報担当役員の島本拓也、そして一班班長の佐伯美子。島本は六十二歳で、佐伯は五十八歳。 「こんにちは」と言いながら島本が頭を下げた。  三十五年前に第二新光集落の宅地が売り出された最初から引き続きここに家を建てて住んでいる人は必然的に家と共に歳を取っているので、すでに六十代になっている人が多く、それに伴って役員や班長もその年代が多い。  佐伯は手に持っていた回覧板を、自治会長が座っている長机の上に置いた。島本は回覧板から、役目を終えた文書を取り除いく。  その後も続々と人が集まってきて、回収された回覧板が机の上に積み上がっていく。  東陸男(あずまりくお)、六十五歳、会計担当。古瀬敏子、書記担当、六十八歳。佐藤留美子、六十一歳、防犯担当。玉木裕子、六十歳、衛生担当。鈴木玲子、七十二歳、副会長。三田浩二、七十二歳、副会長。  そして、一班班長、佐伯美子、五十七歳。二班班長、高崎達子、六十六歳。三班班長、金田一基、五十五歳。四班班長、金田恵子、六十歳。五班班長、水上孝二、四十二歳。六班班長、酒本サチ子、三十八歳。七班班長、芝山明美、五十九歳。八班班長、福井優里亜、二十二歳。  全ての役員と班長が集まった。  同じ集落に住んでいるので、顔を見たことある人ばかりなのだが、やはり何人かは顔と名前と集落の住んでいる場所とが一致しない人もいる。  六班班長の酒本サチ子は、実家を改装・増築して美容院を経営しており、美咲が実家に帰ってから二回、その美容院に髪の毛を切ってもらいに行った。酒本ももちろんこの集落で子供時代を過ごし、理容の専門学校に通ったのちにこちらに帰ってきたようだった。美咲より五歳も年上だったため、子供のころに交流を持ったことは一度もなかったが。  最初に髪を切ってもらいに行ったとき、椅子に座った美咲の背中を軽くマッサージしてもらった。 「ずいぶん凝ってますねえ」と酒本は言った。 「ずっと家でパソコン打ってますので」美咲が答えると、 「ああ、やっぱり。キーボード打つ人と打たない人とでは、明確に差が出るんですよ」  先月の月曜日の夕方、散歩に出てていると酒本と偶然ばったりと道端であって少し立ち話をしたのだが、いつの間にやら酒本は美咲のことを「みさきちゃん」と呼ぶようになった。もちろん悪い気はしない。  ほかの役員班長は、主婦か、会社勤めをしているあるいはしていた人ばかりなのだが、三班班長の金田一基は、二階が居宅になっている店舗で、小さな居酒屋を経営している。ちなみに四班班長の金田恵子は、一基の親戚に当たるらしく、班は違うもののすぐ近くに住んでいる。  自治会長の五島が立ち上がった。 「えー、お忙しい中お集まりいただき、まことに恐縮です。それでは、九月の役員班長会議を開始いたします。よろしくお願いします」そう言って頭を下げた。  続けて言う。 「まず、役員のほうからお知らせがございます。どうやら、市のゴミ処理場のほうから苦情が来ているようでございます。詳しくは衛生担当役員の玉木さんのほうからお伝えします」  五島は玉木のほうを向いて目で合図をした。玉木が立ち上がって、入れ替わるように五島が座った。 「えー、衛生担当の玉木です。よろしくお願いします。先日、市のゴミ処理場のクリーンセンターから連絡がありました。第一、第二新光集落のゴミを収集している収集車のなかから、きちんと分別されていないゴミがたくさん含まれていると……。それで自治会経由で分別の徹底を周知するようにと言われました。特に資源ゴミである空き缶やペットボトルが、燃やせるゴミや燃やせないゴミに混ざっていることが多いそうです」 「それ、本当にうちの地域から出されたゴミなんでしょうか?」四班班長の金田恵子が言った。 「私もそれを疑問に思ったんですが、『新光集落を含む収集車から』ということなんで、はっきりしたことではないようです。同じ収集車が回ってるほかの自治会にも、同じような注意が出てるみたなんで、うちも一応、注意喚起をしておく必要があると思うて」 「なるほどねえ」と誰かが言った。  美咲は聞きながら、起動させていたワープロソフトに「ゴミ、分別、注意喚起」と書いた。母の敏子も、いちおう手元の紙に何か記入している。 「何年か前に、そういやゴミの分別でけっこう大変なことになったことがありましたよね」防犯担当の佐藤留美子が言った。  それを聞いて、一同が肯いている。 「何があったんですか?」最年少の福井が言った。  二十二歳の福井はショートカットの髪型でまだ少女のあどけなさを残していて、六十代の人間が多い役員班長のなかにあって、鶏群の一鶴のように目立っている。  