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 十月に入って二回目の日曜日の昼、美咲は徒歩で雄一郎宅に向かった。外は少し涼しくなり、どこの家の庭木も徐々に秋っぽく色付きつつある。  雄一郎の住む家は、瓦葺の和風な一戸建てで、築年数は美咲の家とほぼ同じだろう。車庫は縦に二台停められるようになっているが、雄一郎の軽自動車しかない。  インターホンを鳴らすと、「はい」という声がスピーカーから聞こえてきた。 「美咲です」と言うと、 「おう、開いてるから入ってきてえ」と雄一郎が言った。  二足分のゴム製サンダルが無造作に転がっている三和土(たたき)でスニーカーを脱ぎ、お邪魔します、と言って上がった。  この家に来るのは、もう二十年ぶりくらいになるのだろうか。子供のころに何度も来たことはあるのだが、中学生になったころからはすっかり絶えた。高校生になり付き合うようになっても、ふたりで会うのは母子家庭で母が仕事でいない美咲の家ばかりで、ここに来ることは全くなかった。 「いらっしゃい。こっち」雄一郎が言った。  リビングに入ると、向こう側の台所でエプロン姿の雄一郎が柳葉包丁を持って料理をしている。 「そこ、座って。今日はオトンもオカンも出掛けて夕方まで帰って来んけん」振り向いて雄一郎は木製のダイニングテーブルを指さした。  美咲は言われたとおりに、椅子を引いて座る。 「うん、ごちそうになります」 「もうすぐできる。あと十分くらい」  ガスコンロの火に掛けられた鍋の蓋が、水蒸気を吐き出しながらカタカタと音を立てている。  SNSのメッセージで、一回うちに料理食べに来んか、と雄一郎に誘われたのは三日前のことだった。料理人としての腕が鈍らないよう、月に一度か二度は本気で料理をするらしい。  テーブルに座って待っていると、 「とりあえず、これ」  刺身が乗っている陶器製の皿と、割り箸を出してきた。  大根のツマの上の刺身は鯛のようだが、皮が付いたままになっている。 「松皮づくりっていうんじゃ。鯛の本当のうまみは、皮ごと食べんとわからん」  取り皿の濃い醤油にその刺身を箸で一切れつまんで漬け、口の中に入れる。臭みはまったくなく、ふつうの刺身より鯛独特のコクが強い。 「おいしい」と美咲は言った。  次に雄一郎は蓋をした椀を出す。蓋を開けると、お吸い物のようだが実が何も入っておらず、白ごまが浮いているだけだった。  何かの間違いだろうか、そう思って、 「ゆうちゃん、このお吸い物、何にも入ってないよ」と言った。 「まあええから、一口飲んでみい」  言われるままに啜ると、薄味の汁のなかに旨味がしっかり詰まっている。 「なにこれ、おいしい」 「鯛の中骨をしっかり火であぶって、それを利尻と一緒に出汁を取るんじゃ。ほいで、日本酒と塩と醤油で味を付ける。ほかの魚とか鶏肉なんかを煮たら、味が濁ってしまうけん、この出汁はそのまんま飲むんがいちばんええんじゃ」 「へえ、さすが高級料亭で修行しただけあるね。ちょっとだけ鼻にツンと来るけど、何か香辛料入れてるの?」 「気づいた? ちょっとだけ山椒の粉を入れとる。本当は企業秘密じゃけど」  次は、陶器の茶碗にアルミホイルで蓋をしてあるものが出て来た。雄一郎は美咲の目の前でアルミホイルを外す。それは茶碗蒸しで、固まった玉子の表面に緑のミツバが浮かんでいる。  木製の匙で掬うと、小ぶりな牡蠣が出てきた。 「牡蠣がうまくなるんは本格的に寒くなってからじゃけど。あんま豪華な食材も用意できんし」雄一郎は言い訳のように言う。 「おいしいよ、本当においしい」美咲はお世辞抜きで言った。  豪華な和食のメニューに似合わず、なぜか次は油揚げと小松菜の煮物が出てきた。美咲は別に油揚げも小松菜も嫌いではないが、なぜ雄一郎はこんな家庭料理を混ぜてくるのだろう。  そう思いながら箸でつまんで口に入れると、油揚げが吸い込んでいた濃厚な出汁で口のなかが満たされる。 「なんでこんなふつうの料理が、こんなになるの?」美咲は感嘆する。 「まあ、それがプロの腕っちゅうもんじゃ。高い食材さえ使えば、そらうまいもんはできるけど、やっぱりふつうのもんをうまく仕上げてこそじゃ」  最後は、サーモンを薄く切ったものと、すだちで味付けした白髪ねぎと海苔が乗ったお茶漬け。さっぱりしたなかに香ばしさがあって、するすると喉を通っていく。 「ごちそうさまでした」  茶碗を置くと、雄一郎は熱い緑茶を入れてくれた。 「ゆうちゃんはお昼は先に食べたの?」 「俺には鯛のお頭があるんじゃ。しっかり煮込んで、後で食べる」  雄一郎もダイニングテーブルに着席して、湯飲みでお茶を飲む。 「さすがプロだね。おいしかった。こんだけ料理できたら、もうお母さんの立つ瀬がないんじゃない?」 「それが、うちのオカンは俺が料理したらダメ出ししてきよるんじゃ。この味付けはおかしいとか、包丁の使い方が下手とか、化学調味料は使ったらいかんとか。まあこだわりがあるんじゃろう。みっちゃんは、料理はせんの?」 「ぜんぜん、ダメ。今はお母さんがやってくれてるけど、あっちにいるときはほとんど外食かコンビニかインスタントだった」 「不健康なことじゃ。人間、四十になったらそれまでやってきた不摂生のツケが一気に来るらしいけん、今から気を付けにゃ」 「わかりました、気を付けます」  美咲は小さく頭を下げた。 