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 大山田宅火事の翌々日の夕方六時から、臨時の役員班長会議が開催された。火事以降、大山田が集会所で寝泊まりしていたのだが、いったん大山田に退出してもらって、大部屋に役員と班長が集まった。  大部屋のすみには、大山田が使用しているらしい布団が畳まれてある。少し大きめの衣装ケースもあった。  会議の仮の議題が、「大山田さん宅の火事と、支援について」と通告されていたので、いつもはだらだらと遅れてくる役員や班長も、時間の五分前に全員揃っていた。  もちろん二班班長で、怪しげな新興宗教の信者の高崎の姿もある。 「えー、皆さま、お忙しいところまことにありがとうございます。全員揃ったようなので、臨時の会議を始めたいと思います」五島が起立して言い、一礼して座った。  美咲はいつものように、パソコンを開いてワープロソフトを起ち上げた。 「えー、まず、皆さまご存知のように、三日前の夜から一昨日の朝にかけて、大山田さんのお宅が火災に遭いました。大山田さんには現在、この集会所で寝泊まりしただいております。大山田さんのご子息の寛二(かんじ)くんが、準備が整い次第いったんこちらに帰ってくることになっておるようですが、寛二くんはカナダでお仕事をされていて、空港で感染症防止のため隔離されることになるので、こちらに到着するのはかなり先になるようです。で、まず最初の議題でございますが、現在緊急でこの集会所を大山田さんに提供しておりますが、息子さんがこちらにやってくるまでは引き続きお使いいただこうと思っております。異議がある方がいらっしゃいましたら、挙手をお願いします」  異議なし、と何人かが言った。 「異議なしと認めます。本日以降もお使いいただく予定とします。その間、住人の集会所利用は、大山田さんの了承を得た場合と緊急時を除いて、禁止といたします。」  自治会長、と大きな声を上げて会計の東が挙手をした。 「どうぞ」 「大山田さんの調子はどんなんです? 大丈夫なんじゃろか」 「たいへん落ち込んどりますが、ようやく物を食べられるくらいにはなっております」 「日々の食事は、どうしてるんですか?」 「うちに来て食べてもろうとります」 「自治会長もたいへんですねえ」と班長のうちの誰かが言った。女の声だった。 「いやまあ、私とせいちゃんは昔からの釣り仲間ですけん。せいちゃんのとこの上の息子と、うちの息子が同級生じゃったし」 「で、燃えた家の様子はどうなんですか? 家財道具とかで使えそうなものは残っとるんですか?」東が問う。 「いや、家電製品なんかは消火の時の水に浸かってしもて、使えるかどうかは……。衣類は二階のたんすに入れ取ったから、それらは全部問題ないようじゃが」  大部屋のすみにある衣装ケースの中身が、大山田の衣類らしい。  付け加えるように五島が、 「あと、仏壇は燃えずに残っとったんで、奥さんの位牌はきれいに無事だったそうじゃ」と言った。 「で、火事の原因は?」 「それが……、まだはっきりとはわかっとらんのじゃけど……」  五島は言葉を濁している。誰もが次の言葉を待った。 「放火の可能性もある、と」 「放火?」と複数人が同時に言った。 「どういうことですか、放火って」衛生担当の玉木が、五島を問い詰めるように尋ねる。 「どうやら、灯油に火が点いて火事になった可能性が高いと、警察が来てせいちゃん……、大山田さんに言うたようです。家に灯油缶はあったか、とか、灯油を使う製品はあったか、と訊いてきたそうです。最初に燃えたのは、玄関に向かって右側の壁のほうで、家庭用の灯油ボイラーがあるのとは反対側なんで、ボイラーが誤作動して燃えたっちゅうことはないようです。大山田さん宅では、冬に暖を取るのに灯油のストーブを使っとるようですが、今年はまだ出してなかったようです。去年使って余っとった灯油を、灯油缶に入れたまま物置のなかに置いとったようなんですが、出火場所近くの物置もほとんど燃えてしもたから、何かの拍子に物置の灯油にが点いたのか……、それとも誰かが灯油を撒いて火を点けたのか……」 「でも、出火したのは、夜中でしょう。火の後始末をおろそかにして物置が燃え始めるなんてことはありますかね?」防犯担当の佐藤が言った。 「正直なところ、私に聞かれてもわからんとしか言えんです。放火事件なのか、それとも火の後始末をおろそかにした事故なのか。もう少し待って結果が出んことには、何とも言えん」 「大山田さんは、タバコはお吸いになるんですか?」佐藤が再び問う。 「ええ。……でも、火事の後はよう吸わんようになっとるみたいですが」 「今の段階で断定するのは危険そうじゃね」副会長の島本が言った。 「仮に放火だとして、大山田さんが誰かに恨まれるようなことはあったんですか?」酒本が問う。 「いやあ、せいちゃんは人に恨まれるようなことをする人間じゃないと、私は思う。でも、こればっかりは何とも言えん。私もせいちゃんの交友関係を全部知っとるわけじゃないし……」  美咲は燃え尽きた家の前で、声を出して泣いている大山田の姿を思い出した。ふつうの七十代の紳士という印象。戦後に生まれ、高度成長のなかで働き、結婚して家を建てて子供を育て、妻に病気で先立たれて余生をひとりで生きている。妻を先に失うということ以外は、この世代の男性が歩んできた典型的な平凡な人生といったところだろうか。まさか、ここに来て思い出の詰まった家を失うことになるとは、想像もしなかったに違いない。号泣して、呆然自失となるのも当然だという気がした。 「で、今日の議題である、大山田さんの支援というのはなんですか?」最年少の八班班長の福井が言った。 「それは私から説明させていただきます」  東が起立する。 「大山田さんがこれからどうするのか、それは大山田さんが決めることで、私たちは口を挟むことではありませんが、家をもう一度建て直すにしろ、別のところに家なりアパートなりを借りて暮らすにしろ、また息子さんのところに身を寄せるにしても、たいへんな大きな負担となるでしょう。ということで、集落の住人の皆さんから義捐金を募って、大山田さんにお渡ししようかと思っております」 「なるほど」と誰かが言った。 「昔、この集落が出来たばかりのころは、近所どうしの『つなぎ』と言いますか、ご不幸があった家にいくらばかりか支援をするということがあったはずですが、いつの間にやら消えてしまいました。まあ、お祝いやお悔みのごとに何かをやってたら、キリがなくなるというので止めることになったんでしょう。で、今回、大山田さんがたいへんな目に遭ったということで、各世帯にいくらかご負担をいただこうかと思っております」 「具体的に、世帯当たりいくらの負担になる予定なんですか?」