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 パジャマを脱いで、Tシャツとひざ丈のハーフパンツに着替えた美咲は、サンダルを履いて表に出た。昨日の夜のうちに雨が降っていたらしく、アスファルトがシミのように黒くなっている。  サイレンの音が消えたあたりに小走りで向かうと、中央公園の入り口にはすでに黄色いテープに「KEEP OUT」と黒字で書かれた規制線が張ってあった。  美咲と同じく野次馬として表に出てきた住人が、すでにその規制線の前に数人いた。  パトカーは二台停まっており、分厚い防弾チョッキを来た制服警官が四人いた。  救急車の救命士もいて、制服警官と何やら小声で話をしている。  ざわついてる人の声にパトカーの無線の音が混ざって、「検視官」や「搬送」などという単語が部分的に聞こえた。  美咲は野次馬のなかの一人に、美容院経営の酒本サチ子の姿を見つけた。公園の向こう側に酒本の美容院はあるので、すぐに出てくることができたのだろう。酒本は美咲と同じく全く化粧をしておらず、明らかにパジャマという服に薄手のカーディガンを羽織っていた。  美咲は恐怖と好奇心の混ざった顔をしている酒本に近づいて、 「すみません、何があったんですか?」と尋ねた。 「あ、美咲ちゃん。どうやら、死体が見つかったみたい」酒本が答える。  公園の真ん中を見ると、四メートル四方はありそうな大きな青いビニルシートが地面にかかっていて、その中央が盛り上がっている。そこに、死体があるようだ。 「酒本さんは、見たんですか?」 「いやあ……、来たらすでにこの状況だったから。たぶん、(あずま)さんが第一発見者じゃないかな」  昨日、集会所で顔を見た会計担当役員の東陸男が、警官ふたりに挟まれるのような格好で、聴取を受けている。  東の口から、「犬の散歩をしとったら」とか「携帯電話を持って出んかったけん」や、「ぜんぜん心当たりがない」みたいな言葉が発せられている。  また遠くからサイレンが聞こえてきたと思うと、ものすごいスピードで覆面パトカーが二台やってきて、タイヤをきしませながら集会所の前に停車した。  そして一台からそれぞれ二人ずつ、私服のスーツ姿の警察官が飛び出してきた。  そのうちの一人が、美咲と酒本の前にやってきて、 「この近くの方ですか?」と興奮しながら尋ねてきた。 「はい、そうですけど……」と酒本が答える。  美咲も、 「この向こうの角から二番目に住んでるんですが……」遠慮がちに答えた。 「私は県警の者です。昨日の晩から明け方まで、変わった出来事はありませんでしたか?」 「いえ、ぜんぜん。さっきサイレンが聞こえてきたから、出て来ただけですので」  私服の警官は美咲のほうを向いた。 「私も同じです」 「そうですか。またあらためて話を伺うことになると思います。お名前を聞いてよろしいですか?」 「酒本サチ子と言います。向こうの看板が見えるあの美容院がうちです」 「古瀬美咲と言います。家はさっき言ったとおり、あそこですけど」 「古瀬さん。失礼ですが、ご職業は?」 「普通の会社員です。東京の会社に勤務してるんですけど……、今はリモートワークになったから、こっちに帰ってきたんです」 「ああ、なるほど。ご協力ありがとうございました」 「あの、すみません」酒本が言った。 「なんですか?」 「えっと……、殺人事件なんですか? 事故とか病死とかじゃないんですか?」 「それを今調べているところなんです」 「亡くなった方は、どんな方ですか?」 「あまり具体的なことはお答えできないんですが、男性のようですね。若い、たぶん二十代か三十代前半くらいのようです。と言っても、私もまだホトケさんのお姿は拝見してないんですが」  いつの間にか、野次馬が倍以上に増えていた。  私服警察は、野次馬のひとりひとりに声を掛け、さっきと同じような質問をしていた。  さらに警察の車らしいワンボックスカーが到着した。そして中から青いユニフォームを来た一団が下りてきた。手には四角の金属製ケースを持っている。  そのうちの一人が、雨上がりのぬかるんだ公園の土を見るなり、 「これじゃ、ゲソコン出ねえなあ。人、入れるんじゃねえぞ」と言った。  二十分ほどだろうか、美咲は警察が捜査をしている様子を眺めていた。救急車のストレッチャーが規制線を超えて、公園のなかに運ばれていった。そしてブルーシートが掛かったままの遺体を乗せ、救急車に収容した。  救急車は発車したが、サイレンは鳴らしていなかった。 「とりあえず、帰ろうか。ここにいても、もう何か知ることはできそうにないから」酒本が言った。  美咲も自宅に帰ることにした。  目玉焼きの乗ったトーストをかじりながら、美咲は敏子に朝の出来事を話していた。  敏子はおどろいたことに、朝方のサイレンにはまったく気づかずねむり続けていたという。目を覚ましたのはいつもと同じように七時ちょうどだったらしい。 「で、あんた朝からそれ見にいったん?」 「だって、気になるじゃない。死体が見つかったなんて。美容院の酒本さんも来てたよ」 「へえ、さっちゃんまで。……で、どうなん、事件なん? 死んどった人は、男なん? 何歳くらいなん?」  敏子は少し興奮気味に、矢継ぎ早に疑問をぶつけてくる。 「わかんない。亡くなってたのは若い男の人なんだって」 「若い男……、て何歳くらい?」 「さあ。二十代か三十代前半みたいなことを、言ってたけど」  コーヒーを一口飲むと、唇に移っていたマーガリンがコーヒーに溶け出して、小さく丸く浮いている。 「そう。あんま、うろうろして警察の邪魔したらいかんよ」 「わかってるよ。もう行かないから」 「まあ、殺人事件だったら、ずいぶん珍しいことじゃろね。田舎じゃけん、市内でも凶悪事件は年に一回あるかないか」 「もちろん、この第二新光でこれまでに殺人事件なんて起こったことないよね?」 「あるかいな。絶対にない。こんな家ばっかりのところで。空き巣騒動は何年か前にあったような気がするけど、人殺しは聞いたことない」  敏子はいつものように、七時四十五分ぴったりに家を出て、軽自動車を運転して職場に向かう。敏子は五十五歳で生保レディは引退して、今は和菓子を製造している地場の食品工場で、午前八時から午後四時までのパート勤務をしている。  