会計担当の東がそれに答える。 「もう六年くらい前になるんじゃろか。ゴミの分別の仕方がそれまでと変わって、まあより細かく分別せにゃあいかんようになったんじゃけど、やっぱり前と同じように分別してしまう人がようけおったんじゃ。きちんと分別されてないゴミ袋は、収集して行ってもらえんけん、その場におきっぱなしになってしまう。で、誰が出したのかはっきりせんゴミはその場で野ざらしになってしもうて、しまいにはそのゴミ袋を当時の班長と役員が開けて、犯人を特定するっちゅうことをしたんじゃ」  ずいぶんと嫌な役回りだな、美咲は聞きながら思った。 「ほいで、コイツが怪しいという人が何人か上がったんじゃが、ゴミのなかに個人情報が入っとるようなもんは入っとらんかったけん、もう本当に住人どうしが相互不信になってしまうようになってのう。結局は、自治会長と副会長が衛生担当役員が、毎朝ゴミ置き場に立って、きちんと分別されとるか監視するようになったんじゃが、もちろん誰も自分とこから出たゴミなんぞ人に見てもらいとうない。役員はまるで汚いものを見るような目で見られるようになって。最終的には、班ごとにこの集会所に集まってもろて、分別の講習会というのをやって、出したゴミ袋には油性マジックで名前を記入することを義務つけて、ようやっと収まったっちゅうことじゃ」 「そんなことがあったんですか」と福井が言った。 「あんころはねえちゃんはまだ学生じゃったろ。本当にもう、ゴミ出しをめぐって住人が相互に監視し合って牽制し合うみたいな状況じゃった」  それを聞いて、衛生担当玉木が挙手をして発言します、という合図を出した。 「あれ以来、六年も経つので、分別をきちんとしよういう意識も薄くなってきたんでしょう。誰だって好き好んでよそのお宅のゴミなんか触りとうないですよ。……まあ、実際分別されてないのはほかの集落のことなのかもしれませんけど、きちんと徹底しておくことに越したことはないので」 「そうですなあ」と自治会長が言った。 「ついでに、衛生担当としてもうひとつ付け加えておきたんですが、ゴミ出しは当日の朝に出すよう、報知してもらいたいんです。五つのゴミ置き場全部でカラスよけネコよけのネットは掛けとりますけど、やっぱり夜中のうちに出されるとどうしてもカラスやらが寄ってきますけん。それと、もう九月ですけどまだ暑いけん、夜中のうちに出されると生ゴミの臭いが出てきてしまうんで」  美咲は「ゴミ出し、朝に」とキーボードを叩いて書いた。  ゴミ置き場は、衛生担当と副会長ふたりが交代で清掃することになっている。美咲もバケツに汲んだ水で、デッキブラシでゴミ置き場をこすっている副会長の姿を見たことがあった。 「ゴミに関して、いろいろ徹底せにゃあいかんみたいですね。またあの、住人どうしで相互監視みたいな事態になることだけは、避けにゃあいかん」七班班長の芝山が言った。 「役員からは、以上です。ほかに、何か連絡事項がある方はいらっしゃいますか?」自治会長が言った。  美咲はキーボードを叩いて、さっそく回覧板の文書を作成していく。 「自治会長よりお知らせ ①市のクリーンセンターより、第二新光集落のゴミ収集車から分別がされていないゴミが多く見られるそうです。分別を徹底するようお願いします。分別方法は、市のホームページ等を確認するか、衛生担当役員までご確認をお願いします」 ≪衛生担当役員までご確認≫という部分は美咲が勝手に書いたもので、あとで玉木にそれでいいかどうかを聞いておかなければならない。  ほかに発言をする人はおらず、集会所内には美咲がキーボードを打つ音だけが響いている。 「それでは、ほかに発言する人がいないようであれば……」  自治会長がそう言って、本日の役員班長会議の閉会を宣言しようとしたとき、美咲の視界の端に挙手する手が見えた。  最年少の福井優里亜が、再び発言する機会を求めている。  自治会長が、どうぞ、と言って指名する。 「あの、八班の福井です。発言させていただきます」  美咲も手を止めて、福井のほうを見た。福井は黒のサマーニットにジーパンをはいている。 「あの、こういうことを言うのは問題あるとは思いますが……、この自治会って意味あるんですか?」  美咲を含む一同はそれを聞いて、最初は福井の意図を理解できずにぼけたような表情をしていたが、やがて誰もが困惑の色を浮かべた。 「えっと、それはどういうことですか?」自治会長が言う。 「うちが班長になったということで、私も四月から役員班長会議に出席してますけど……。