「ゆうちゃん、バツイチなんでしょ? 何で離婚したの?」 「さすが、遠慮せずに訊いてくるなあ」 「遠慮したほうが良かった?」 「いや、せんでもええけど。……でも正直言うて、俺にも理由がわからんのじゃ。娘が産まれて一年が過ぎたころ、仕事が終わって家に帰ってきたら、急に嫁さんと娘がおらんようになっとった。夕方になっても帰ってこんけん、あちこち電話してみたんじゃが、どこも知らんて言うて。結局、嫁さんの実家に帰っとったらしいんじゃが、嫁さんの父親は『どこにいるかは言えない』みたいなことを言うた。ほいで、一方的に『あんたにも反省するところがあるだろ』とか、『しつこいと警察呼ぶぞ』とか」 「なに、それ。そんなことあるの?」 「しばらくしたら、家に弁護士から内容証明がやってきてな。要するに、DVとモラハラを理由に離婚をする、慰謝料五百万円を払え、拒否するなら離婚調停を申し立てる、みたいな。内容証明なんか出されたことなかったけん、びっくりしたわい。役所と警察のほうには、もう俺がDVをしていたとして通知が行っとったみたいで、どうしようもなかった」 「本当にDVとかしてたの?」  雄一郎が暴力などできない男であることを、美咲は知っている。のんびりして、人のことを優先する性格であることは、昔も今も変わっていない。 「神に誓っていうけど、一切しとらん。まったく身に覚えがなかったし、今でもなんでそんなことになったかわからん。……で、自分だけじゃどうにもならんけん、こっちも弁護士にお願いしたんじゃが、相手にはDVの証拠になる医者の診断書があるとかで、たぶんその半年くらい前に自転車で転んだときのやつなんじゃが、だからこっちが圧倒的に不利になるだろう、と。弁護士の先生が言うには、なぜ相手がこんな訴えをするのかわからないが、『もう相手にあなたを愛するつもりはないだろう、人をむりやり愛させることは不可能、そして男親が親権を取れる可能性は極めて低いから、将来のことを考えるなら、ここは前向きにいったん引いて、一から人生をやり直すほうが得だ』って説得されてしもての。親権は向こうで、俺の貯金を財産分与として八割を引き渡すかわりに、慰謝料はなしという条件で、受け入れることにした」  一方的に子供を連れ去られ、DVをでっち上げられ、離婚を突き付けられる。そういう事例があるということは耳に挟んだことはあったが、まさかその被害者に遭うとは思っていなかった。 「司法は、少なくとも親権や離婚に関しては、女の味方なんじゃ。男の言うことは聞いてもらえん。それがようわかった」 「お子さんの養育費は?」 「今も銀行振り込みで払うとる。毎月五万円。娘が十八になるまでだから、あと十三年かな」 「お子さんとは会えてるの?」 「いや、ぜんぜん。面会交流の取り決めはしとったんじゃが、知らん間にどっかに引っ越したらしくて、今はどこにおるかもわからん」 「そんなこと勝手にして、大丈夫なの? どこにいるかもわからない子のためにお金払い続けるって……、ゆうちゃん納得してるの?」 「納得しとらんが、納得するまで戦おうとすると、こっちのダメージのほうが大きくなってしまう。損か得かという面で考えると、相手の言うがままになるのがいちばんマシになるんじゃ」  しんみりとしながらも、あっさりとそう言った雄一郎の様子を見て、美咲は雄一郎が今までに受けた苦痛を推し量る。 「たいへんだったんだね。ご苦労さま」  二杯目の緑茶を飲んでいると、 「そういや、公園のうわさ、聞いた?」と雄一郎が話題を変えるように言った。 「公園?」 「そう、事件があった中央公園」  新光集落の中央公園で遺体が発見された翌々日、警察署には捜査本部が起ち上げらたらしい。ずっと捜査が続いて、すでに遺体発見から三週間近くが過ぎている。しかし捜査は遅々として進んでいない。遺体が誰なのかもわかっていない。もちろん犯人も捕まっていない。  美咲の家にはあれから三回、警察が聞き込みに来た。そのうち一回は敏子がいろいろ詳しく聞かれていたが、ほかの二回は「何か新たに気づいたことや、思い出したことはないですか?」と聞かれるだけで、何も進展はないようだった。 「何かあったの?」 「それが、あの公園で、幽霊が出るといううわさが立っとるんじゃ。若い男の幽霊で、夜になったら現れるとか」 「そんな、まさか」  美咲は鼻先で笑った。美咲はそういう類の話はまったく信じていない。幽霊などただの目の錯覚か、あるいは精神に異常をきたした人の妄想だと思っている。 「最初は小学生のあいだで広まったらしいんじゃが、怖いと言い出す子が多くて、通学路も公園の前を通らない道に変更になって、わざわざ遠回りしとるらしい」 「そんな騒ぎになってるんだね。ゆうちゃんはその幽霊見たことあるの?」 「いや、もちろんないけど。まあ子供が怖がるんはしゃあないじゃろ」  家の自室に帰って、さっそくタバコを吸った。雄一郎の家では喫煙者はいないらしく、さすがに「タバコ吸っていい?」とは聞けなかった。  時刻は夕方三時を過ぎたあたり。  美咲は小さな手持ちの鏡を見て、頭頂部の生え際が黒くなっていることを確認する。襟足の髪の毛もそろそろ伸びてきた。前に酒本の美容院に行ったのは、二か月ほど前だったか。  今日は日曜日なので、美容院は混んでいるかもしれない。明日の月曜日は定休日だ。  確認のために、スマホを取り出して電話を掛ける。 「あ、もしもし。