朝早くに目が醒め、その後に眠れなかったせいか、神経はやたらと高ぶっているが、眠気がある。なにせ、近所で人が殺されたかもしれないのだ。犯人は、まだ近くに潜伏しているかもしれない。気温は窓を開ければ心地よいくらいで、昼を過ぎると暑くなって最近は開けっ放しにすることが多い。しかし美咲は、朝から家の窓がすべて閉まっていることを確認してから自室に入った。  パソコンを開いてメールチェックをすると、上司から今日美咲がすべき作業の指示が届いており、午後一時からはオンライン会議が開催されるということだった。  朝の二度寝を思わぬ形で中断されたため、まぶたが少し重い。少しだけ寝ようか、作業は晩御飯を食べた後にゆっくりやったので間に合いそうだ、と怠惰が首をもたげようとしたとき、 「いちおう、確認しとこうかな」と美咲は独り言を言った。  家の固定電話の棚に置いてある、手書きの電話番号帳をめくる。そして、窪園雄太郎の項目を見つけて、その番号に電話を掛けた。  三回コールしたところで、相手は電話に出た。 「もしもし、窪園ですけど」 「あ、朝早くにすみません。古瀬と申します」 「あ、みっちゃんか。どうしたん? 何か用?」雄一郎が言った。 「あ、昨日はありがとう。いきなり、ごめんね。ちょっと気になることがあって電話したんだけど。ゆうちゃん今朝のこと知ってる?」 「もしかして、公園の殺人事件のこと?」少し興奮気味に言う。  やはりすでに第二新光集落のなかで話は広まっているらしい。 「そう。っていうか、殺人事件なの? 朝、私が見に行ったときは、事件か事故かわからない、みたいなこと言ってたんだけど」 「さあ。俺もさっき、朝飯食う前にちょっと見に行ってみたんじゃけど、パトカーのほかにも鑑識っていうんかな、青い服着た人がたくさんおって、何やら調べよったけん、殺人かなって思て」 「そう。まあ……」 「で、何か用があって掛けてきたんじゃろ。なに?」 「あ、いや……、亡くなってた人って、二十代か三十代くらいの男の人なんだって。だから、もしかしたらその死体がゆうちゃんだったんじゃないかと、ちょっとだけ思って、一応念のため」  それを聞くと、雄一郎は電話の向こうで大きな声を上げて笑った。 「なんじゃ、心配してくれとったんかい。俺なら元気じゃ。死んどりゃあせんわい」 「警察の人が、ぜんぜん詳しく教えてくれなかったから。朝に行ったときは、『またお話をお伺いします』みたいなことを言ってたから、たぶんそのうちゆうちゃんの家にも聞き込みに来ると思うよ」 「しかし殺人にしても事故だとしても、物騒なことには変わりないのう。うちのオカンも興奮しっぱなしで、すっかり探偵気分で、朝からあちこちにメール打っとるみたい」  美咲は子供のとき以来、何度も会ったことのある雄一郎の母親の姿を頭に思い浮かべた。なぜか美咲は、彼女に対してあまりいい印象を持っていない。小学校低学年のころ、雄一郎の家で遊んでいると、「もう五時になるよ」とか「雨が降りそうよ」と言ってきて、やたら帰宅を促してきていた。直接何か嫌なことをされたということはないのだが、好かれていないことは子供心にも理解できた。 「昨日、職安どうだった?」美咲は雄一郎に尋ねた。 「うーん……、先週に比べて、求人は増えるどころか減っとった。飲食とかホテルとか旅館だけじゃなくて、ほかの業種にも悪影響が出てきよるみたい。ハローワークの窓口も失業者で溢れとって、いま日本で繁盛しとるんは、病院と職安だけじゃろね」  それを聞いて美咲は少し笑いそうになったが、まんざら冗談ではないかもしれないと思う。日本中が、かつて経験したことのない大不況に陥り、回復の見通しは全く立っていない。他人事ではない。遠からず、巡り巡って美咲の会社にも影響が及ぶだろう。 「まあ、もし何かええ仕事がありそうやったら、教えてえな。できれば和食の飲食店で働きたいけど、贅沢言うてられんかもしれん」 「うん、わかった。……あ、ゆうちゃう。もし良かったら、携帯の番号教えてくれない?」 「ああ、うん」  雄一は番号を言ってから、大手のSNSの名前を挙げて、 「IDも番号で登録しとるから」と言った。 「わかった。あとで申請しとくね」  電話は切れた。  早速SNSの友だち申請すると、しばらく経って承認されたという通知が来た。  時刻はまだ午前八時過ぎ。美咲はスマホのタイマーを二時間にセットして、Tシャツ姿のまま布団の上に寝転がった。  美咲は実家に帰ってきてから、昼食をあまり摂らなくなっている。  朝と晩は母が用意してくれるが、平日の昼間は食べないことが多い。そもそも家で座ってパソコンをいじってるだけなのだから、それほどエネルギー消費はなく、あまり腹も減らない。夕方くらいに甘いコーヒーを飲みながらパンやスナック菓子などをつまんで、夕食までのつなぎとしている。  その日も何も食べないまま、昼の十二時五十分にパソコンのオンライン会議のソフトを起ち上げた。  十分後に会議が始まるのに、ログインしているのは二年先輩の三宅優子だけだった。オンライン会議が時間通りには開始されることは、ほとんどない。画面を通してだと人を待たせているという感覚が薄れるのか、直前になって「すみません、少し遅れます」などというSNSのメッセージが飛んできたりするのが常だった。  画面に現れた三宅の顔が動いて、 「どうも、おはようございます」と言った。  三宅の自宅からの会議参加のようで、画面の背景は住宅用の白い壁紙が写っている。 「おはようございます」と美咲は返事をした。 「古瀬ちゃん、今実家よね?」 「ええ、そうですけど」 「実家って、H市って言ってなかったっけ?」 「はい、そうです」  三宅は身を乗り出してきて、画面に顔が大きく映る。 「今朝、H市で、殺人事件があったんじゃない? 知ってる?」 「あ……」  三宅は地獄耳の能力でも持っているのだろうかと、少し唖然としてしまった。もう、そんなに話が広まっているのだろうか。 「なんで知ってるんですか?」 「なんでって、お昼のニュースでやってたよ。たぶん検索したらネットニュースにもなってるんじゃないかな」  朝に現場に行ったときには、近隣住民の野次馬と警察と救命士しかいなかった。あの後にマスコミがやってきたのだろうか。  