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 美咲は覆面パトカーの後部座席に乗っている。  午後から降り始めた雨は、霧雨と言っていいほどの弱いものだが、強い風にあおられて車のガラスにアレルギー反応を起こした皮膚のような水滴を付けていく。  覆面パトカーの運転席には、以前にコンビニの駐車場で会った川本警部がおり、美咲の隣には制服を着た体格のいい男の警察官が座っている。その警察官は、おそらく五十代くらいで、頭髪の側部には短い白髪が針のように混ざっている。 「今日中に、帰れるんですよね?」美咲は運転している川本に問うた。 「ええ、もちろん。お手数おかけしまして申し訳ございません」川本が低い声で答える。  窓の外を流れる景色を眺めながら、ここ数日のうちに起こった出来事を思い返した。  集落内でさらに人が死んだことに対して、美咲は違和感を持たなかった。そんな予感がしていた。  美容院経営の酒本の遺体が発見されたのは、雄一郎に会った日の翌々日だった。  夕方、出先から帰ってきた酒本の父母が、血まみれになって美容院の椅子にもたれかかっている酒本の姿を発見した。腹部や頭部を合計十五か所刺されており、美容院の床は血の海状態になっていた。  すぐに救急と警察に通報し、間もなくパトカーと救急車がやってきたのだが、酒本がすでに息絶えていることは誰の目にも明らかだった。  美容院の隣家に住む主婦が、午後四時くらいに言い争う女の声を聞いたと証言した。  第二新光集落で、三件目の殺人事件となる。二件目の大山田の殺人はすにで解決済みだが、一件目の公園での殺人事件は未だに解決していない。  住人の懸念にも関わらず、犯行の翌日にあっさりと酒本殺害の容疑者は逮捕された。  犯人は、自治会三班班長の金田恵子、六十歳だった。酒本の美容院から道路に続く足跡が、わずかに血痕を伴って残っており、それが早期に犯人逮捕の決め手となった。 「私たちの生きる手段を奪われたのが許せなかった」金田恵子は動機をそう語った。  金田恵子の証言するとおり、金田一基の店に警察が捜索に入ると、金田夫婦が首を吊った姿で発見された。  事件当日、金田恵子は金田一基と連絡が取れないことを不思議に思い、店舗兼住居に行ってみると、 「店の営業を停止しては生きていけません。住人の皆さんにご迷惑をおかけしました」という内容の遺書を発見した。  衝動的な怒りに駆られて、役員班長会議で強烈に外出自粛を唱えていた酒本を殺害を決意したという。  春先より金田一基の居酒屋は急激に売り上げを減らしており、仕入れ先への支払いや銀行借入金の返済を滞らせていたが、近隣住人による店の営業に対する圧力を受けて閉店を余儀なくされたことが、金田夫妻の心中を決定的にしたようだった。  しかし、警察の取り調べが進むにつれ、金田恵子はさらに別件の犯罪を自白した。  自白した内容に従って、金田恵子に家の庭を掘り起こしたところ、白骨化した遺体が発見された。  いったい、これは何なのか。  殺人事件が相次ぎ、居酒屋経営をする夫妻が自殺し、さらに殺人犯の庭から身元不明の遺体が発見されたという事件が、世間の耳目を集めないはずがない。集落内には、週刊誌の記者らしい人間が頻繁にやってくるようになり、美咲の家にも何社か取材にやってきた。 「死屍累々、呪いの住宅街」  あるゴシップ週刊誌は、第二新光集落をそう表現し、誰も聞いたことがないようなこの近辺に伝わるという説話を紹介していた。  緊急の役員班長会議が開かれ、これ以上の被害拡大を防止するために、夜間の外出自粛要請だけなく、職場への移動と日用品の買い物、そして緊急時のやむを得ない場合を除いて外出を全面的に禁止する、そして役員の見回りを強化するという案が出された。同時に、住人はテレビや週刊誌などのメディアの取材を受けることは禁止する、という案も出された。  両案とも、八班班長福井以外の全員の賛成により、可決された。  