古瀬美咲ですけど」 「あら、美咲ちゃん。どうしたの?」 「お忙しいところ、すみません。髪の毛切っていただきたんですけど、今日か、明後日あたりにお願いしたいんですが、大丈夫ですか?」 「あ、うん。今日なら、夕方五時半くらいになると思うけど、それならオッケー。明後日なら、たぶん昼からならだいたい大丈夫。カットとカラーだけでいいのよね?」 「あ、はい。じゃあ、今日の五時半に伺います」 「うん、ありがとうございます。お待ちしてます」  電話は切れた。  二時間ほど動画サイトを見ながら時間を潰し、午後五時二十分に家を出る。  集会所の前、そして中央公園の前を通って、坂本の美容院に向かう。事件直後は中央公園前には見張りの警察官が立っていたが、その翌々日の夕方には鑑識作業を終えて撤収したらしかった。  今日の雄一郎の話では、ここに幽霊が出ると小学生のあいだでうわさになっているとか。事件後の現場は気味が悪いと思ってしまうのか、公園に入る人はいないようで、ひっそりとした空間になっている。  酒本の美容院に到着すると、美咲の母親と同い年くらいの女性が椅子に座っていて、半袖のシャツを着た酒本が客の髪の毛を乾かしていた。 「あ、美咲ちゃん。いらっしゃいませ。ごめん、もうちょっとだけ待っててね」 「はい」  その女性客は、顔に見覚えはあるが、名前はわからない。狭い集落だが、全ての住人の名前と顔を覚えるには広すぎ、全ての人を完全に他人としてしまうには狭すぎる。  美咲は客用のソファに座って、棚のファッション雑誌を手に取った。  五分もしないうちに先客の仕上げは終わり、会計をして退店していった。 「おまたせ、どうぞ」酒本が美咲を椅子に座るよう促した。  座ると、酒本は美咲の背中を掌底部で押し、その手を肩から腰のほうへ動かして行く。 「相変わらず、凝ってますねえ。最近も仕事忙しいの?」 「ええ、まあ」 「うちの店も美咲ちゃんの会社に頼んで、ウェブサイト作ってもらおうかしら」社交辞令のように酒本が言う。 「やめといたほうがいいですよ。私が言うのもあれですけど。オンラインで予約できるシステムみたいなのを組むならともかく、普通のウェブならサンプルのソースコードをいじれば簡単に作れるから、わざわざ業者に頼むようなものじゃないです。正直言って、うちの会社高いですし」  マッサージの刺激を受けながら、皮膚が得た軽い痛みが、快感となって身体の内側に伝わっていく。 「毎日、何時間くらいパソコン触ってるの?」 「さあ……、日にもよるんでるけど、ちょいちょい休みながら、結局はたぶん六時間くらいですかね」 「そんなに。そりゃこれだけ凝るわね」 「IT屋も、肉体労働みたいなものですから。でも運動不足になりがちで肥満の人が多いから、プログラマは四十歳が限界とか早死にする人が多いとか、言われることもあるんですよ」 「たいへんね。身体に気を付けてね」  マッサージが終わると、首に店名の入ったケープを巻かれた。 「どうしよう。前とおんなじくらいでいい?」 「そうですね、ちょっと短めにしてもらおうかな」 「わかりました。じゃあ前より三センチくらい短くするね」  髪を切ってもらいながら雑談し、話題は必然的に事件のことになった。何回警察が来たとか、来た警察の人はどんなだったか、みたいな内容。 「そういえば、公園で幽霊が出るみたいなうわさが立ってるらしいんですけど、酒本さんは知ってますか?」 「うん、そういううわさが立ってるってことは、聞いたことはある。ていうかね、夜中に事件現場を面白半分で見学に来てるのか、それとも肝試しのつもりなのか、集落外から若いのがやって来てるみたいなのよ。特に、週末に。うち、近いから、公園のほうから声が聞こえてきてね。昨日の夜も何組か来てたんだけど、正直言ってちょっと迷惑よね」 「そうですか。……で、本当に幽霊出るんですかね?」 「出るわけないでしょ。そりゃ殺された人にとっては不本意に違いないでしょうけど、ここに出て来られてもねえ」  カットが終わり、ブリーチを塗ってもらう。強いにおいが鼻を刺激してくる。 「あ、そういえば、うわさと言えば……」酒本はそう言った後、いや、やっぱりなんでもない、と言おうとしていた言葉を飲み込んだ。 「なんですか? 気になるじゃないですか」 「いや、本当に大したことではないんだけど」 「聞かせてくださいよ」 「いいけど、気分悪くしないでね。悪気があるわけじゃないから」  いったい何だろう。美咲は次の言葉を待った。 「例の事件、犯人はあいつだ、みたいなうわさがいくつか流れてるみたいなのよ」 「そうなんですか?」 「まあまったく根拠はないみたいなんだけどね。私こういう仕事してるから、そういううわさ話は耳に入ってくるから」 「で、犯人は誰なんですか?」 「まあ、あそこの家のあの人が怪しいとか、この人が怪しいとか。で、何人か具体的に名前挙がってるみたいなんだけど、そのうちの一人が、窪園さんとこの息子さんみたいなのよ」 「え、ゆうちゃんが?」美咲は小さく叫ぶ。 「あ、そうか。美咲ちゃんと窪園さんの息子さん、たしか同級生だったんだよね。本人に言っちゃだめよ」 「言いませんよ。というか、言えませんよ」 「まあ要するに、いい歳をして、実家に帰ってきて仕事もせずにブラブラしてるみたいだから、不審人物扱いされてるんでしょうね。それに離婚した理由が、どうやら前の奥さんに暴力やってた、みたいな話もあるみたいだし」  美咲は顔には出さなかったが、無責任なそのうわさに強い憤りを感じていた。