画面の向こうの三宅は、殺人事件を怖れたり美咲の身を心配したりというふうではなく、興奮して好奇心むき出しの表情になっている。美咲は、三宅がミステリ小説の愛好家だということを思い出した。リモートワークになる前は、昼休みに昼食を終えた三宅がいつも電子書籍や投稿サイトで、最新作のミステリ小説を難しそうな顔をして読んでいた。  何冊か、美咲も勧められるままに読んだことはあるのだが、いわゆる本格ミステリというのはトリックに少し無理があるような気がして、結末に納得できないことが多かった。 「今日、朝の五時すぎくらいですけど、現場に行ってみたんですよ」と美咲は言った。 「うそ、本当? 古瀬ちゃん、わざわざ現場に行ったの?」 「行ったというか、すぐ近所なので……。実家から百メートル以上は離れたところですけど、二百メートルよりは近いかな」 「すごい、すごいじゃない」三宅はなぜか拍手をし始めた。  人が死んでいるのに「すごい」という反応はいかがなものかと思ったが、ミステリ愛好家にとっては現実の犯罪というものはリハーサルで鍛えた思考力を役に立てる絶好の機会と感じるのかもしれない。 「で、どう? 機捜は来てた?」 「キソウってなんですか?」 「あ、ごめんなさい。機動捜査隊のこと。事件があったら刑事部のなかで真っ先に現場に駆けつけて、初動捜査を担当する部隊のこと」 「あれが機捜かどうかはわからないですけど、制服のおまわりさんのほかに、私服の警察官も何人かやって来てましたよ。現場近くに集まってる人に、変な音は聞かなかったか、とか一通り聞いてました。私も聞かれましたけど」 「拳銃持ってたら、機捜で間違いないんだけどね」  美咲は朝の警察官の姿を思い出した。薄手のスーツを着ていたが、あの下に拳銃のホルダーを閉めていたのだろうか。 「じゃあ、もしかしたら古瀬ちゃんの家にも、近いうちに聞き込みに来るんじゃない?」 「まあ、たぶん来ると思いますけど」 「それじゃ、『警察手帳見せてください』って言ってみて。警察手帳規則第五条で、警察官は呈示を求められたら基本的に拒めないってことになってるから」  その三宅の知識と好奇心に、圧倒されてしまう。 「はあ……」 「で、どうなの? 犯人の目星ついてるの?」 「いえ、ぜんぜん。ていうか、そもそも本当に殺人なんですか?」 「ニュースではたしか、事件・事故両方で捜査を開始、みたいな言い方だったと思うけど、現場に刃物が落ちてたから、ほぼ確定でしょう」 「そうなんですか?」  すぐ近くに住んでいて、実際に現場まで足を運んだ自分より、東京にいる三宅のほうが事件についてなぜか詳しく知っている。もちろんメディアで報道された情報なのだろうが、少し不思議な感じがした。  二人の同僚が続けてオンライン会議のソフトにログインした。 「おはようございます」  三宅はそう言って、以降は事件については語らなかった。  オンライン会議は途中休憩を挟んで二時間を要した。  自分の業務に関係しないことが大半を占めていたが、途中で抜けるのは不可能ではないにしても心理的に難しい。美咲は結局会議の最後まで付き合うことになった。  営業担当者はみんな今でも東京にいて、業務の一部しかオンライン化できないため、直接クライアント回りを続けているらしい。  飲食店のクライアントからは、求人の停止のほかには、テイクアウトを導入したのでそのようにウェブサイトを改変してほしい、という依頼が山のように来ていると営業担当者の一人が言った。  新たにページを増設しなければならなくなる。それに伴ってトップページも書き換えなければならなくなるだろう。その手間を思い、美咲はバレないようにため息を吐いた。  また店舗の営業時間を変更したり、テイクアウトオンリーにしてしまう店も多くあるようだ。 「リモートワークを恒久化するか、それともどこかのタイミングでオフィスワークに戻すかはまだ未定です。リモートワークは利点が多いものの、コミュニケーションが一部困難になっているのは事実ですので」美咲の上司にあたる部署の長がそんなことを言った。  そして付け加えるように、 「完全リモートの勤務になっている人は、来月から交通費の支給が停止されます」と言った。  ということは、美咲のお給料からも、月六千円あまりの交通費は無くなってしまう。  多少不満に思ったが、やむを得ない。実家に帰ってきて、交通費は要していないし、水道光熱費も要らず、食費として月に二万円を母に渡しているが、外食とコンビニ弁当ばかり食べていたころより、だいぶ安く済んでいる。  東京に借りている部屋はそのままにしているので、その家賃はもちろん払い続けている。リモートワークが恒久化されるか否か、早く決めてほしいと美咲は上司に要望した。  オンライン会議が終り、台所に降りてコーヒーを入れ、自室までカップを持って上がった。  ブラウザを起ち上げて、「H市 事件」で検索すると、三宅が言っていたとおり、ニュース記事がいくつも出てきた。  美咲はそのうちの、テレビの地方局の記事を開いた。自動で動画が再生される。 ”今朝、午前五時ころ、H市で男性が死体が発見されました。  発見現場は、H市北部の閑静な住宅街です。  犬の散歩に出かけていた近所の住人が、公園で男が倒れている姿を発見し、警察に通報しました。  男性は二十代から三十代と見られ、詳しい身元はわかっていません。“  アナウンサーが写っていた画面が切り替わって、昨日役員班長会議が開催された集会所を映した映像になった。それから画面は動いて、現場である隣の公園の入り口を映し出した。  続いて、「近くに住む人は――」というテロップが画面右端に表示されて、首から下だけが映されている男が、インタビューに答えている。 「長いことここに住んどるけど、こんなん初めてじゃ。おう、普段は平和、平和。住人どうしも仲良しじゃし、おかしなことなんか起こったことないよ。ええ、もちろん心配ですよ。早いこと解決してほしいね」  テレビを通して聞くと、不思議と方言がキツく聞こえる。 「現場には凶器と見られる刃物も見つかっており、警察では事件事故の両方から慎重に捜査を進めています」というアナウンサーの声を最後にして動画は終わった。  動画の再生が終わるとほぼ同時に、美咲の家のインターホンが鳴った。  