佐伯が言う。 「それは各家庭でご自由に決めていただくことになります。あくまでも自由意志による支援という主旨です。もちろん一円も出したくなければ、それでもかまいません」 「どうやって集めるんでしょう? 班長が班内の家を直接回るんですか?」 「会計の私が全てのお宅を訪問いたします」 「たいへんじゃねえ」と副会長の三田が言う。 「まあ、会計の仕事はほかと違って、年に一回の自治会費徴収と毎月の雑費の支出以外は、ほとんど仕事がないですけん、こんくらいは」 「でもそれじゃ、東さんには誰がどのくらい義捐金を出したか、知られることになりますね。自由意志でお金を出すのはいいとして、あまりケチだと思われるのも心外だし」広報の島本が言った。 「いえ、そのご心配はございません。各戸に空の封筒を配って、その中に現金を入れていただいて、何日か後に私がそれを回収するという形にします。ですので、誰が何円を入れたかというのは、わからないようにします」 「大山田さんはそれに対して、どう思っていらっしゃるんでしょうか。支援を受けたいということですか?」酒本が言った。  五島が挙手をして、 「それには自治会長の私から答えます。大山田さんは、最初は『そこまでしてもらうのは申し訳ない』みたいなことを言っていたんですが、最終的には、『皆さんに支えられていると思えば、あらためて生活を立て直す気力を持つことができます。ありがたくちょうだいしたいと思います』ということになりました。……あくまでも自由ですので、先ほど東さんが言うたように、嫌な方はゼロ円でもぜんぜん構いません。なんとか、大山田さんのために、義捐金集めに賛成してください。お願いします」  自治会長は深く頭を下げた。 「まあ、反対する理由はないですよね。嫌なら封筒にお金入れなきゃいいだけなんだし」七班班長の芝山が言った。 「では、決を取りたいと思います。集落内で、大山田さんに対する義援金を募集することに、異議はございませんか?」  異議なし、という複数の声が重なった。 「具体的な募集方法は、先ほど会計の東さんがおっしゃっていたような方法になります。東さんには全戸を回るという大働きをしていただくことになりますが、よろしくお願いします。書記の古瀬さんに、義捐金募集の件の文書を作成していただいて、臨時の回覧板を各班に回していただくことになりますので、よろしくお願いします。それでは本日の臨時役員班長会議はこれにて解散としたいと思います。お忙しいなか、ありがとうございました」  五島が頭を下げた。  班長のうちの何人かが、大部屋を出て帰宅して行ってるが、美咲はノートパソコンを持って五島と東が並んで座っている机の前に行った。 「すみません、封筒を各戸に配布する日にちと、回収する日にちは、いつになるでしょうか。それも文書に書いておきたいので」 「ああ、そうですなあ」五島が言う。 「臨時の回覧板が各班を一周するのに三日くらいかな。それに合わせて私が封筒を配ってまわります。できるだけ早くしたいんで、回収はその翌々日ということにしましょうか」  口には出さなかったが、ずいぶん急だなと美咲は思う。今日が十月十九日で、各班の班長から回覧板が回りだすのはおそらく十月二十二日以降だろう。 「ということは、封筒配布の日を十月二十五日にして、回収を二十九か三十日くらいにしておきましょうか」 「うん、それくらいじゃな」東が言った。 「わかりました。文面はどうしましょうか? これまで、こんなこと書いたことないんで」  東は少し考え込むように額に手を当てた。 「たしか、三十年くらい前になるんじゃが、お亡くなりになった方がおって、そんときもそういう文書が回ってきたような気がするんじゃが、何と書いておったかな。『誰それの家にご不幸がありましたので、義捐金を募集したいと思います』みたいな感じじゃったが」  はたして、自治会での義捐金を募集する文面は、どういうものがふさわしいのだろうか。  これまでの回覧板の文書で手書きの頃のものは、PDF化されてUSBのなかに保存されている。おそらく東の言う三十年ほど前の文書もあるだろう。 「じゃあ、その文書を参考にして作ります。でも今日はUSBを持って来てないので、家に帰って確認します」  五島が座ったままだが丁寧に頭を下げ、 「いつもお手数かけてすまんことです。私ら年寄りには、そういう難しいことはできんけん。古瀬さんがおって、たいへん助かってます」と言った。 「はい。後で印刷して、広報さんのところへ届けますね」  会議後のお茶会に、敏子は参加したが美咲は先に帰宅した。  そして、自治会の文書が保存されているUSBメモリをパソコンに差し込んだ。「平成○○年自治会文書」と名前が付けられたフォルダがたくさん並んでいる。それと開くと、「平成○○年度役員班長連絡先」や、「五月回覧板市民清掃について.pdf」や「九月回覧板緑の羽募金その他について.pdf」というファイルがある。  東は、ご不幸があって義捐金を募集したのは三十年ほど前と言っていたので、この集落が開かれて間もなくのことだろう。美咲は生まれていたのか、まだ生まれていなかったのか。いずれにしても美咲の記憶はあるはずがないころの出来事だ。  いちばん最初の年度のフォルダから順番に開き、目的の文書を探す。  ためしにひとつ、「二月回覧板ゴミ出しついて」というものを開いてみた。  PDFを表示する赤いアイコンのソフトが立ち上がり、少し時間を要しながら手書きの文書を表示させた。おそらくボールペンで書かれた丁寧な文字が書いてある。 「これまで燃えないゴミとして出していた空き缶と空き瓶は、来年度以降は資源ゴミとして木曜日の回収となります。お気をつけください。電池は回収ボックスに入れ、燃えないゴミには入れないようにしてください」  そんなことが書いてあった。  フォルダをひとつひとつ開いて、ファイル名から中身を推測しながら眺めていく。  そして、今からちょうど三十年前のフォルダのなかに、「十一月臨時回覧板 募金募集についてのお願い.pdf」というものを見つけた。  そのファイルを開くと、やはり手書きの文字が表示される。 *** 十一月十日 自治会長よりお知らせ 皆さまご存知のとおり先日、四班班長を務めてくださっていた金田幸助さんがご逝去されました。 告別式は去る十一月七日に金田さん宅においてしめやかに執り行われました。 金田幸助さんの奥様である恵子さまに、お悔やみ申し上げます。 金田さんには今年九歳と八歳になるお子様がおり、夫と父を亡くした恵子さまとお子様へ少しでも力になればと、自治会で募金を集めたいと思っております。 具体的な内容は、次の役員班長会議で決定する予定です。 