何を根拠にそんなデマを流しているのか。 「ゆうちゃん……、窪園さんが帰ってきたのは、勤めていたお店が潰れたからで、どうしようもないですよ。昨今、飲食店はどこも厳しいんだから。私、昔からゆうちゃんを知ってるからわかるんですけど、ゆうちゃんは暴力できるような人じゃないですよ。まして、人殺しなんて」 「まあ、そうよねえ」  空気が気まずくなったのか、ふたりとも黙ってしまった。 「うーん……。じゃあ、美咲ちゃんの耳に入れといたほうがいいのかなあ」と酒本がためらいがちに言った。 「なんですか?」 「怒らないでね、あくまでもそういう無責任なうわさが流れてるってだけだから。……もうひとり、犯人かもしれないと怪しまれてる人がいるのよ」 「誰ですか?」 「美咲ちゃん、あなた」  それを聞いて、美咲は絶句してしまった。 「美咲ちゃんが犯人じゃないかって疑ってる人がいるみたい」 「いったい、誰がそんなことを……。私も不審人物扱いされてるんですか?」 「ごめんなさい、お客さんの情報だから、誰から聞いたかは言えない。でも、後からこの集落に引っ越してきた人は、美咲ちゃんがこの集落出身だって知らない人もいるから……。それに美咲ちゃん、車を運転せずに歩いてるでしょ。田舎だと移動はみんな車でするもの思ってるから、なんでわざわざ歩いてるんだろうって、不思議に思う人がいるんでしょうね」  美咲は重いため息を吐いた。  たしかに、コンビニに買い物に行くのにわざわざ歩く人は、この集落内にはいない。十八歳を超えていて運転ができない人間など、足腰が動かなくなった年寄り以外には誰もいないのだ。徒歩で移動する自分を、少し浮いた存在だと思うことは我ながらあった。 「ごめんなさい、へんな話聞かせて」酒本が申し訳なさそうに言う。 「いえ、いいんです。私が話してくださいっていったんだから。私の知らないうちに不審人物扱いされるよりは、知れてよかったですよ。ありがとうございます」  それは美咲の本心だった。  それから約三十分あまりで、シャンプーとドライヤーを終えた。  会計を支払って外に出ると、すでに薄暗くなっていた。帰宅するには、中央公園と集会所の前を通らなければならない。  中央公園の入口の街灯すでに光っており、道路と公園を隔てる金属製の柵を照らしている。もちろん幽霊などはそこにいない。  帰宅すると、午後七時を過ぎていた。  敏子は先に夕食を済ませたらしく、ダイニングテーブルに美咲のぶんのアジフライと小鉢の五目豆が残っている。  ソファに寝っ転がってテレビを見ている敏子の姿をよそに、ごはんと鍋のみそ汁を椀に注いで食べた。 「ねえ、お母さん。公園に殺された幽霊が出るってうわさが流れてるらしいんだけど、聞いたことある?」アジフライをかじって美咲が言った。 「いや、知らん」敏子は即答した。 「幽霊って、いるのかな?」  こういう話を美咲は母としたことはなかった。美咲が子供のころには、テレビで心霊番組などをたくさんやっていた記憶があり、怖がりながらも見た記憶がある。しかし、ある時期を境に心霊番組は急激に衰退した。某宗教団体のテロ行為が、メディアがオカルトを慎むきっかけになったという話を聞いたことがあるが、真偽のほどはわからない。 「そりゃあ、おるじゃろ。幽霊というてええんかどうかはわからんけど、死んだ後の人の念というんは、この世に残ると思う」敏子が言った。  和室の仏壇の仏器には、今日も飯が供えられている。  母らしいと美咲は思った。  翌日の月曜日の昼すぎ、パソコンでスタイルシートのコードを書いていた。会社の営業が新たに取ってきた案件で、仕様書にはこれから作成するウェブサイトに記載する「SDGs」とか「ESG」という、最近流行の文言がならんでいる。新たに設立される予定の企業で、ジェンダーフリーや環境に配慮した経営を行うためのアドバイスをするコンサルタント会社のようだ。  グローバル、イシュー、ソリューション、サスティナブル、コミットメント、パラダイムシフト、ヒューマンリソース、フィージビリティー、アファーマティブアクション……、もはやどこの国の言葉なのかもわからない意識の高そうな単語を眺めてうんざりしていると、一階で固定電話の呼び出し音が鳴っているのが聞こえる。  率直なところ、美咲は電話に出るのが面倒くさく感じていた。美咲個人に用事があるなら、スマホに直接電話を掛けてくるか、メールかSNSのメッセージを送信してくるはず。母の敏子も、いわゆるガラケーというやつだが、携帯電話を持っている。固定電話にわざわざ電話を掛けてくるのは、保険やリフォームなどの勧誘ばかりだった。母に、「固定電話、契約解除したら?」と何度か言ったことがあるのだが、「もし何かがあったときのために」という曖昧な理由で、契約を続けている。  十回コールを終えても、電話は鳴り続けている。十五回、十六回と数えながら、一向に止まない。  美咲は仕方なく一階に下りて、受話器を上げた。 「はい、古瀬です」 「もしもし、二班班長の高崎と申します。お世話になっております。古瀬敏子さんはいらっしゃいますでしょうか?」  役員班長会議に出席していた高崎達子の姿を思い出す。六十代半ばで、ごく普通の婦人。白髪染めをする習慣がないのか、長い髪の毛はグレー。