一階に下りて、玄関の鍵を開けて出てみると、身長一八〇センチ以上ありそうな四十代の男が立っていた。短髪で、白のカッターシャツに、グレーのパンツ。古びた革靴を履いている。  身長と比例するかのように顔というか頭全体が大きく、日焼けした皮膚はかなり荒れていて、一目見ただけで威圧感を強く感じる。 「すみません、警察の者です」男は言った。  やはり来たか、と美咲は思った。捜査をするときは二人一組で、ということを聞いたことがあったのだが、一人しかいない。朝に現場にいた警察官とは別人だった。 「ご存知かと思いますが、この向こうにある公園で、男性が死亡しているということがあったんですが、ちょっとお伺いしたいことがありまして。こちら、古瀬敏子さんのお宅で間違いないですか?」 「ええ、そうですけど……」 「敏子さんは、今はお留守ですかね?」 「あの、すみません。失礼ですが、警察手帳を拝見させていただいてもよろしいですか?」  先ほどの三宅の言うことを実践したわけではないが、念のため本物かどうか確認したいという気持ちがあった。 「あ、はい」  男はそう言って、手に持っていた黒のバインダーを脇に挟んで、パンツのポケットからストラップが付いた手帳を取り出して開いた。バインダーに挟まった紙には、地図らしきものが印刷してあり、赤のマジックで何か記入してあった。  呈示された手帳を見ると、真ん中には男のカラー写真が大きく載っていて、名前の下に「巡査部長」と書いてあった。 「ありがとうございます。失礼しました」美咲は言った。 「いえ……。で、古瀬敏子さんはご在宅ですかね?」 「あ、今はいません。仕事に行ってます。夕方には帰ってくると思いますけど」 「あなたは、敏子さんのお嬢さんですかね?」 「ええ、そうですけど……」 「こちらには、敏子さんが一人でお住まいになってるかと思ってましたが」 「私、今年の四月に帰ってきたんです」  美咲は昨日、防犯担当役員の佐藤が、住人の移転などを駐在所に報告うんぬんという話を思い出した。美咲が帰ってきたのは年度を超えてからだったので、連絡が行っていなかったのだろう。 「お名前をうかがってもよろしいですか?」 「古瀬美咲と言います。『みさき』はうつくしいに花が咲くです」 「失礼ですが、美咲さんはご職業は?」 「会社員です。IW情報サービスという東京の会社です。四月までは東京にいたんですけど、リモートワークになったから、こっちに帰ってきたんです」 「なるほど、リモートワーク。業種はIT系ですかね?」 「そうです」  警官は手元のバインダーに何やら記入をしている。 「昨日の夜から今朝にかけて、どちらにいらっしゃいましたか?」  それを聞いて美咲は少し嫌な気持ちになる。まさか、自分が犯人だと疑われているのだろうか。 「ずっと家に居ました。たぶん夜の十時くらいに寝て、朝からちょっとパソコンで作業してたら、サイレンが聞こえてきたんで、何かあったのかなって」 「敏子さんもずっと家にいらっしゃった?」 「はい。そうだと思います」 「最近、この近所で不審な人物や車を見たということはありませんか?」 「まったくないです」 「では……」  警官はバインダーの紙を一枚めくって、美咲のほうへ向けた。  白黒の線で男の顔が描いている紙だった。肖像画のように精緻ではないが、かなりリアルな絵。長髪で、やや唇が分厚く、口の端が左右に少し下を向いている。 「この男性に見覚えはありますか?」 「あの、それが亡くなってた方の似顔絵なんですか?」美咲は問い返した。 「そうです。髪は薄い茶色に染めていたようです」  過去形で表現したことが少し引っかかるが、亡くなった人の状態を説明するには、そのほうが適切なのだろう。  美咲はあらためて似顔絵を見た。どこにでも居そうな、平均的な顔。それが美咲の率直な感想だった。見覚えがないか、と問われれば、誰もがどこかでこういう顔の男を見た、という印象を持つのではないだろうか。  似顔絵の男の目は開いており、死人の顔を書き写したようには見えない。死体の顔写真を直接見せられるよりはましなのだろうが、死んだ人の顔を書き写したものを見るのは、良い気分はしなかった。 「見たことないです。たぶん」  美咲がそう言って警官の顔を見ると、まるで睨むような視線でこちらを見ていた。 「ご協力ありがとうございます。また伺うことになると思います」そう言って警官は小さく頭を下げた。 「あの、やっぱり殺人事件なんですか?」帰ろうとする警官に美咲は問う。 「それを今調べてるところです」  ぶっきらぼうにそういうと、警官は去って行った。  感じ悪い。あの値踏みするような視線は、自分を犯人の可能性から排除していない。美咲はそう思った。  午後四時過ぎ。  自室に戻ってパソコンに向かい、午前中にサボった作業をしていると、家の固定電話が鳴り始めた。美咲は急ぎ気味に階段を下りて受話器を持ち上げた。 「もしもし、古瀬です」 「どうも、こんにちは。お世話になっております。自治会長の五島ですが、書記の古瀬敏子さんはおりますでしょうか?」  昨日の役員班長会議での五島の姿を思い出した。いかにも気の弱そうな男性だったが、電話の声だけだとさらに弱々しく聞こえる。 「まだ帰ってません。たぶん一時間以内には帰ってくると思いますけど」 「ああ、そうですか。あの、では敏子さんに伝言をお願いします。本日午後七時から、集会所で自治会の緊急で役員班長会議を開催することになりました……。是非参加いただきたいんですが、なにぶん急なことなんで、無理なようでしたら欠席していただいでもかまいません、と」 「はい、わかりました。……でも自治会長さん、会議なら昨日やったばかりじゃないですか。何か、不備でもあったんですか?」 「いえ、そうじゃなくて、今朝の殺人事件のことで、住人に知らせておくべきことがあるんじゃないかと、複数の役員から申し出があったもんで。でも、こんなことは初めてだから、まあとりあえず集まって現状わかってることだけでも役員の中で情報を共有しとこう、みたいなもんです」 「私も今朝、現場にちょっと行ってみたんですが、やっぱり第一発見者は会計の東さんなんですか?」 「えっと、それも含めて、会議で皆さんお知らせしようと思っとります。