なお、四班班長は規約により、自治副会長である大城甚吾さんが引き継ぎます。 以上 ***  金田恵子。先ほどの役員班長会議に、四班班長として出席していた。  たしか六十代で、地味な婦人だが、若いころはさぞ美人だったろうという雰囲気がある。この世代の人には珍しく身長が百七十センチ近くある。  美咲は金田恵子が未亡人であることは今の今まで知らなかった。  この回覧板の文書では、夫である金田幸助氏の死因はわからない。金田恵子の夫ということは、金田幸助もおそらくは同じくらいの歳だろう。ということは、三十歳前後ということか。いきなり亡くなるには、早すぎる年齢だ。 「しかし、この字汚いなあ。まあ私も人のことは言えないけど」  あらためてその手書きの文書を読んで、美咲はそんな独り言を言った。大学生になってからは、ワープロソフトで文書を作ることが多い、というか、鉛筆やボールペンで文字を書く機会がめっぽう減ったため、もともと下手だった字がさらにうまく書けなくなっている。役所へ出す文書や、選挙の投票に行ったときの立候補者の名前を書いたときなど、我ながらまともに読めるのだろうかと心配になるほどだった。  手書きなので個性が出るのは仕方ないが、読めなくはないものの、もっと丁寧に書いてはどうか。  興味本位で、同じフォルダのなかにある、その年の「役員班長連絡先.pdf」のファイルを開いてみた。  上から順番に、自治会長の氏名住所電話番号、その次は副会長の氏名住所電話番号というふうに並んでいる。ふたりめの副会長は「窪園光江」となっていたので、雄一郎の母親が務めていたようだ。  書記 古瀬敏子 電話番号○○○―○○○○  その一行を見つけて、「え?」と美咲は言った。  三十年前といえば、美咲は三才か四才のときだろう。この年にも、母は役員の書記を務めていたのだ。電話番号も、今家で使ってる番号と同じなので間違いない。  図らずも母の字を貶してしまったわけだが、母には今まで書記を務めたことがあるなどとは聞いたことがなかった。美咲が問わなかったから、言わなかっただけなのだろうか。  母が帰ってきたら、聞いてみよう。美咲はそう思って、文書の作成を始めた。 *** 十月十九日 自治会長よりお知らせ 皆さまご存知のとおり、五班の大山田誠三さん宅で火事が発生しました。 つきましては、次の通りお知らせいたします。 ①大山田誠三さんの生活再建支援のため、自治会で義捐金を募りたいと思います。十月二十五日に会計担当役員の東陸男が各戸に封筒を配布いたしますので、その中に義捐金を入れてください。封筒は二十九日に東が各戸に回収に行きます。金額の指定はありませんので、ご協力いただけない場合はゼロ円でもかまいません。 ②防犯のため、戸締りを徹底してください。 ③感染症予防のため、手洗いやマスクの着用、三密の回避に引き続きご協力ください。 ④火の元じゅうぶんお気を付けください。 以上 ***  それを一枚プリントアウトしたところで、敏子が家に帰ってきた。  印刷されたばかりの紙を持って一階に下り、 「おかえり」と言った。 「ただいま」 「今日の会議の内容で決まった回覧板の文書って、これでいいかな?」  敏子がそれを声に出して読んだ。そして、 「まあ、ええんじゃない? 念のためあとで私が自治会長さんに電話して、確認しとこわい」 「いちおう、会計の東さんにも確認しといて。問題なければ八枚印刷して、明日の朝に広報さんのところに持って行くから」 「うん、わかった」  時刻はすでに午後八時近くになっていた。 「帰ってきてから晩御飯作るつもりじゃったけど、すっかり遅くなってしもうたねえ。エビとかき揚げの天ぷら作ろうと思っとったんじゃけど」と敏子が言った。 「なんでもいいよ。何なら、宅配のピザでも取る?」 「そんな身体に悪そうなもん食べんでも。ご飯だけは炊いとるけん、簡単に炒飯でも作ったんでええ?」 「うん」  十五分もせず、たまごとたまねぎとピーマンとハムの炒飯ができあがった。  ダイニングテーブルに着席して食べながら、母子の会話はさっきの役員班長会議のことに及ぶ。 「本当に、放火なんじゃろか?」敏子が言った。 「さあ……、どうなんだろう。私が火事見に行ったときには、現場に怪しい人みたいなのはいなかったと思う」 「私はちょっと冷や冷やしたがね」 「何が?」 「高崎さんが、この前言うとったみたいに、『犯人を早く捕まえんから、不幸が続く』みたいなこと言うて、怪しげな宗教団体を布教し出したら、どうしようって。イタコ芸か何か知らんけど、ああいうのをあの場で言われたんじゃ、ちょっとどうにもならん」  そういえば、今日は高崎は一度も発言しなかった。もとより大人しい印象のあった人だから、それ自体は違和感のあることではない。 「高崎さんのところは、旦那さんと二人で住んでるの?」 「そうみたいじゃね。たしか息子さんがおったはずじゃが、やっぱりどっかで就職して帰ってきとらんのじゃろう」 「やっぱりみんな、県外に行ったら帰って来ないんだね」 「だって、帰ってきてもしょんなかろがね。こっちにはもう、役所と病院とパチンコ屋以外にはまともに稼げるような職はないんじゃけん。東京に出て行ってからこっちに帰ってきたんは、あんたくらいじゃろ」 「まあ、うちの会社はリモートになって、今はむしろ会社に来るなって言ってるくらいだし……。やっぱり市内で就職先を見つけるのって、難しいの?」 「まあ、そうじゃろ。特に今みたいなご時世は。昔からあった地場産業はすっかり衰退して、生き残った会社も人件費の安い海外に拠点を作って、行ってしもうたけんね」  雄一郎はまだ再就職先は決まっていない。失業保険はいつまでも貰えるものではなく、その期限が切れるまでに見つけられるだろうか。 「そういえばお母さん、自治会の書記だったんだね。三十年前に」 「え? ……そんな前じゃったか。たしかに書記の役員をやらされたことはあったわい」 「東さんが言うには、昔に今回みたいな義捐金を募集する回覧板を回したことがあったらしいから、昔の文書確認してたら、ちゃんと残ってて。そのときの書記が、お母さんになってたから」 「ああ、そんなん書いたような記憶が、ちょっとだけある」 「内容は、金田恵子さんの旦那さんが亡くなったから義捐金を集める、みたいなものだったけど、金田さんの旦那さん、なんで亡くなったの? まだ若かったんでしょ?」  美咲がそれを問うと、敏子は口のなかに入れた炒飯を咀嚼してから、 「そんな昔のこと、おぼえとるかい」と言った。  回覧板の指定どおり、十月二十五日に義捐金を入れる封筒が各戸に配布された。もちろん、美咲の家にも。封筒の表には、「二十九日午後に回収に参ります」とだけ書いてある。  さて、いくら入れるべきか。  美咲はそのことを敏子と話し合った。 