真夏でも濃い色の長袖のシャツに、足首まである長いスカートをはいていて、大きなハットをかぶっていた。  役員班長会議ではほとんど口を開かず、高崎が何かを主張しているところを見た記憶は美咲にはない。高崎の住む二班は、美咲の六班とは離れた位置にあるため、道端ですれ違うということもなかった。 「母なら仕事に行ってます。帰ってくるのは、五時くらいになると思いますけど、何か御用でしょうか?」 「あの、お願いしたいことがありまして……」  次の言葉を美咲は待ったが、なかなか出てこない。 「なんでしょう?」と催促する。 「回覧板で回してもらいたいことがあるんです。大事なことですので……」 「えっと……、回覧板のことなら、次の役員班長会議で提案すればいかがですか? 次の会議は再来週でしたっけ」 「できれば、早いほうがいいと思いまして」  何が言いたいのか、いまいち掴めない。 「まあ、私には決める権限はありませんので。母が帰ってきたら、そちらにお電話差し上げるよう言っておきます」 「お手数お掛けして、申し訳ございません。よろしくお願いします」  電話を切って、美咲は多少の不愉快を感じていた。回覧板の文書を作るのが、他愛もない作業とはいえ、そう何度も便利に使われると、気分のいいものではない。新たに買ったプリンタの黒インクも使用する紙も、美咲が自腹で購入したのだ。  今になってインク代を会計担当役員の東に請求しようかと思ったが、雄一郎に連れて行ってもらって買ったときのレシートはすでに捨ててしまっている。  美咲は自室に戻って、作業の続きを開始した。  五時すぎに敏子が帰宅してきた。  二班班長から電話があったことを知らせると、 「いったい、何の用じゃろね」と言った。 「よくわかんないんだけど、回覧板で回してほしいことがあるとか言ってたよ」 「何なんじゃろ」  達子は冷蔵庫にマグネットで留めてある自治会の名簿の紙をはずし、固定電話の受話器を上げてダイヤルした。 「あ、どうも。古瀬ですけど、お電話いただいたようで。ええ、ええ……。回覧板? 何でしょう……。被害者の名前? なんでそれがわかったんですか。ええ、ええ。そんなこと言われましても……。自治会長さんのほうにも聞いてみないと、いや、それは私には何とも。……すみません、何を言うとるんかちょっとわからないです。……わからないです。えっと、今からですか? いえ、問題ないですけど。……とりあえず、それを見ればいいんですね? お待ちしております」  美咲は敏子が受話器に向かってしゃべっているのを横で聞いていた。しゃべりながら、敏子の表情はだんだん険しくなり、眉間にしわが深くなっていく。  電話を切った敏子に、 「何なの、どんな用なの?」不信感と好奇心を消すため、美咲が訊いた。 「いやあ、正直、わからん。この前の殺人事件の被害者の名前がわかったとか言いよったけど、途中から言いよることの半分も理解できんかった。まあ、とりあえず今からうちに来るらしいけん、お茶でも用意して待っとくしかないじゃろ」電話で話すときと打って変わって、敏子はいつものように方言を使うようになった。  美咲が急須にお湯を入れていると、来客を告げるインターホンが鳴った。敏子が玄関のほうに向かう。 「お疲れのところ、いきなりすみません、お邪魔します」 「むさくるしいところですが」  そのような形式通りの挨拶の後に、敏子が高崎を仏壇のある和室に導いた。  敏子と高崎が冬にはコタツになるテーブルに向かい合って座った。両者とも正座をしている。 「どうぞ」美咲はそう言って高崎に熱い緑茶を出した。 「どうも、すみません」と高崎は丁寧に頭を下げた。  美咲はお盆を空になったお盆を畳の上の置くと、敏子の横に座った。どうやら高崎の訴えようとしていることに回覧板が絡んでいるらしいので、自分も話しを聞いたほうが良いだろうと判断した。 「で、いったい何のご用でしょう?」 「電話でもちょっと言いましたけど、この前の事件で殺された人の名前が判明したんです」 「なぜ、それを高崎さんがご存知なんですか?」 「先生に見ていただいたんです。亡くなった方の霊を降ろして、先生の肉体に憑依させて、語ってもらったんです。亡くなった方は、高坂翔太郎(こうさかしょうたろう)という人のようです」  思わず美咲は敏子と目を見合わせる。そして、敏子が得体の知れないものをみるような視線を高崎に向けた。 「あの……、その、先生というのはいったい、どちら様なんでしょう」敏子が言った。 「あ、すみません。そこから説明しなければいけませんね。清光弥勒会(せいこうみろくかい)の教祖様のことです」  再び美咲は敏子と目を合わせる。 「えっと……、それは宗教団体ということでいいんですか?」 「まあ、世間一般の言い方をすれば、そうなるんでしょうが、清光弥勒会は宗教法人の法人格は持っておりませんし、自らの活動を宗教だという認識は持っていません。弥勒会は、いずれ現れる未来仏たる弥勒様をお迎えするための準備をする人が自発的に集まって、日々修行をしているのです。つまり、弥勒会の活動は宇宙の摂理なんです」  高崎はまっすぐな視線でそう言った。どうやら、洒落や冗談ではないらしい。  あなた頭狂ってるんじゃないか、そんな言葉が喉元まで出かかったが、下手に刺激するとどんな反応がやってくるのか、わかったものではない。何とか努力して苦笑を作り出すのが精一杯だった。  