東さんも必ず出席されますけん」  きっと、緊急の役員班長会議を開くよう自治会長に申し出たのは東なのだろう。 「わかりました。今日の七時ですね。母に伝えておきます」  まもなく帰宅した敏子に、美咲が自治会長からの電話の内容を知らせると、 「いったい、何じゃろ。めんどくさい。自治会がなんぞややこしいことせんでも、あとは警察に任せときゃええじゃろ」と言った。 「まあ、わからないことばかりだし、何か新しい情報もあるかもしれないし、行ったほうがいいんじゃない? 私ひとりで行ってこようか?」 「正式な役員は私じゃけん、あんたひとり行かすわけにもいかんじゃろ。ご飯炊いて、とりあえず下ごしらえだけしとって、帰ってから焼いたらええわい。七時からじゃね?」  敏子はそう言って、エプロンを着けると台所に入った。  間もなく米を研ぐ音が聞こえてくる。 「そういや、三時すぎくらいだったかな。警察の人が聞き込みに来たよ」敏子の背中に向かって言う。 「そう。ほんで、なんて?」 「昨日の夜はどこにいたか、とか怪しい人物を見なかったとか。心当たりはないって答えると、また来ます、みたいなことを言ってた。お母さんからも何か聞きたそうにしてたから、明日にでも来るんじゃない?」 「私んとこ来たって、犯人逮捕につながるようなことにはならんじゃろ。警察もご苦労様やねえ」 「やっぱり殺人事件となったら、警察は真面目に動くんだね。お父さんが失踪したときは、ぜんぜん探してくれなかったんでしょ?」  米を研ぐ音でそれが聞こえなかったのか、敏子は何も答えなかった。  集会所の表に着いたときは、午後七時を十分ほど過ぎていた。九月の空は西側が夕焼けていて、日没してもしばらくはじゅうぶんに明るい。  死体発見現場である集会所のとなりの中央公園は、まだ黄色いテープが入口に張ったままで、制服の警察官が立っていた。朝に見た県警のワンボックスカーもまだ停まったままで、青い作業服のようなものを着た警察官が数名、公園のなかで何か作業を続けている。  そして、集会所のすぐ近くに、緑ナンバーの高級車が一台停まっている。タクシーではなくハイヤーのようだ。そのハイヤーのそばには、テレビ局の記者らしい女と、大きなカメラを肩に担いだ男がいた。  記者の女は、美咲と敏子の姿を見つけるとすぐに駆け寄ってきて、 「あの、すみません。近隣住民の方ですか?」と無遠慮に言った。 「ええ、そうですけど……」  敏子が美咲の手をつかんで、 「行くよ」と強引に引っ張った。  さすがに記者は集会所の中までは入ってこなかった。 「ああいうの相手にしとったら、キリがなくなるよ。テレビなんかに映されたら、恥ずかしい」靴を脱ぎながら敏子が言った。  集会所の大部屋に入ると、自治会長の五島と会計の東、一班班長の佐伯の三人しか居なかった。 「どうも、こんばんは」と美咲が言うと、 「こんばんは」と三人が返す。 「これだけしか来とらんのですか?」敏子が遠慮なしに言った。 「防犯の佐藤さんは、十五分ほど遅れる言うてさっき連絡があったんで、じきに来るでしょう。班長の方々は、まあ昨日の今日じゃけん、あまり来んかも」  集会所の玄関が開く音がした。そして佐藤と、続いて八班の福井が入ってきた。  こんばんは、と互いに軽く頭を下げる。  時刻はすにで午後七時十五分。これ以上待っても人が増えることはおそらくない。 「それでは、緊急の役員班長会議を開始したいと思います。皆さま急なことで大変申し訳ございません」五島が座ったままで言った。  普段は自治会長は起立して会議の開始を宣告するが、部屋のなかは五人しかいない。その必要はないと判断したのだろう。 「今日お集まりいただいたのは、ご存知のとおり、となりの公園で男性の遺体が発見されたことについてです。警察の捜査が進んでおるようなんですが……。第一発見者は、こちらの東さんです」  五島は東を手のひらで示した。 「いったい、どういう状況だったんですか?」佐藤が問う。 「えっと、朝の五時前くらいだったかな。夏のうちは、毎朝四時半くらいから犬の散歩に出ることにしとるんじゃが、うちは七班で、家があるんが一番端っこでしょう。だから、集落を一周するように回ってから、公園でちょっと犬と遊ぶことにしとるんです。で、公園に入ったら、真ん中に紺色の何が落ちとって。最初はどっかの洗濯物の飛んできよったんかなっと思ったんじゃけど、犬がやたら吠えよってのう。近寄ってみたら、人間じゃった。とりあえず呼び掛けてみても返事がなかって、ように見てみると、首のあたりに傷があって……。こりゃ死体じゃいうことで、急いで家に帰って一一〇番に通報したんじゃ」 「携帯はお持ちじゃなかったんですか?」佐藤が尋ねた。 「犬の散歩に行くだけじゃけん、毎日持って出とらん」 「血は出てなかったんですか?」美咲が言った。 「今から思うたら、なんかちょっと臭かったとは思うたんじゃけど、昨日の晩は大雨が降っとったんじゃろ? じゃけん、血は流れてしもうたんじゃないかな」  一同が話の続きを促すように東を見る。 「警察に電話をして、十五分くらいじゃろか。パトカーが二台やってきて、いろいろ聞かれて……。そしてその後、私も警察署について行かれて、ひょっとしたら私が疑われとるんか知らんけど、取調室みたいなとこで、何度も同じ質問されて、結局二時間くらいはいろいろ聞かれて、ちょっと疲れてしもうた」 「被害者の男は、どんな人でした?」五島が東に訊く。 「いやあ……、それがあんな人間の死体を見るんは初めてじゃけん、直視できんかったんですよ、情けない話。とりあえず若い男のようでしたけど」 「首に傷があったんですね?」 「ああ、それは間違いないです。傷口が紫色になってて……」 「いちおう確認ですが、きのうの夕方、ここで役員班長会議をやりましたけど、その時に公園に死体があった、なんてことはなかったですよね」佐藤が言った。  皆が肯く。 「じゃあ、被害者が殺されたのは、夕方から東さんが発見するまでのあいだ……。たぶん、夜から朝までの時刻ですか」  美咲はそこで初めて、自分以外の誰もが犯人の可能性があるのではないか、ということを考えた。夜中のうちにアリバイのある人など、ほとんどいないに違いない。被害者がいったい何者かはわかっていないが、犯人はこの集落の住人である可能性は排除されないし、今この集会所の中にいる誰かが犯人である可能性も、ゼロではない。 