「まあ、気の毒じゃけん、二千円か三千円くらいは入れとったほうがええかもね。なんぼ匿名じゃっちゅうても、あんまり少なかったらケチ臭い気がするけん」と敏子は言った。  アスファルトに突っ伏して号泣していた大山田の姿を直接見た美咲としては、もう少し力になりたいという気持ちがあったので、 「もうちょっと多くてもいいんじゃない? もし自分があんな立場になったら、ちょっとやりきれないよ」 「じゃあ、あんたはなんぼくらい入れたらええと思っとるん?」 「さあ……、一万円くらい?」と言った。 「うーん……。でも第二新光の総戸数がだいたい合計で百五十くらいじゃろ。じゃったら、みんなが一万円を入れるべきというなら、義捐金の合計は百五十万円になる。そう考えたら、一万円はちょっと多すぎるいう気がせん?」  言われてみれば、そんな気もする。 「でも、みんなが一万円入れるということは有り得ないし、ちょっとくらい多めに入れる人がいたほうがいいんじゃ」 「それじゃったら、ほかの人が少なく入れるぶんを、結果的にうちが多めに負担するということになりゃせんじゃろか」 「まあ、それも一理あるけど……」  母と話しながら、義捐金をめぐって集落のあちこちでこういう会話がされているのかもしれない、美咲はそんなことを想像すると、少しおかしくなって笑いそうになる。 「なんらかの目安みたいなのを、知らせておいてくれればよかったのになあ。例えば、自治会長さんが『自分は三千円を募金します』みたいなことをアナウンスしてれば、それを基準に多いとか少ないとか判断できるから」 「もしそうしとったら、大半の人が右にならえで自治会長さんと同じ金額にしたじゃろね」  美咲も、その場合はそうなっていただろうと思う。ほかの人の動向を観察して、自分の動向を決める。いかにも日本人らしい。家庭が「政治」という営みの最小単位なら、全国にある自治会や町内会というものは、その次に小さい「政治」が行われる集団になるのだろう。そしておそらく国権の最高機関である国会も、似たような原理で意思決定されているに違いない。  日本人にとっては「みんなと同じ」がいちばん快適で、そしてそれが正義なのだ。 「三十年前の義捐金は、いくら入れたの?」美咲は尋ねた。 「じゃから、覚えとらんというのに」  敏子はなぜか不機嫌そうだった。  結局、敏子が封筒に三千円入れ、美咲が一万円入れて、古瀬家からは一万三千円の義捐金が大山田に贈られることになった。  二十九日の午後三時くらいに、東が古瀬家にやってきた。 「封筒、回収に来ました」  東の姿は役員班長会議が開催される集会所でしか見たことがなかったが、陽の光の下で見ると、顔のしわがはっきりと見えるためか、集会所で見るときよりも少し老けて見える。 「あ、はい。ご苦労様です。どうぞ」  美咲は下駄箱の上に置いていた封筒を東に手渡した。 「たしかにお預かりしました。ありがとうございます」芝居をしてるかのように、東は頭を下げた。  そしていそいそと、隣の家の封筒回収に行った。  その日の夕方、自治会長から古瀬家へ電話があり、 「回収した封筒の中身を確認するので、手が空いている役員がいれば自治会長宅に来てくれないだろうか」ということだった。  なぜそんなことをする必要があるのかと、敏子が電話の向こうの自治会長に問うと、 「お金のことじゃけん、一人の人間に全部任せてしもうたら、どうしても『誤魔化したんじゃないか』という疑いが出てくることが防げない。じゃけん、なるべく多くの人が見とる前で封筒の中身を取り出して、合計の金額を数えるのがええと思っております」ということだった。  まあ自治会長の言うとおりだろうと納得して、敏子は夕方から出掛けて行った。  そして、午後七時くらいに帰ってきた。 「合計いくらになったの?」と美咲がさっそく尋ねる。  敏子は手に持っていたメモ用紙を見て、 「全部で三十三万五八九八円。次の回覧板で、『義捐金の合計はいくらでした。ご協力ありがとうございました』という内容を書く必要があるけん、メモしてきた」  ということは、平均すると一戸あたり二千円強ということになる。まあ、それくらいが妥当だという気もする。もちろん大山田の生活をもとに戻すためには足りない金額だが、引っ越しのための資金くらいにはなるだろう。あるいは、焼け残った建物の体躯を解体して、更地に戻すための費用になるのかもしれない。 「やっぱり、ゼロ円の封筒もあったの?」 「うん、あった。もちろん誰の封筒かは、わかりゃせんけど。自治会長と会計の東さんと、あとは広報さんと防犯さんが来とって、みんなで手分けして封筒の中身を出していって、数えていったんじゃけど、ゼロ円の封筒、たぶん私が開けたんのなかでも、三つくらいはあった。でもね、一万円札が十枚も入っとるのあったよ」 「へえ、すごいね」 「中には、一円玉が一枚だけとか、五円玉が一枚だけっていうのもあった。ほんならゼロ円にすりゃええのに」 「それ、もう大山田さんに渡したの?」 「いや、小銭がいっぱいじゃけん、さすがにこのまま渡すと大山田さんが不便じゃろうということで、今晩は会計さんが預かって、明日の朝に信用金庫にいって両替してもろうてから、あらためて住人を代表して自治会長さんから大山田さんに渡すんじゃと。じゃから、大山田さんにはまだなんぼ集まったか、連絡はいっとらんと思う」 「大山田さん、元気になるといいね」美咲は無邪気にそう言った。  しかしその義捐金が大山田の手に渡ることはなかった。  その日の晩、大山田は何者かに殺害された。  大山田の死体は、集会所に敷いた布団のなかにあった。第一発見者は自治会長の五島。  火事があった日以降、大山田は旧友である五島の家に三食の世話をしてもらっていたようだが、「奥さんにも迷惑になる」という理由で旧友である五島の好意を辞退して、公民館前のコンビニで弁当やスーパーの総菜などを買って食べていたという。  息子が帰ってくるまで、そうして集会所で寝泊まりしていた大山田が、なぜ殺されたのか。  死因は失血死。全身に刃物で刺した痕が十か所あまり。死亡推定時刻は十月三十日の未明。  大山田は家が火事に遭うという不幸に続いて、殺されたということになる。火事のほうも放火の疑いが濃厚になっていた。誰かが執拗に大山田を狙って殺害したのは、素人の目にも明らかだった。  警察が最初に被疑者として疑ったのは、なんと五島だった。  集会所の鍵を持っているのは自治会長の五島で、大山田が集会所で寝泊まりするにあたって、鍵は大山田に預けようとしたのだが、「どうせもうわしには盗られるようなものはありゃせん。集会所のなかも別に盗られて困るようなもんはないじゃろ。もし失くしてしもたら困るけん、鍵はそっちで持っといて」ということで、引き続き五島が所持していた。