敏子が顔を引き攣らせたまま黙っているので、美咲が、 「で、その何とか会のことはわかりましたが……、いえ、正直言ってわからないんですけど……、それと亡くなった方とがどう関係するんでしょう?」と言った。  高崎は一口お茶を飲んでから、 「見ていただいたほうが早いと思います」  脇に置いていた小ぶりのバッグから、スマホを取り出した。六十代の人には似つかわしくない、最新のスマホだった。 「ご覧ください」  高崎はスマホを操作して、画面を美咲と敏子の前に差し出した。全画面表示になった動画が再生されている。  画面には、歳は四十代か五十代くらいだろうか、青いスーツを来た細身の男が、つくりのしっかりした高級そうな机の向こう側に座っている。その男は、座ったまま何度か合掌して礼を繰り返し、「未来仏たる弥勒菩薩の名において、先日身許に旅立ちたる魂をここの降霊する」と叫び声のようなものを発した。  その後、小さいな声でぶつぶつと呪文のようなものを繰り返した。  そしてその呪文が絶えると、男はいきなり机の上に倒れ込んだ。が、すぐに起き上がる。 ≪ようこそいらっしゃいました。まずあなたのお名前を≫画面には映っていないが、部屋にいるらしい女の声がそう言った。  その声は高崎のものではないようで、おそらく若い女性のものだと思われる。 ≪くるしい……≫目を閉じたまま、苦悶の表情で男が言った。 ≪苦しい?≫ ≪くるしい……≫ ≪なぜ、苦しい?≫ ≪殺されて、くやしい……≫ ≪あなたの名前を教えてください≫ ≪俗世での名前は、こうさか……≫ ≪こうさか? 高いに坂道の坂でこうさか、なんですね?≫  男は肯いた。 ≪しょうたろう≫ ≪それが下の名前なんですね? しょうたろうのしょうの字は≫ ≪飛翔のしょう≫ ≪高坂翔太郎さん。年齢は?≫ ≪二十八歳。先月誕生日を迎えたばかりだった≫ ≪事件のことを聞かせてください。あなたを殺したのはいったい誰ですか?≫ ≪……わからない。見たこともない男だった≫ ≪犯人は男なんですね? 犯人の姿はどんなのだったんですか?≫ ≪黒いパーカーを着た、六十代か七十代くらいの男……≫ ≪なぜその男はあなたを殺したんですか?≫ ≪わからない……≫ ≪犯人は今どこにいるんですか?≫ ≪現場周辺にまだいる……≫ ≪現場周辺にいるんですね?≫ ≪早く、早く捕まえないと、災いは繰り返される≫  男はまた机の上の倒れ込んだ。  高崎が動画の再生を止めてスマホを引っ込めた。  三度(みたび)、美咲は敏子と目を合わせる。敏子はもはや汚物を見るような目で高崎を見て、一方美咲は笑いさえ込み上げてきた。 「ご覧になったように、犯人はまだ近くに潜伏しているみたいなんです。ですから、住人の皆さんに注意喚起をして、特に見ず知らずの六十代か七十代の男性がいたら警戒するよう、回覧板で呼びかけてほしいんです」 「そ、それは、降霊術みたいなものなんですか? イタコみたいな……」  美咲がそう言うと、高崎はテーブルをいきなり手のひらで強く叩いて、 「イタコなんて、インチキです。あんなカルトと一緒にしないでください!」と言った。  もはや恐怖しか感じない。粘り気のある粘膜が皮膚に貼り付いたような気持ちの悪さに捉われる。 「私たちだけで決めることはできませんから、自治会長さんとかほかの役員にも相談しないと。……とりあえず自治会長さんに電話してみます」  敏子が立ち上がって、リビングに向かった。  高崎は涼しい顔をしてお茶を飲んでいる。 「あの、高崎さん。失礼ですが、その降霊術みたいなのを先生にお願いするの、お金が掛かったりするんですか?」  美咲は沈黙が返って怖ろしかったので、そう尋ねてみた。 「ええ」 「おいくらくらいなんでしょう?」 「五十万円。でも、住人の皆さんの安心と犯人逮捕のためなら、安いでしょう」 「そんなに……」 「もちろん、私が勝手にやったことですから、自治会費で賄ってもらおうなんて思ってません。ボランティアです」  当たり前だろう。そう思った。美咲が負担したプリンタのインク代とは、いろんな意味で次元が違う。  リビングから敏子が電話で話している声が聞こえる。 「自治会長さんですか? ええ、ちょっと相談したいことがございまして……。二班の班長さんが、回覧板を臨時で出してほしいと言うとるんです。ええ、今うちに来てもろうとるとこなんですが。……それが、例の殺人事件に関わることで、重大な事実が判明したと高崎さんはおっしゃっとるんですが……。私の判断ではどうにも。ですから、自治会長さんに……ええ、ええ。今から来てもらうわけにはいかんでしょうか? ええ、今から。ご迷惑ですが。お願いします。助かります」  電話を切って、敏子が和室に戻ってきた。 「今から自治会長さんがこっちに来てくれるって。高崎さん、その件は自治会長さんに直接お話ください」 「わかりました」  自治会長を呼んだというより、謎しかない高崎の奇行に対して、敏子が自治会長に助けを求めた、というほうが実質に近い。いったい、どうやって高崎を追い返していいものか、さっぱり知恵が浮かばない。  十分もしないうちに、自治会長の五島がやってきた。 「いきなりのことなのに、すみません」敏子が五島を和室に導いた。 「お茶、入れなおしてきます」  美咲は立ち上がって、テーブルの上の湯飲みを回収して台所に向かった。  新たに湯飲みをお盆に乗せて和室に戻ると、高崎が五島に何とかいう宗教団体のことを説明し、美咲と敏子が見せられた動画をあらためて五島に見せていた。  