「で、今日は何のための集まりなんですか?」福井が高い声で言った。 「ああ、そうじゃった。えっと、とりあえず住人に戸締りをしっかりして、警察の捜査に協力するよう、呼びかけるために臨時の回覧板を作ってもらおうと思って。その内容を決めようと」五島が答える。 「え、そんな」美咲は言った。  両方の手のひらを五島のほうに向けた。 「今日、パソコン持ってきてないですよ」 「ああ、そうじゃった。言うの忘れとりました。すみません」五島は頭を下げる。 「いや、まあ内容だけ決めてくだされば、家に帰ってから作りますけど、……お母さん、メモ帳か何か持ってきてる?」敏子のほうを向いて言う。  敏子はポケットから小さなメモ帳を出した。美咲は小さくうなずいた。 「……でも捜査に協力するって、うちにも昼にカッターシャツ姿の警察官が来ましたけど、皆さんの家にもすでに来ましたか?」 「来ました」と佐藤が言った。 「うちも来ました。昼過ぎくらいだったかな」福井が言う。 「うちは来てないね、だって私、言うべきことは全部警察署で言うたはずじゃけん」東が言う。  美咲が佐藤と福井に、やってきた警察官の風体を聞くと、やはり身長の高いがっちり体型の男だったという。美咲の家に来た男と同じ人物のようだ。 「正直言うて、ちょっと感じ悪かったね。あのおまわりさん。威圧的というか、こっちを疑ってるというのがバレバレで。できればもう来てほしくないんじゃけど。最初見たときはヤクザが来たんかなと思った。駐在さんとはえらい違いじゃ」佐藤が言う。  不意に、集会所と玄関を隔てる扉が開いた。  そこに居たのは水上だった。 「どうも、遅れてすみません。自治会長さんが留守電入れてくれとったの聞いて、やってきたんですが、まだ会議は終わってませんよね?」  警察官である水上が入ってきて座るなり、東と佐藤が同時にいくつもの質問を水上に浴びせかけた。どうなってるんだ、とか今後の見通しは、という言葉が次々に発せられるが、水上は両手を振って困惑した様子を示した。 「皆さん、とりあえず落ち着いてください。私に答えられることはほとんどありません。だって私、白バイ乗りなんですよ。若いころに一時刑事課に配属されたことはありますが、すぐに移動願いを出して半年もいなかったんだから、何にもわかりませんよ。もちろん捜査にも参加できません。私みたいな素人が入ったら、刑事課も迷惑でしょう」 「じゃあ、署のほうはどうなんですか? ちゃんとやってる様子なんですか?」佐藤が問い詰めるように言った。 「上のほう……、えっと、刑事課は警察署(カイシャ)の四階で、交通課は一階のフロアにあるんですが、まあそんなことはどうでもいいや、とにかく四階ではずいぶん騒ぎにはなってるようです。テレビや新聞もやってきて、さんざん階段を上り下りしてたようですが」 「何か、新しい情報はないんですか?」 「ありません。もしあったとしても、私が勝手に申し上げることはできません」水上はきっぱりと言った。 「じゃあ、これからどうなるんですか?」福井が問う。 「知りませんて。刑事に聞いてくださいよ」 「奥様も警察官なんですよね? 奥様から何かうかがってませんか?」五島が言った。  水上は眉を顔の中央に寄せた。 「いえだから、言えないっていうのに……。何も聞いてません」 「言えない、言えないって、ちょっと無責任じゃないか。あんた公僕じゃろ」東がなぜか怒りを含んだ口調で言う。 「無責任って、私に何の責任があるんです。私は刑事でもないし、警察署長でも県警本部長でもありません。重箱の隅を突くような交通違反を挙げて、市民の皆様に蛇蝎のごとく嫌われるのが私の責任ですよ。いいかげんなことは言わんでいただきたい」半ばヤケ気味に水上が答えた。 「まあ、両者とも落ち着いてください。東さん少し言葉が過ぎます」五島が言う。  五島にたしなめられて、すみません、と東は頭を下げた。 「じゃあ、今回みたいことがあった場合、警察の捜査というのはどうやって進行していくんですか? 一般論でいいので、教えていただけませんか?」美咲が言った。  まあそういうことなら、と水上はひとつ咳払いをした。 「あくまでも私の知ってることですよ。今は違うかもしれません。それを前提に聞いてください。……まず事件があって一一〇番通報があると、署の通信指令センターというところに連絡が行きます。そして次には、最寄りの地域課つまり交番や駐在に連絡が行って、すぐに現場に駆け付けます。同時に、関連する課、要するに殺人事件や強盗ならば刑事課、少年事件なんかだと生活安全課、交通事故だったらもちろん交通課ですが、担当する課に連絡が行くんですね。……でもまあ、今回みたいなケースだと通報があったのは朝早くだったみたいなので、当直の人間が真っ先に現場に行ったと思います」  美咲は朝現場にいた警察官の姿を思い出した。あの人たちが、地域課または当直の人たちだったのだろう。 「そして、担当する課の人間と、必要があれば鑑識が行きますね。鑑識ってのはご存知でしょうけど、写真を撮ったり指紋やDNAを採取したり、証拠の確保をして、科学的に分析する部署です。現場に真っ先に入るのは、この鑑識ですね。刑事ドラマなんかでは、刑事がホトケさんの姿を確認したり鑑識に指示を出したりする場面がありますが、ああいうのは実際には有り得ません。鑑識が最優先です。そして、重要事件であるということが確定すると、所轄と県警本部が合同で捜査本部を組織することになります。捜査本部は、署の講堂や大会議室に設営されることが多いです。捜査本部の本部長は、刑事部長が就任することになってますが、刑事部長が実際に指揮を執ることはないですね。殺人などを捜査する捜査一課長か、その下の管理官が行います。そうして捜査本部に情報を集約して、所轄の署員と県警本部からやってきた一課の刑事がやってきて、犯人検挙に向けて動くということになります」  水上は言葉を途中で絶やすことなく一気に言った。 「これでよろしいでしょうか。何か、ご質問があれば答えられる範囲でお答えしますが」  五島が小さく挙手した。 「どうぞ」 「あの、で、その捜査本部というのは、今回はできそうなんですか?」 「たぶん、できるんじゃないでしょうかね。