みなさん本音では、役員も班長も厄介ごとだと捉えていて、誰もやりたがらないですよね。くじに当たったら、本当に残念そうにして」 「ええ、まあ。そうですが……」と誰かが言った。 「でも、会議で話し合われることは、さっきみたいに役所や公的機関の下請けみたいなことばかりで。ゴミ出しで問題ある人がいて、それを指摘するのは自治会の役目なんでしょうか。それは市役所なりクリーンセンターなりの仕事じゃないんでしょうか。行政の怠慢を、こっちに押し付けられていて、しかもそれによって住人どうしが対立するなんて、おかしいと私は思います」  美咲は役員や班長の顔を見回す。怒りを浮かべている人もいれば、苦笑するだけの人もいる。 「それに、自治会に入るメリットって、何なんでしょう。最近、新しく引っ越してきた人のなかには、たしか入ってない人もいますよね? 少額とはいえ自治会費を負担して、メリットはほとんどないのに、役員や班長をやらなければならない負担だけは回ってくる。本当に、自治会っていうのはこれ以上継続する必要があるんでしょうか?」  それは誰もが密かに思っていることだった。しかし、誰も言い出すことができない。住人の誰もが、年度末のくじ引きで役員や班長にならないことを祈りながらハラハラしている。自治会は住人の負担にしかなっていないのだ。  自治会を解散するにしても、誰が決めてどうやって解散を決議するか、そのやり方は誰も知らない。惰性で続けているだけだった。  役員班長会議の内容を報知するための回覧板もどれほどの意味があるのか、文書を作ってる美咲でさえ疑問に思うことがある。きっとほとんどの家庭で、回覧板の中身などろくに見ずに日付と署名だけして次に回しているに違いない。 「あの、すみません。発言してもよろしいでしょうか」水上が挙手をした。  水上はほとんど丸刈りに近いような短髪をしていて、肩幅がしっかりとした体形をしており、半袖のTシャツから出ている二の腕は、明らかに平均以上に太い。 「どうぞ」自治会長が水上のほうを向いて言った。  水上は座ったまま話をする。 「五班の水上です。私と妻は警察官をしておりまして、私は署の交通課、妻は警務課に所属しております」  美咲は五班班長の水上が警察官であることは、母から聞いて知っていた。勤務の都合があるのか、役員班長会議には、夫婦が交代で出てきているようだった。 「いちおう行政側に身を置くものとして、今のご意見に少し申したいことがございます。……おっしゃるように、本来行政が担うべき任務を、自治会にご負担いただいているのは、まさにその通りだと思います。自治会だけでなく、防犯協会や交通安全協会など、民間の活動があってこそ、我々も安心して任務に専念できておるのです。この自治会にも、防犯担当の役員様がいらっしゃいますが、自治会と地域の交番や駐在所と連絡を密にすることによって、犯罪防止が達成されておると確信しております」  それを聞いて、防犯担当役員の佐藤が軽く肯いた。そして、 「四月に駐在さんがやってきて、ここ一年間の住人の移転や、カーブミラーやガードレールの破損などを聞いて行かれました」と言った。  水上が話を続ける。 「自治会を解散するとなると、防犯の効果を維持するには、警察が直接住人の状況を把握しなければならなくなります。もちろんそれはプライバシーの懸念も出てくるでしょう。市役所やほかの役所のことは私はわかりませんが、自治会が存在するということは、全体としてみれば効率が良くなっていると、考えるべきだと私は思います。役員や班長の皆さんはご苦労の多いことだと思いますが、やはり維持するべきだと思います。そして、どこかよその国では、こういう諺もあるようです。『なぜ壁が築かれたかわかるまでは、壁を取り除いてはいけない』と。非合理に見えるシステムでも、撤廃しても問題ないと証明されるまでは、維持すべきなのです」  その演説を聞いて、部屋のなかは静かになった。それなりの説得力を誰もが感じたようだった。 「まあ、たいへん言うても一年の辛抱じゃけん。がんばりんさい」副会長の三田が言った。 「まあ、そうじゃね。今回やりゃあ、五年は楽できるんじゃけん。五年後は私は死んどるかもしれんけど」もう一人の副会長の鈴木が言った。  それを聞いて一同が笑った。 「えっと、福井さんのご指摘も一理あるでしょうけど、とりあえず今すぐに決めるべきことではないと思います。とにかく今年度の役員班長は我々が務め上げなければいけないでしょう。長期的な課題として承る、ということでいいんじゃないでしょうか」五島が言った。  