見終わると、五島も先ほどの敏子と同じような複雑な表情をしている。 「まあ、日本は憲法で信教の自由が保障されとるけん、高崎さんがどんな宗教を信じておろうが自由じゃが……」  確かにその通りだった。他者に害を及ぼさない限りは、人はイワシの頭や路傍の石ころを特別なものと信じる自由がある。 「回覧板、臨時で回していただけないんですか?」 「難しいんじゃなかろうか……。注意喚起をするのは大事なことですが、根拠がイタコ芸というのは」  五島がそう言うと、 「イタコじゃないです!」高崎は絶叫した。  どうやら、この宗教の先生とやらの降霊術を、イタコ呼ばわりされることが地雷になっているようだ。  すみません、と多少呆気に取られながらも五島が高崎に詫びた。 「被害者の名前や犯人像についてはともかく……、次の会議の後の定期回覧板で、より強い注意喚起をするよう促すということで、納得してもらえんじゃろうか。その先生というのも、何か勘違いすることもあるかもしれんし、もし犯人について誤った情報を拡散してしもうたら、余計に具合の悪いことになるかもしれん」  高崎はそれを聞いて少し黙っていたが、 「わかりました。でも、早く犯人を捕まえないと災いが繰り返されると先生はおっしゃっています。何かあってからでは遅いんです。そのときは、自治会長さんが責任取ってくださいね」  高崎はスマホをバッグにしまうと、お邪魔しました、と言って去って行った。  静まり返った和室で、 「あれ、いったいなんじゃろうか」と五島が言った。 「まあ、とりあえず来てくださってありがとうございました」敏子が五島をねぎらう。 「ああ、いえ。こういう、住人どうしの衝突をほぐすのも、自治会長の役割のひとつじゃろうし……。しかし、高崎さんあんな人じゃったんか。私もあんまり関わったことはないんじゃけど、旦那さんも普通の人で、おかしな言動はなかったようじゃが。言いよることの一割も理解できんかったが、新興宗教の信者じゃったんじゃな」 「昨日今日信じ始めた、みたいな感じではなかったですね」美咲が言った。  集落の住人がどんな宗教を信じているかなど、近所の人に対しても尋ねたことは一度もなかった。おそらくみんな、正月には神社に行き、葬式や法要は寺の住職に頼み、クリスマスを祝う平均的な日本人ばかりだと思っていた。たまに、選挙活動に熱心な宗教の信者が、近所に投票を依頼するということはあるのかもしれないが。  気付いていないだけで、ほかにも不思議な宗教団体に所属している住人はいるのだろうか。 「まあ、むりやり信仰を止めさせるというのは、できないし、するべきでもないでしょう。見守るしかない」五島が言った。 「どうしましょう、また回覧板でイタコ芸のことを書けと言ってきたら……」敏子が言った。 「うーん……、まあその時はその時で改めて考えましょう。それまでに犯人も捕まるかもしれんし……。はよ捕まってくれんと、どんどん住人に不安が広まって行ってしまう」  五島は湯飲みに残ったお茶を一気にあおって、 「ご馳走様でした。私も帰らせてもらいます。お邪魔いたしました」と立ち上がった。 「いえ、こちらこそ、本当に申し訳ございません」  美咲と敏子は玄関まで五島を見送った。  目が醒めて、暗闇のなかで枕元に置いてあったスマホを探し当ててホームボタンを押すと、まだ午前三時五十分だった。カーテンの外から街灯の明かりが漏れている。ベッドに入ったのは夜の十一時くらいだったが、ずっとなにがしかの夢を見ていたような浅い眠りだった。  起き上がって、部屋の蛍光灯を付ける。タバコの箱を手に取って口を開けると、残り三本しかなかった。このまま起きていると、朝までにその三本を吸い尽くしてしまうだろう。近所にタバコの自販機はないし、そもそも美咲はタスポを持っていない。  さてどうしたものかとためらったものの、寝起きの身体はニコチンを欲してやまない。小動物をしつけるような気持ちでタバコに火を点けた。  昨日夕方の、高崎の様子を思い出して、やるせない気持ちになる。  いや、高崎だけではない。  自分の家の近所で殺人事件が発生し、不安になる気持ちはよくわかる。自分のできる範囲で、何とか真相を知りたいという気持ちを持つことは当然だろう。だから、真犯人は誰だという勘ぐりが始まるし、疑われる立場になることもある。  酒本は真犯人と疑われている人物として、雄一郎と美咲の名前を挙げていたが、ほかにもたくさん疑われてあらぬうわさを流されている人がいるにちがいない。  そして、真犯人を特定したいと、集落のあちこちに即席の探偵が溢れていることだろう。美咲は会社の先輩の三宅のように、ミステリ小説やサスペンスドラマを愛好してはいないが、このジャンルの創作物が多くの読者や視聴者を集めているということは、殺人事件の捜査がエンターテイメントの要素を強く持っているということの状況証拠となる。誰もが強い不安や恐怖のなかに、かすかな喜びを見出しているのだ。  タバコの火を消し、もう一度寝ようと明かりを消して布団に入った。  どれくらい時間が経過しただろうか、ようやくウトウトしかけたところで、窓の外から誰かが叫ぶ声が聞こえた。 「火事だ、火事だ! たいへんだ、火事だ!」男の声だった。  美咲はベッドから飛び起きて、窓の外を見る。集落の北の方角の低い空が、オレンジ色に染まっている。  