そもそも集会所に施錠する目的は、空き巣が入ることを防止するためではないく、部外者が勝手に侵入するのを防ぐことだった。  殺された日、もし大山田が集会所の出入口を内側から施錠していたとしたら、もっとも侵入しやすかったのは五島ということになる。  第一発見者で、鍵を持っている。警察が疑うにはじゅうぶんな材料だった。  美咲の家にも、前とは違う警察官が聞き込みにきた。もちろん美咲には警察官に告げるべき事実をまったく持っていなかった。  九月に若い男が公園で殺された事件に続いて、住人が放火に遭い、そしてその後に刃物で殺される。  メディアは連続殺人事件として取り上げた。県庁所在地の支局や東京から来たらしいマスコミの人間が、緑ナンバーの高級車ハイヤーで乗り付け、集落の住人にしつこくインタビューを求めた。  大山田の遺体が発見された五日後、再び臨時の役員班長会議が開催されることになった。議題は、「防犯カメラの設置、義捐金の返還、一時的な外出禁止措置」とあらかじめ通告されていた。  しかし殺人事件の現場である集会所は、すでに鑑識作業は終えているものの、入りたがる人は役員にも班長にもいない。自治会長の五島宅のリビングで会議は開催されることになった。  美咲は敏子と出掛け、時間の十分ほど前、五島の家のインターホンを鳴らすと、五島が出てきて、 「ようこそいらっしゃいました。狭いですが、どうぞ」と言った。  五島は少しのあいだに一気に痩せこけて、顔に深いしわが入っていた。旧友である大山田を失った上、警察に疑われたということがショックだったのだろう。玄関の三和土には、無造作に脱がれた靴がいくつも並んでいる。  五島に導かれてリビングに入ると、すでに役員班長のうちの大部分がやってきているようで、同じ方向を向いて、座布団の上に座っている。十畳を超える広いリビングだが、たくさんの人がいるため狭く感じる。本来ならばこの部屋の真ん中に置いてあるらしいテーブルが、足をたたんで壁に立て掛けられていた。  五島の配偶者は会議が終わるまで別室に控えているのか、姿が見えない。  リビングの空気は重く沈んでいた。連続殺人などという、前代未聞の物騒な事件が発生し、しかもまだ犯人が見つかっていないのだから、誰もが腹に重い物を飲み込んだような気分になっている。 「どうぞ」  五島が美咲と敏子に座布団を渡してきたので、敷いて座る。  美咲のすぐ横は酒本が座っており、 「美咲ちゃん、こんばんは」と言った。 「こんばんは。……酒本さんのとこにも、メディアの取材来ましたか?」と美咲は訊いた。 「うん、何社か来た。テレビや新聞だけじゃなくて、週刊誌も来てたみたい。『何か知ってたら連絡ください』って名刺置いてったけど」 「あ、それたぶんうちにも来ました。週刊真相ってところじゃないですか?」 「そう、それ。……でもなんで、テレビ局の人はハイヤーなんかに乗ってくるんだろうね。うちの前にも何台か乗り付けてたけど、ハイヤーなんかここらじゃめったに見ないから、まじまじと眺めてしまった」 「たぶん、タクシーのほうが高くつくからじゃないですか。ハイヤーだと一日いくらの料金設定ですけど、タクシーは待たせてたらいくらでもメーターが上がるから」 「あ、なるほど。……美咲ちゃん、ハイヤーに乗ったことあるの?」 「一度だけ。もちろん自分で呼んだんじゃないですけど。取引先の忘年会に呼ばれて、ハイヤーが迎えにきたことがあったんです」 「そう。さすが都会はすごいわねえ」  インターホンが鳴り、五島が玄関まで迎えに行く。最後にやってきたのは、水上だった。リビングに、班長・役員あわせて十七人が座っているので、ぎゅうぎゅう詰めとまではいかないものの、空間的な余裕はほとんどない。  五島が大型テレビの前の着席して、ほかの人間と向かい合う形になった。 「役員班長の皆様、お集まりいただきありがとうございます。えっと、本日の議題につきまして……」  そこまで五島が言ったところで、 「自治会長、すみません。ちょっと発言させていただいてもよろしいでしょうか」と後ろから声が聞こえてきた。  振り向くと、水上が挙手をしている。 「ええ、どうぞ」 「あの、急で申し訳ないんですが、私たち一家は近いうちに引っ越しする予定なんです」  美咲は思わずもう一度振り返る。水上は険しい表情をしている。 「えー、いきなり言われても、それなら……」 「班長が途中で引っ越した場合、どうなるんでしょう? 引き続き、班長の役目はこっちに戻ってきてやらなければならないんですか?」  自治会長が答えずにぼんやりした表情になっていたが、副会長である鈴木が、 「いえ、その場合はたしか規約で、複数人いる自治副会長のうちの誰かが引き継ぐというということになっていたはずです」と言った。 「そうですか。じゃあ、任期途中で引っ越しても問題ないということですね」 「でも、なんで……。理由くらいは言ったらどうですか?」鈴木が水上を問い詰めるように言う。  いきなり余計な仕事を増やされるかもしれない副会長の鈴木としては、納得できるだけの理由が欲しいのだろう。  水上は部屋中に響くような大きなため息を吐いた。 「えっと、先月に公園で殺人事件があって、そして、今回またあったでしょう。誰とは言いませんが、うちの近所の住人で、私が警察官だからという理由で、しょっちゅう夕方や夜に家にやってきて、『まだ犯人は捕まえられないのか』みたいなことを詰問してくる人がいるんですよ」  理不尽な言いがかりだ。美咲はなぜか、小売店や飲食店で店員に突っかかっている悪質なクレーマーの姿を思い浮かべた。 「そんな……、水上さんには関係ないことでしょう。いったい誰が?」自治会長が言った。  さっき水上を問い詰めるように言った鈴木は、非常にバツの悪そうな表情をしている。 「名前は申し上げませんが、そういうことをやってくる人間は一人ではないということだけは言っておきます。私は交通課だからうちに言われても困ると言ったんですが、それでも納得しないらしくて、『税金泥棒』みたいことを書いた紙をポストに投げ込んできたり……。まあそんな紙を入れてくるくらいでは、具体的な罪に問うことは難しいでしょうから、無視してるんですけど」  水上は座布団の上で正座していた脚を崩してあぐらをかいた。 「事件が解決できないまま二人目の被害者を出してしまったことで、警察に対する不満や不信感を持つ理由は理解できます。私も一人の警察官として、忸怩たる思いを抱いております。でも、私がたまたま事件現場の近所に住んでいたからって、警察に対する不満を私にぶつけられても困るんです」 「でも、引っ越しまですることないでしょう。自治会長の名義で、その住人に注意したいと思います。