本部の一課の連中がすでに何人か来てたようですから」 「被害者について、何かわかってることはあるんですか? たとえば、死亡推定時刻とか」と佐藤が問う。 「さあ……そもそも、まだ遺体を解剖してないでしょうから、具体的なことは何にもわかってないんじゃないでしょうか」 「まだ解剖してないんですか?」 「解剖って医者なら誰でもできるわけではなくて、大学の法医学の先生に来てもらってやるんですけど、もちろんあちらさんのご都合もあるでしょうし、けっこう着手までに時間がかかるもんなんですよ。それに、高齢化のせいか、あちこちで孤独死や道端でぽっくり行ってしまう人が増えてて、解剖してくれる医者は慢性的に不足してるんです。下手したら、三日とか四日後になる場合もあるようですよ」 「そんなに……」 「具体的な死因や死亡推定時刻はそれまでははっきりしないと思います」 「あの、私もいいですか?」と福井が挙手をした。 「ええ、どうぞ」 「うちにも今日の昼過ぎに、おまわりさんが聞き込みに来たんですけど……、その、ちょっと態度が高圧的というか、怖いみたいに感じて。刑事さんというのは、ああいうものなんでしょうか」  合いの手を入れるように、佐藤が、 「うちもそうじゃった。何か、私らが悪いことしとるような感じで」と言う。  美咲も同感だった。  福井が話を続ける。 「あっちからはいろいろ聞いて来るくせに、こっちから何か質問したら、『答えられません』の一言ですまされたんです。具体的に言うと、『凶器は何だったんですか?』とか、『不審人物の目撃例はあるんですか?』とか聞いても、何も教えてくれませんでした。近所の住人としては、そういうことも知りたいじゃないですか。でも、『答えられません』とか『捜査上の秘密に当たるためお話できません』とか。捜査に協力するつもりで聞き込みに応じて正直に答えてるのに、こっちには何も教えてくれないのは、その、フェアじゃないと思います」  それを聞いて、水上はため息を吐いた。 「おっしゃる意味は良くわかります。刑事はどうしても人当りが強くなってしまうので、悪い印象を与えてしまう……。正直言って私も刑事課、特に組織犯罪対策の人間は、見てるだけで怖いくらいですから。捜査の情報に関しては、公式には広報を通して以外では発表できませんし、一刑事が自分の判断だけで情報を漏らすなんてことは、あってはならないことです。それに捜査の情報を公開しないのは、ちゃんと理由があるんです」 「どんな理由なんですか?」五島が問う。 「秘密の暴露、というんですが。例えば、犯人が使った凶器のナイフが、川底から見つかったとしましょうか。この情報はマスコミに発表せずにあえて伏せておくんです。そして、被疑者を逮捕して、『ナイフを使って殺し、あとで川に捨てた』という自供が取れたとしましょうか。すると、真犯人しか知り得ないことを自供したということで、裁判で犯人であることを立証する最有力の証拠となるわけです」 「なるほど、わかりました」 「ですので、皆さんが捜査本部からもたらされる情報が少ない、あるいはぜんぜんないと不満に思う気持ちは理解できますが、最優先はあくまでも被疑者の検挙です。捜査というのはそういうものだと諦めてもらうしかないと思います」  福井は眉間にしわを寄せながらうなずいた。 「あの、自治会長さん、ちょっとええですか」それまで一言も発していなかった佐伯が言った。 「なんでしょう?」 「あの、十年以上前になると思うんですけど、自治会で集落の交差点などの要所要所に防犯カメラを設置してはどうか、ということが提案されたことがあるんですよ。私はそんときに防犯担当役員じゃったけん覚えとるんですけど」 「そんなことがあったんですか?」 「ええ……。賛成する人が多かったんじゃけど、業者に見積もりを頼んだら、かなりの額になってしもて、しかも電力会社に電柱一本一本ごと借りる申請をせにゃいかんということで、立ち消えになってしまったんです。こんな物騒なことが起こるようなら、もう一回検討してもええ気がするんですけど、いかがじゃろか」  五島はしばらく考えていたが、 「難しい問題ですね。防犯カメラ設置するとなったら、自治会費も値上げせにゃいかんことになるじゃろうし……、役員と班長だけで決めてええことじゃないでしょう。たぶん住人総会特別決議が要るじゃろう。今ここでは、何とも言えんです」 「そうですか……」  発言する人がいなくなり、集会所は静まり返った。外から窓を隔ててカラスの鳴き声が聞こえてくる。 「それじゃ、臨時の回覧板を回すとして、文面はどうしましょうか」美咲が言う。 「えっと……、戸締りはきちんとすること、不要不急な外出はなるべく控えること、警察の聞き込みには協力すること、気が付いたことがあれば警察に連絡すること、くらいかね」と佐藤が言った。  敏子がメモ帳にボールペンを走らせる。 「えっと、たぶんこれだけ現場近くだと、聞き込みは複数回来ると思うので、そのことも書いておいていただけますか?」水上が言った。 「わかりました」と敏子が答える。 「それじゃ今から家に帰って、文書を作って、いつものように広報さんのお宅に届けたんでいいですか?」美咲が言った。 「いや、まあ今日はもう遅いし、明日でもいいじゃろう。あんまり出歩くと、物騒じゃから。明日のお昼くらいまでに、広報の島本さんのところに持って行ってもらえばええでしょう。島本さんには、私のほうから知らせておきます」 「あ、はい」 「では、ほかに何もなければ散会とさせていただきますが」  発言する者はいなかった。  集会所の下駄箱で靴を履きながら、美咲は、 「そういえば、うちにやってきた刑事さんは一人だけだったんですけど、刑事ドラマでは捜査は二人一組でやるみたいな描写が多いですけど、そんな決まりはないんですか?」と水上に訊いた。 「私が刑事だったころ、今から二十年前はそうだったんですけど、最近ではベテランだと一人で地取りに出されることが多いみたいですね。どこも人間が足りてないので。今回もたぶん捜査本部ができれば、本部だけじゃなくて隣の警察署の刑事も動員されるでしょうね。そのぶん、あっちが手薄になるんでしょうけど」 「どうして、刑事をやめて交通課に移ったん? 刑事は花形じゃろうに」と佐藤が尋ねた。 