パジャマの上にオーバーシャツを羽織って、サンダルを履いて玄関を出た。そして道路に出て北を見ると、オレンジ色がまるで風を受けたカーテンのように揺らいでいる。  美咲は心臓の鼓動が一気に早くなったことを感じた。  隣家の大黒夫妻も、美咲と同じようにパジャマ姿のままで表に出てきた。 「火事なん? 本当に火事?」大黒夫人が美咲に近寄ってきて、そう言う。 「わかんないです。でも何かが燃えていますね、これは」冷静を装ってそう言った。 「一一九番通報はしたんやろか」 「たぶんもうしてると思いますけど……」 「誰の家じゃろ?」  遠くから小さく消防車のサイレンの音が聞こえてきた。 「わかりません、行ってみましょうか?」  大黒夫婦と美咲は、歩いてオレンジ色の空のもとに向かった。  二百メートルも歩くと、火が大きく舞い上がっているのが見えてくる。木造住宅の右半分の壁面が火で覆われて、一階部分の天井まで燃えている。黒い煙が、その煙を吐き出している火自身の明るさによって空に向かって登っているのが見えた。  多くの野次馬が、遠巻きに燃える火を見ていた。バケツに入った水を火に向かって掛けている男がいたが、火は勢いを増すばかりだった。 「……ここ、大山田さんのお宅よね?」大黒が言った。 「たぶん、そうだったと思いますけど」 「あれ? あれ、大山田さんなんじゃ」  大黒が野次馬のなかのひとりの男を指さした。青いパジャマに白髪のその男に近寄ってみると、 「あ……、ああ……ああ……」  男はまるで呆けたように、燃える火を眺めているだけだった。 「大山田さん、なかにはほかに誰もいないんよね!?」大黒が問う。  大山田誠三は微かにうなずいた。  サイレンの音がだんだん近づいてきた。銀色の防火服を着た消防隊員が、消防車の窓から、「道を空けて、危ないから下がって!」と叫んだ。  消防隊員は降車すると、大蛇のようなホースを引き出して道路の消火栓の蓋を開け、ホースと接続した。  続いて、警察のパトカーもやってきた。 「下がってください、下がってください。危険ですので皆さん帰宅してください」パトカーのスピーカーが言った。  警察官がパトカーから降りてくると、野次馬を両手で押すようにして燃えている大山田宅から遠ざけた。美咲も押されてしまった。  消火が確認されたのは、朝の六時を過ぎたころだった。野次馬の大半は帰宅したが、何人かは残っている。美咲もそのうちの一人だった。  家の柱であった木材が、炭になって剥き出しになっている。  大山田が消防隊員と警察官に何か聴取されていたが、その途中でいきなりまるで子供のように号泣し始め、アスファルトの上に突っ伏した。  ほかの家に延焼はなく、犠牲者も一人もなかったのは不幸中の幸いだったが、大山田の家はリフォームなどでは回復し得ないくらいの被害を受けており、建物の体躯は残っているものの住み続けることはできないことは誰の目にも明らかだった。  伏したまま泣き続ける大山田に、美咲と同じく残っていた自治会長の五島が近寄って、しゃがむ。 「せいちゃん、五島じゃ。この度は本当にお気の毒です」と五島が声を掛けた。  そして立ち上がって、消防隊員と警察官に言う。 「私は自治会長をやっておる五島という者です。いろいろあるんでしょうが、聴取はまた後日にしてもらえんでしょうか。せめて、今日の昼以降にでも……。このようにショックで、何にも喋れるような状況ではないんで」  消防隊員は肯いた。警察官のほうも続いて肯いた。 「ほら、いつまでも泣いとったんじゃ、だめじゃ。とりあえず、集会所に行って、そこで休もう。あとで布団持っていっちゃるけん、ちょっと寝たらええ」  五島は大山田を抱きかかえるようにして立たせた。大山田は五島に手を引かれ、ひどく狭い歩幅で歩き始めた。  家に帰ると、敏子はもう起きていて、美咲の姿を見つけると、 「火事、すごかったね」と言った。 「お母さんも見に出てたの?」 「うん。さすがにあんだけサイレン鳴ったら、目が醒めてしもうて。やっぱり大山田さんの家やったん?」 「うん、自治会長さんが来て、とりあえず集会所で休むって」 「気の毒に……。大山田さん()は、奥さんが一昨年亡くなってしもて、息子さんはたしかふたりとも留学してそのまんまあっちで暮らしよるらしいけん、一人で住んどったはずじゃけど」 「そうなの? 息子さんっていくつくらいなの?」 「下の子が、あんたよりたしか六つか七つくらい年上」 「そう。息子さんが海外なら、たいへんだね。今から息子さんのとこに身を寄せるのも、難しそうだし」 「市内か近くに、親戚おるんじゃろか」 「さあ。見る限り、自治会長さんと昔からの知り合いみたいだったから、自治会長さんがうまくやってくれればいいけど」  美咲はオーバーシャツを脱いだ。 「あんた、煙の臭いがだいぶ染み付いとるよ。シャワー浴びておいで」敏子が言った。  美咲はパジャマの袖を鼻に当てて、臭いを嗅いだ。たしかに、タバコではない煙の臭いがする。 「ずっと火事見よったら、そら臭いも付くがね。洗濯するけん、洗濯機のなかに放り込んどき」 「うん」  今日着るべき服をタンスから取り出して、浴室に向かった。 「タバコ、止めよ。うちもいつ火事になるかわかりゃせんわい」敏子が美咲を叱るように言った。
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