名前を教えていただけないでしょうか」 「いえ、それだけなら私も耐えられるんですが、うちの息子と娘が小学校でいじめられてるんですよ」 「え、それはいったい……?」 「この学区の小学校は、少子化で一クラスしかないでしょう。だから、子供のあいだでもうわさが広まってるようでして。大翔(はると)萌実(もえみ)の両親はふたりとも警察官だって、みんな知ってるんですよ。おそらく親御さんのなかに、子供の前で『水上の家は警察官のくせに事件を解決できない税金泥棒だ』みたいなことを言ってる人がいるんでしょうよ。うちの子、ふたりとも学校で税金泥棒とか、誰が教えたのか、タックスイーターというあだ名で呼ばれて、いじめられているみたいなんです。昨日から二人とも学校を休ませてます」 「そんな、ひどい。先生に言って、どうにかしてもらえないんですか?」 「先生もうちの子をいじめてるんです」  一同、絶句した。  美咲はそれを聞いて、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。横にいる酒本は苦虫を噛み潰したような表情をしている。おそらくここにいる全ての人がそうなっているだろう。 「さいわい、うちの妻が上司に相談したところ、今の警務課長は自宅から署に通っていて、家族で住める課長用官舎が空いているので、特例で貸していただけることになりました。途中で自治会班長の任務を投げ出すのは申し訳ないんですが、私にとっては子供のほうが大事です」 「そういうことなら、お引き止めはできません。自治会長として責任を感じます」五島が立ち上がって頭を下げた。 「いえ、そんな自治会長さんの責任ではないですよ。頭をお上げになってください」  五島は頭を上げた。 「具体的に、お引っ越しされる日はもう決まっておいででしょうか」 「三日後に業者が来ることになっております」 「そんなに急に」  水上は立ち上がって、腰を折って深くお辞儀をした。 「間もなく住人でなくなる私がこの会議に参加するのは、ふさわしくないことだと思われますので、これにて退出させていただきます。副会長の方にはご迷惑をおかけしますが、どうぞよろしくお願いします。皆さま、お世話になりました」  誰かが、お疲れさまでした、と言ったのに続いて、全員が、お疲れさまでした、と復唱した。  座ったまま、水上の背中を見送った。 「さて、もうひとつ決めなければならないことが出てきました。五班班長の水上さんが抜けることになりました。えっと、副会長の鈴木さんか三田さんどちらかに、五班班長を引き継いでいただくことになりますが、どちらにしましょう」 「それじゃ、私がやります」と鈴木が挙手した。 「かまいませんか?」 「ええ、私は隣の四班ですけん、近いですし」 「それではお願いします。……では、これからあらかじめ皆さまにお知らせしていた議題について述べさせていただきます」  ようやく役員班長会議の本題に入った。  五島がすぐ近くに座っている東と、「どの議題からにしましょう」や「では私の件から」などと小声で相談している。  そして間もなく東が立ち上がって、こちらを向いた。 「皆さん、こんばんは。会計の東です。私のほうから、義捐金の返還に関して説明させていただきます」  ほかのふたつの議題に関しては、だいたい内容の想像は付くが、義捐金の返還とはいったい何なのだろうか。先に集めた義捐金に関することは間違いないはずだが。 「実は、数人の住人の皆さんから、『大山田さんが亡くなったが、義捐金はどうなるのだ』という問い合わせが私のほうがありました。私は当然、遺族である大山田さんのご子息にお渡しすべきと思っておりました。ちなみに、ご子息は日本にはすでに到着しているものの、今は感染症予防のために政府の指定するホテルに隔離されているため、こちらに来るのは来週以降になる予定のようです。しかし、住人の方から、『義捐金は火事の被害を受けた大山田さんの生活の再建のために拠出したもので、大山田さんのご子息に渡すためではない、大山田さんの息子さんはこちらの集落で育ったものの、すでにここの住人ではないので、集めた義捐金はいったん返還するべきではないか』という意見がございました。これにつきまして、どうするべきか皆さまと話し合って決したいと考えておる所存でございます」 「ちなみに私のほうにも何人か、義捐金はどうなるのか、と尋ねてくる人がありました」と五島が言った。  大山田の息子は育った実家と父をほぼ同時に失うという不幸に遭ったので、大山田の息子に義捐金を渡しても問題ないのではないか、美咲はそう思う一方、大山田の息子はここの住人ではない、というのは紛れもない事実ではある。大山田の生活再建という名目で集めた義捐金だが、残念ながらもはや大山田には再建すべき生活がない。義捐金の大義名分を失ったからには返還すべきだという意見も、一理あるかもしれない。一回出したお金を返せというのは少し意地汚い、という率直な気持ちはぬぐえないものの。 「全員に返還する必要はないんじゃないでしょうか。私は別に、大山田さんの息子さんが受け取っても問題ないと思います」八班の福井が言った。 「私もそう思っていたところです。希望者だけに返還したのでかまわないと」東が答える。 「でも、返還するって言っても、できるんですか?」珍しく敏子が発言する。 「そこが頭の痛いところなんです。義捐金は皆さんご存知のとおり、匿名性が保てるよう配慮して集めたので、誰がいくらの拠出をしたのか、把握している人はひとりもいません。どういう方法で、誰にいくら返還すべきか、皆目見当がつかないんです」 「義捐金って、合計いくらでしたっけ?」広報担当の島本が問う。 「約三十三万六千円です。平均すると、一戸あたり二千円ちょっとというところです」 「まさか、平均額である約二千円を全戸に返すということはいかんでしょうなあ」五島が言った。 「いちおう現在の私の腹案では、希望者は会計である私のところに直接やってきて、『うちはいくらの義捐金を出したから、返還を求める』と言ってきてもらうしかないと思ってます。それで、言い値で返還する、と」 「まあ、そうするしかないじゃろうなあ」と島本が言う。  皆、その案で納得しているようだった。このままでは、それが通ってしまうだろう。  正式な役員は母の敏子で、美咲は役員ではないので会議中の発言は控えるようにしていたのだが、 「でも、それって性善説を前提にしたやり方ですよね。わざと多めに言う人が出てきたら、どうしようもないんじゃないですか?」と口を挟んだ。 「その通りですが、住人の方を信頼してそうするよりほかはないと思います。まあ、一人や二人は誤魔化してくる人もおるじゃろうけど、それは仕方ないと諦めることにしませんか」  美咲はいまいち納得していなかったが、これ以上出しゃばるのはよくないと首を縦に振った。 