「いやあ……それが、向いてないというか、とにかく刑事はハードワークなんですよ。まあそれはいいんですが、刑事ってね、臭いんですよ」 「臭い?」 「ええ……。私が刑事になったばかりのころ、県南のほうで殺人事件があったんですが、捜査本部ができると、人が会議室に集まってぎゅうぎゅうになるでしょう。それに、本部から来てる連中や応援に駆け付けた人間は、武道場とかにせんべい布団並べて泊まり込みになるんです。人が多いから、風呂なんかまともに入ってる余裕はないんで、もうシャワーで水をかぶるだけ、みたいな」 「へえ。たいへんなんじゃね」 「最近はだいぶ女性警察官も増えてきたとはいえ、まだまだ男が仕切ってる世界です。泊まり込みだとコンビニ弁当や出前なんかの脂っこいものばかり食べることになるし、当時は署内は禁煙じゃなかったから、捜査本部はもう、タバコの煙と中年の汗と脂の臭いで満ちていて、吐きそうになってしまって。で、これじゃ俺には刑事は勤まらんということで、移動願いを出したんです」  それを聞いて、喫煙者である美咲は少し耳が痛かった。  集会所を出ると、水上は現場の見張り番をしてる制服警官に近寄って、「ご苦労様です」と言って敬礼をした。 「あの方、ひょっとして寝ずに番をするんですか?」美咲が尋ねる。 「もちろんどこかのタイミングで交代するでしょうが、まだ鑑識が必要みたいなんで、二十四時間体制で続けるでしょうね」  翌日の朝、「美咲ちゃん、早く起きなさい。ごはん食べるよ」と階下から叫ぶ敏子の声で美咲は目を覚ました。   朝食を終えて敏子が出勤すると、メールチェックを済ませた美咲は朝のワイドショーなどを見ながら怠惰な時間を過ごしていた。今日はオンライン会議の予定はないので、ついつい作業は後回しにしてしまう。ワイドショーはどの局もほとんど内容は同じで、新型感染症の感染者の推移をグラフにしたフリップを出して、無策の政府を批判している。  午前十時を過ぎてようやく、昨日の臨時の役員班長会議で決まった内容を文書にしなければいけないということを思い出し、自室に入る。 *** 九月二十三日 自治会長よりお知らせ 皆さまご存知のとおり、九月二十二日未明に、中央公園において男性の遺体が発見されました。 つきましては、次の事項を遵守していただきますようお願いします。 ①警察により捜査が進んでいますが、犯人はまだ見つかっておりません。外出時や夜間などは戸締りを徹底してください。 ②警察の聞き込みが来た場合、ご協力をお願いします。聞き込みは複数回来る場合があります。 ③不審な人物などを目撃した場合は、警察署へ連絡してください。 ④その他、お気づきのことがありましたら、防犯担当役員佐藤までご連絡ください。 ⑤感染症予防のため、手洗いやマスクの着用、三密の回避に引き続きご協力ください。 以上 ***  パソコンにプリンタを接続して、印刷を開始する。  紙が次々に吐き出されてくるが、四枚目あたりからインクがだんだん擦れたようになり、八枚目になるともはや何が書いてあるのかまったく読めない。 「うそ、まじで」美咲は独り言を言った。  少し前から、「黒インクの残量が残りわずかです」という警告が出てはいたのだが、まだいけるだろうと高をくくっていた。  黒インクを買いにいかなければならないが、インクを販売しているような大型の電器屋は、片道十キロ以上離れた場所にあるので、歩いて行ける距離ではない。敏子は車に乗って仕事に行ったので、連れて行ってもらうことはできない。  インクを買うためだけにタクシーを呼ぶのも憚られる。 「あ、そうだ」  美咲はスマホを取り出して、雄一郎にメッセージを送る。 ≪ゆうちゃん、ちょっといい? 暇なら連れてってもらいたいとこがあるんだけど≫  すぐに既読になって、返事が返ってくる。 ≪かまんけど、どこ?≫ ≪電器屋。プリンタのインク切れちゃって≫ ≪オーケー。山田電機でええかね?≫ ≪近いとこでいいよ≫ ≪今からそっち行ったんでいい?≫ ≪お願いします≫  美咲は髪の毛を後頭部でゴムで留めると、シャツを着替えてパンツを履き替えた。家のなかの全ての窓に鍵が掛かってることを確認すると、表でクラクションが鳴ったのが聞こえる。  美咲はあわてて、財布を持って表に出た。 「急にごめんね、ありがとう。助かった」そう言いながら雄一郎の軽自動車に乗った。 「じゃあ、行くよ」  車は道路をすいすいと進んでいく。  国道のバイパス道路まで出たところで、 「昨日から、例の事件ですっかり騒ぎになっとるみたいじゃのう」と雄一郎が言った。 「やっぱり?」 「めったにあることじゃないけん、みんな興奮しとるみたいじゃ。うちのオカンが言うには、犯人探しみたいなことを始めとる人もおるらしい。どこそこの誰が怪しい、みたいな」 「そんな、集落の人が犯人と決まったわけでもないのに」 「まあ、好奇心半分、怖さ半分で何やらせんと落ち着かんのじゃろ。近所で人が死んで、不安に思わん人はおらん」  車は赤信号で止まった。 「でも、リモートワークでも、プリンタのインクなんか使うん?」 「いや、仕事はほとんどデータで送ってるから、紙の書類が要るのはちょっとしかないんだけど、回覧板の文書を作るのに必要なのよ」 「回覧板? あの、回ってくるやつの?」 「そう」 「あれ作ってるの、みっちゃんやったん?」 「うん。だって今年はうちのお母さんが自治会の書記やってるんだから」 「そうじゃったんか。知らんかった。それじゃあ、もし来年、うちが書記に当たったら大変じゃ。うちはオカンもオトンもパソコンよう使わんし、俺も苦手じゃし」 「すぐできるよ、あんなの。わからなかったら、私が教えてあげるよ」 「でも、みっちゃんはリモートワークが明けたら、東京に帰るんじゃろ?」 「ああ、それが……。リモートを継続するかどうか、まだ会社のほうでも方針が決まってなくて。ずっとリモートで行けるなら、あっちの部屋片づけて、こっちに帰ってくるのもあるかもね。家賃も高いから」 「それじゃ、ペーパードライバー卒業せにゃいかんの。こっちじゃ、車なしじゃと不便じゃ。毎回俺が運転手できるわけじゃないし」  軽自動車は郊外にある大型電気店の駐車場に入った。 
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