その発言は、いわゆる「先送り」というやつなのだろうと美咲は思った。自治会長としてはそれがもっとも無難な選択なのだろう。 「わかりました。出しゃばったことを申し上げました。すみません」  福井は丁寧に頭を下げた。 「では、これで役員班長会議を終えますが、よろしいでしょうか」  異議なし、という複数の声が上がった。  会議は散会となったが、集会所から去る人は少なく、引き続き集会所内に留まってそれぞれ気が合う者どうしで会話をしている。  美咲は回覧板の文書の作成を続ける。  誰かわからないが、女の声が水上に、 「あなたお巡りさんじゃったん? 知らんかったがね」などと気安く声を掛けている。 「まあ、いちおう。白バイ乗りの交通違反取り締まりをしてるので、市民の皆さんの嫌われ役ですよ」と水上が自虐的に答えた。 「うちの息子もこの前、一時停止で捕まったばっかりじゃ。わっはっは」 「是非交通ルールとマナーを守った安全運転をお願いします」  自治会長の五島と副会長の鈴木が、給湯室から現れた。ふたりとも手にはお盆を持っていて、麦茶の入ったコップが乗っている。 「お疲れ様でした、どうぞ」と言ってそれを配る。  美咲の前にも五島がやってきて、 「いつもお疲れ様です。私らもう年寄りで、コンピューターはぜんぜん使えんけん、古瀬さんが頼みです。お世話になっております。どうぞ」とコップを置いた。  美咲は手を止めて、ありがとうございます、と言った。 「お菓子もありますので、欲しい方はぜひ召し上がってください」と鈴木が言った。  集会所に常備している菓子は住人から集められる自治会費で購入している。住人で集会所の利用者は誰でも食べてよいことになっている。昔は集会所で将棋や囲碁をする集まりがあったようだが、最近は集会所を利用する人はほとんどいなくなったため、菓子を食べることはは役員や班長の数少ない役得となっている。  美咲は立ち上がって、クッキーをかじっている自治会長の近くまで行った。 「次の回覧板、これでいいですか?」と言って、ノートパソコンのディスプレイを五島のほうに向けた。  本来の書記役の敏子もやってきてディスプレイを覗き込む。 ***  月 日 自治会長よりお知らせ。 ①市のクリーンセンターより、第二新光集落のゴミ収集車から分別がされていないゴミが多く見られるそうです。分別を徹底するようお願いします。分別方法は、市のホームページ等を確認するか、衛生担当役員までご確認をお願いします。 ②ゴミ出しは必ず当日の朝にお願いします。前日の夜に出すと、カラスや猫がきてゴミ置き場が散らかる原因となります。 ③感染症予防のため、手洗いやマスクの着用に引き続きご協力ください。 以上 *** 「①の『衛生担当役員までご確認』というのは、私が勝手に付け加えたんですけど、問題ないでしょうか」と美咲が言った。 「ああ、問題ないじゃろう。みんなとりあえず分別の仕方は知っとるわけじゃし」五島は衛生担当の玉木に確認せずにそう言った。 「日付のとこは今のところ空欄にしてますが、どうしましょう。たぶん実際に回覧板を回すのは、今月の末か来月の頭くらいになると思いますけど」 「うーん、九月の末日でええんじゃないじゃろうか」 「それで問題ないじゃろう」敏子が言った。 「じゃあ、九月三十日にしときますね。いつものように、各班分八枚でいいんですよね?」 「はい、お願いします」五島は小さく頭を下げた。 「じゃあ、明日か明後日くらいに印刷して、広報担当さんまで届けますので」 「ありがとうございます」 「私も一枚いただきます」美咲はそう言って、机の上のザルに置いてあったクッキーを手に取った。  翌日の朝五時過ぎたころに、美咲は自室で目が醒めた。  実家に帰ってきてもう五か月になり、リモートワークにも慣れたせいか、ずいぶんと生活リズムにムラがある。翌日朝までに仕上げればよい仕事などの場合、夜中まで先延ばしにしたり、または翌朝はやくに目覚まし時計をセットしておいて、起床してから作業を再開し、ファイルを送信するのは締め切り時間ギリギリになったりもする。  今日は別に仕事を残しているというわけではないのだが、昨晩早くに眠たくなってしまい、そのまま寝たので結果的に早起きになってしまったらしい。  美咲はタバコに火を付けて灰皿を手に持ち、ベッドの上で胡坐をかいた。  カーテンの隙間からは、すでにじゅうぶん明るくなった朝の太陽光が漏れている。もちろん母はまだ起きていないだろう。  