「では、返金をしたい人は期日までに東さん宅へ直接申し出るように、ということにしたいと思いますが、それでよろしいでしょうか。期日の設定は東さんに一任ということで」自治会長が言う。  異議なし、と多数の声が言った。 「では、次に防犯カメラの設置について議論したいと思います。これは一斑班長の佐伯さんからの動議なので、佐伯さんに説明いただきたいと思います。お願いします」  佐伯が起立して、軽く頭を下げた。 「一斑の佐伯です。お願いします。前にも少し言いましたけど、私は十二年前に防犯担当の役員をやったんです。そのときに、集落内の主要な交差点に防犯カメラを設置してはどうか、ということを議論したことがあったんです。で、今回まことに不幸なことですが、集落内で殺人事件が続けて発生することになりました。だから、もう一度、防犯カメラの是非を議論してもいいのではないか、と思いまして、動議を出させていただきました」 「でも、そう簡単に設置できるもんでもないでしょう。素人がひょいと付けられるものではないし」美咲の背後で誰かが言った。 「ええ。そのとき、具体的に業者に見積もりをしてもらっていたんです。結局、値段が高いということで、役員班長会議では議論が打ち切りになったんですけど」 「そのとき、防犯カメラを装着していたら、今回の事件はなかったかもしれんね。少なくとも、二件目は防げたと思う」芝山が言った。 「まあ、過ぎたことは言うてもしゃあないでしょう」鈴木が言った。 「で、そのときの見積もりの内容は? もちろん、今とは値段が少し変わってるでしょうが」五島が問う。 「はい。防犯カメラの設置と管理を警備会社と契約して全部任せてしまうのでしたら、年間約三十万円でした。防犯カメラの設置だけお願いして、録画の機器をこちらで管理するというのなら、最初のコストが五十万円ほどかかるんですが、それ以降はカメラと録画機器の電気代だけの負担ですむことになっていました」  前者の案だと、自治会費が各戸二千円くらいの負担増となるだろう。後者だと最初に各戸三千円あまりを負担することになり、電気代がどれくらいかはわからないが、合計で年間数万円、一戸あたりにすると数百円だろうか。 「いずれにしても、大きなお金を支出することになりますから、役員班長会議で議決できる範囲を超えとるでしょうな。住民総会が必要でしょう」五島が言った。 「どう考えても警備会社に全部任せるのは、有り得んのじゃないでしょうか。そんな自治会費の値上げ、受け入れる人はおるじゃろうか」と副会長の鈴木。  場の中の誰もが、カメラを設置して自治会で管理するという案のほうを選んでいる。そんな雰囲気に満ちた。  しかし、福井がそれに水を差すように、 「仮に録画機器を集会所に置いて役員が管理するとして、プライバシーはどうなるんでしょう。防犯カメラに映ってしまう家庭は、二十四時間監視されているということになります」と言った。 「プライバシーなんか、どうでもええじゃろが!」東が福井を叱りつけるように言う。  その剣幕に、一同怯んでしまったが、 「どうでもいいことはないでしょう。日々の行動を見られたくない人には、見られない権利があるはずです」福井は冷静だった。 「ふたり、殺されとるんじゃぞ。プライバシーちゅうんは、命より大事なんか?」 「しかし、そう簡単に権利を制限していいはずがありません。それに、住人全部が同じように負担をするというならともかく、交差点に防犯カメラを設置ということだと、交差点付近の住人に負担が偏ってしまいます。公平性の観点からも問題だと考えます」 「いっちょ前のこと言うな、小娘が! 公共の福祉のためなら人権を制限してもええと、憲法にも書いとるじゃろが!」東が怒鳴った。 「私権の制限をするには、あくまでも正当な補償を条件とします」 「それじゃあお前さんは、プライバシーちゅうのを守るのを優先して、人殺しが続いてもしゃあないっちゅうんか」 「さっきからそう申し上げてます。人権を尊重するためのコストでしょう」 「なんちゅう無責任な女じゃ。親の顔が見てみたいわい。命あってこその人権じゃろうが」東はさらに声を大きして、吐き捨てるように言った。  東はさらに続ける。 「だいたい、防犯カメラみたいなもんは、国か市役所がカネを出して設置するべきもんなんじゃ。カメラを設置して困るんは、犯罪者だけじゃろ。なんでそんなやつらのために真面目に生活しとるわしらが危険を引き受けないかんのじゃ。……実は、お前が犯人と違うんか? 公園で死んどった男も大山田さんも、お前が殺したんじゃろが! じゃからプライバシーとかなんとか小賢しいこと言うて、煙に巻こうとしとるんじゃろ、この人殺しが」  福井が何かを言いかけたが、五島が仲裁するように両手を振った。 「お二人とも、落ち着いてください。東さん、さっきから言葉が過ぎます。……こういうふうに、意見が対立してしまうから、住民総会で議論をした上で多数決で決めるしかないんです。この件は住民総会で諮って決定するということにしましょう。両者とも、それでええですか?」  福井は小さくうなずいて、 「仕方ないですね」と小声で言った。 「ちょっといいですか」と副会長の三田が挙手をした。 「どうぞ」 「みなさんのうちの大方が、案は違うもののカメラを設置するという方向で話をしておるようですが、設置しないという選択肢もあるんじゃないですか。福井さんとは違う理由じゃけど……」  一同が一斉に三田のほうを見る。 「ふたつの案のうち、どっちにしても自治会費が増えることには違いないんでしょう。お恥ずかしい話、うちは年金暮らしで、ギリギリの生活しとるんです。年金が支給される二か月ごとに、膠原病の嫁とよう生き延びたと言い合っとるような状況です。百円でも、上げてほしゅうない」  第二新光集落に限らず、日本中どこも高齢化が進んでいる。まずしい年金暮らしをしている老人だけの世帯は、三田宅に限らず少なくないはずだ。いっそのこと生活保護世帯になってしまえば、医療費が無料になるので生活はむしろ楽になるのだろうが、そう簡単に役所が受け入れるはずがない。  三田は続けた。 「そりゃあ、殺されるんはイヤじゃ。安全に安心に生活できたほうがええに決まっとります。でももう私らは年寄りじゃし、これから生きとっても、たいしてええことがあるとも思えん。殺人犯がやってきたら、それが運命じゃったと受け入れるつもりでおります。大山田さんが殺されたと聞いてから、嫁とそういう話をしとったとこなんです」  誰かがため息を吐いた。 「わかりました。防犯カメラを設置するか否か、そして、設置するとしてどの案を取るか、という形で、住民総会の決を取ることになると思います。