朝食の時間まで、動画サイトを見て時間を潰そうかとスマホを取り出したが、そういえば回覧板の文書をまだ印刷していないことを思い出した。  ノートパソコンの電源を入れ、キヤノン製のプリンタをUSBに接続する。  そして、集会所で作成した文書を表示させた。 「印刷」ボタンを押し枚数設定をすると、紙がプリンタに吸い込まれ、そして印字されたものが出てくる。  回覧板も、やっかいなものだな、と思いながら、美咲は今年四月上旬に、実家に帰ってきたばかりのことを思い出した。 「美咲ちゃん、パソコンでやってほしいことがあるんじゃけど」  実家に帰ってすぐのころ、敏子が唐突にそう言って小型の八ギガバイトのUSBメモリを手渡してきた。USBメモリの裏型には、「第二新光集落 自治会」と細い油性マジックで書いてあった。 「なに、これ?」 「お母さんもよくわからん。先週の自治会のくじ引きで、書記ということになったんじゃけど……。要するにパソコンで書類を作らにゃいかん仕事なんやけど。USBって何かわかる?」 「そりゃUSBはわかるけど、なかに何が入ってるの?」 「わからん。USBっていうのが何なんかも、私にはわからん」  ずっと生保レディをやって対人スキルだけを頼りに生きてきた母は、昔から機械に弱かった。電子レンジの温め時間指定さえまともにできず、レンジのふたの向こうで回転する皿を眺めて温まるのを待っているようなありさまだった。  USBメモリがウイルスに感染している可能性はゼロではないが、見てみないことにはわからない。  パソコンに接続して中を見ると、いくつかのフォルダに分けられていて、フォルダには「平成○○年自治会連絡網」や「平成○○年お知らせ文書」という名前が付いている。フォルダを開くと、なかはたくさんのワープロソフトの拡張子が付いたファイルがあった。  いくつか開いてみると、「自治会長よりお知らせ」みたいなものばかりだった。  敏子に書記担当役員の仕事内容を聞いてみて、ようやくこのファイルは前年までの書記担当が作成した文書を保存したものであることがわかった。誰が作業したのかはわからないが、データ化される以前の文書も、PDF化されて大量に保存されている。  規約により、自治会で作成した文書は保存しておく義務があるらしく、十年近く前からは紙の文書ではなくデータとして保存することになったらしい。  書記担当は必然的に簡単なパソコンスキルを要することになる。  もちろん年輩の住人にはパソコンを一切使えない人もいる。敏子もその一人だった。なので、そういう人間のあいだでは、役員に当たるにしても書記だけは絶対に当たりたくないと、敬遠されているようだ。  敏子は、今年度の役員名簿と班長の連絡網だけは、今週中に作成しなければならない、と美咲に言った。 「お願い、お小遣いあげるけん」  敏子は我が子に懇願するように手を合わせ、財布のなかから一万円札を出して手渡してきた。 「別にいいよ。簡単な作業だし。去年の役員名簿のデータがあるみたいだから、それを今年の役員に書き換えればいいだけでしょ?」  美咲はそう言ったが、敏子は一万円札を美咲に押し付けてきた。 「で、今年の役員の名前と連絡先は? それがわからないと、名簿の書き換えもできないけど」  敏子は手のひらくらいの大きさのノートを出して、今年度の役員を手書きで書いてあるページを開いた。 「じゃあ、これ借りていくね。ちょっと時間かかると思うけど」  約三十分後に、リビングにいる敏子に印刷した役員名簿を示すと、 「もうできたん?」と敏子は驚愕の表情を見せた。  簡単な作業なのに、母にとっては三十分で文書を作ることはとんでもない難業と感じたらしい。母にやたら賞賛され、美咲は自分が魔法使いにでもなったような気分になった。  八枚の紙の印刷を終えた。それを揃えてプリンタの上に置く。  どうしよう、もうひと眠りしようか。  そう思いタバコの火が消えてることを確認してもう一度布団に入って目を閉じ、うつらうつらしていると、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきて、だんだん近づいてきた。続いて、救急車の音の聞こえてくる。  パトカーも救急車も、美咲の家の前を通り過ぎて行き、そしてその後停止した。  どうやらすぐ近くで何かあったらしい。  九月二十三日、秋分の日。間もなく美咲は、第二新光中央公園で、男の死体が発見されたと知ることになる。
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