いずれにせよ、業者への再見積もりも依頼しなければいけないし、それから臨時の住民総会開催となると、最低でも二か月はかかります。もちろん、コストは最小になるよう最大限の努力をします」五島が言った。 「そうですか……、お願いします」三田が言った。 「で、三つめの議題ですが……」  三つめは、一時的な外出禁止措置となっていた。文字通りの内容だろう。 「複数の住人の方から、これ以上の殺人事件発生を防ぐために、夜間の戸外への外出を制限してはどうか、という提案がありました。事件は二件とも、放火を含めれば三件ですが、夜から朝にかけて発生しています。ですので、戸締りをしっかりした上で、不要不急の外出は自粛いただくよう、要請しようと思っております」 「具体的に、何時から何時までですか?」衛生担当の玉木が問う。 「午後七時から翌朝六時くらいまでが目安になると思います」  誰かが、いい案だ、と言った。 「でも、仕事から帰るのが七時以降になったり、朝五時から出勤する人もいるでしょう。私もですが」島本が言った。 「もちろん仕事や、やむを得ない事情で外出することを禁止するものではありません。あくまでも、不要不急の場合です」 「不要不急とは、どういうものですか?」福井が問う。 「たとえば、犬の散歩とか、緊急でない買い物とかになると思います。つまりそれらは、午後七時までに済ませておくか、朝六時を待ってから行くように、と」  美咲はそれを聞きながら、仮にそうなっても自分にはそれほど影響はないだろうと判断した。もちろん不便になるには違いないが、出掛けるのはタバコや食料を買いにコンビニに行くくらいだから、きちんとタバコをカートン買いしておけば、それほど問題ない。カートンで買ってしまうと、タバコが切れる心配から解放されて吸い過ぎてしまうのが難点ではあるが。  福井が、 「そんなこと、自治会が規制できるんでしょうか。移動の自由は大事な人権じゃありませんか」と言った。  それを聞いた東が鼻先で笑いながら、 「また人権か。お前さん、人権が好きじゃの。人権さんとこに嫁に行ったらどうじゃ」嫌味っぽく言った。  福井はもはや相手にしていないというふうで、涼しい顔をしている。  五島が、 「あくまでも、住人の皆さんに対するお願いです。もちろん、強制力はありません。住人の皆さんの自主的なご協力により、外出を控えてもらうというものです」と言った。 「強制力がないなら、何の実効性もないんじゃないですか?」 「いちおう、役員で二人組の交代で見回って、外出してる人がいたら帰宅を促す、というふうにしようかと、防犯担当の佐藤さんとお話をしておりました」 「え、私たちが見回りするんですか?」鈴木が言う。 「はい、そうする予定です」 「そんくらいしたほうがええじゃろ。人殺しを防ぐためじゃ」東が言う。  美咲はとなりにいる敏子の顔を見た。やはり、めんどくさそうな表情をしている。夜間の見回りなど、やりたい人はいないだろう。  ほかの役員も難しい表情をしているが、班長のほうは特に感情を表していない。 「ちょっと、待ってください!」三班班長の金田一基の大きな声だった。 「なんでしょうか?」 「午後七時以降、この集落内では外出してはいけないということになるんですか?」 「ええ、そういうことです」 「困ります。皆さんご存知のとおり、うちは居酒屋を経営しとります。お客さんの半分以上は、集落のなかの住人さんです。午後七時と言えば、ようやく仕事が始まったところです。それは、うちに仕事をするなと言うとるのと、同じじゃないですか」  金田一基のすぐ横に座っている未亡人の金田恵子は、一基の親戚ということで、班は違うもののすぐそばに住んでいる。美咲は酒を外で呑む習慣がないので、金田の居酒屋に行ったことは一度もないが、金田一基夫妻と金田恵子の三人で、店を切り盛りしているということだった。 「それは……、まあご協力いただくしかないと思います」 「冗談じゃない、なんでそんなもんに協力せにゃいかんのですか。わしらに飢え死にしろと言いよるんと同じじゃないですか」 「自治会としては自粛を推奨するだけ、実際に自粛するかどうかは各住人の判断にお任せしますので……」 「見回りまでするんじゃ、実質的に強制するんと変わらんじゃないですか」  そのとき、美咲のすぐ横に座っていた酒本がその場に立ち上がった。  そして、金田一基を指さして、絶叫する。 「あなた、甘えたこと言うんじゃないよ!」  美咲は普段の酒本の態度とあまりに違うために、あっけにとられてしまった。 「あなたも商売人でしょう。良いときもあれば、悪いときもある。当たり前じゃない。悪い波がきたときのために備えておくのは常識。その備えができてなかったってことは、自己責任じゃない。泣き言を言うなら、商売人の資格はないわ」 「殺人事件が起こったっちゅうのは、わしの自己責任ですか?」 「当たり前でしょう。起こったことにはすべて結果に責任を負うってのが、リスクを取ってお金を稼ぐってことでしょう。私だって、借金して自宅をリフォームして店やってるのよ。いざとなったら飢え死にするくらいの覚悟がないなら、おとなしくコンビニでバイトでもしてなさいよ」 「おたくの商売は七時に閉めても何も影響ないじゃないか。安全なところにおるから、こっちに石を投げれるんじゃ。勝手なこと言うな」 「ちょっと、二人とも、不規則発言は控えてください」五島が言った。  酒本が興奮し切った表情のまま、座布団の上に座る。 「金田さんのご懸念はじゅうぶんわかりますが、ここはひとつ、お持ち帰りのメニューとかを充実させるなどの工夫をしてもらって、なんとか凌いでもらえんじゃろうか。犯人が捕まるまでの、一時的なことじゃけん」  金田一基は憮然とした表情で何も答えない。 「それでは、住人に対する夜間の外出自粛の要請と、役員による見回りについて決を取りたいと思います。賛成の方は挙手をお願いします」五島が声を張った。  ゆっくりといくつか手が挙がり、そしてパラパラと続いていく。  役員のなかでは、五島と東と佐藤が挙手をした。班長は自らは負担がないためか、福井を除く全員が挙手をしている。 「賛成多数となりました。本日の役員班長会議はこれにて散会といたします。役員の皆さまには、夜間見回りの割り振りなどを決めたいと思いますので、引き続きお残りください。ありがとうございました」五島が言った。  酒本も含め、班長の面々が立ち上がって退出していく。五島宅のリビングが一気に広くなった。  美咲は、混乱しながらも終わったばかりの役員班長会議を振り返りながら、臨時回覧板の文書に書くべき内容を頭の中で考えていた。
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