警察署に到着し、美咲が覆面パトカーを下りると、川本も運転席から出てきた。そして、 「あっちに停めといて」と後部座席に乗っていた男性警察官に指示を出した。  雨はまだ降っている。頬に水滴が当たって弾ける。風はさらに強くなったようだ。 「こちらにいらしてください」  そう言って警察署の入り口に向かう川本の後を、美咲は付いて行った。  警察署に入ると、すぐ正面がエレベーターになっており、川本はボタンを押してその扉を開けた。  狭いエレベーターのなかに入ると、 「刑事課は四階になってますので」と言った。  警察署の刑事課など、一度も行ったことがない。さすがに緊張する。エレベーターのボタンのすぐ横に、各階の案内表示のような小さなプレートがあり、 一階 交通課 二階 警務課・署長室 三階 警備課・講堂 四階 刑事課 五階 生安課・武道場  と書いてある。  警察署だから、きっとこの建物のなかのどこかに留置所がある。美咲はなぜか留置所は地下室にあるという勝手なイメージがあったので、警察署に地下階がないことを少し不思議に思った。 「あの、逮捕された𠮷岡さんや金田さんは、こっちの牢屋にいるんですか?」美咲は川本にたずねた。  川本は少しのあいだ考えるようなしぐさをして、 「いえ、もう両被疑者とも送検してますので、ここには居ません。移送されてなければ、今は市内の拘置支所にいるんじゃないでしょうか。拘置所の支所ですね」と答えた。  拘置所と刑務所が県庁所在地のはずれにあるのは知っていたが、市内にその支所があることは知らなかった。  エレベーターが四階に到着し、扉が左右に開く。  目の前は広い空間になっており、ふつうの事務机がいくつも並んでいる。一見するとふつうのオフィスのようだが、天井から「刑事二係」や「組織犯罪対策係」というあまり見ない単語の看板がぶら下がっている。  人は少なく、特に「強行班係」という看板の下には、ひとりも人がいなかった。  エレベーターから右に曲がり、細く伸びた廊下を、川本に着いて歩き、「応接室」という表示の出ている扉の前までやってきた。  そのとき、背後から、 「川本警部」という男の声が聞こえてきた。  三十代のスーツを着た男が、こちらに駆け寄ってくる。  そして、男は「ちょっと……」と言いながら川本の耳に顔を寄せ、小声で何かを言った。 「それ、本当?」聞いた川本が顔色を変えた。 「はい。間違いないです。とにかく至急、捜査本部まで来てください」  川本が肯くと、男は美咲の姿をちらりと見ただけで、去って行った。  川本が応接室の扉が開けて、中に美咲を導く。  そして、 「すみません。たいへん恐縮ですが、なるべく早く帰ってくるので少しお待ちください」  美咲を部屋にひとり残し、やや乱暴に扉が閉じられた。  何かが起こったらしい。  どうすることもできないので、美咲は黒い革製のソファに座った。  磨りガラスの窓の外から、細かい雨が斜めに振り付けている。応接室とはいうものの、四畳くらいの狭い空間に、ソファと安っぽい木製のテーブルがあるだけで、絵画や花瓶など部屋を飾るものは一切ない。まるでドラマで見る取調室のようだった。  部屋に灰皿はないので、禁煙なのだろう。タバコとライターをポケットに突っ込んで持ってきてはいるものの、吸えるのはしばらく先になりそうだ。  美咲はスマホを取り出して、ブラウザを起動させた。  十五分ほど経過して、ようやく川本が応接室に戻ってきた。  扉を開けて、美咲を見下す格好になった川本は、なぜか少し苛立っているように見えた。川本の後ろには、五十代くらいの男が立っている。  二人は部屋に入ってきた。 「申し訳ございません、お待たせしました。でも本題に入る前に、古瀬さんにはお知らせしておくべきだと思います」 「なんですか」  川本は美咲の真正面に座った。 「第二新光集落の公園で亡くなっていた方の死因が、自殺であることがほぼ確定しました」  とっさのことなので、一切が理解できない。  自殺……? 殺人事件の被害者が、自殺などするはずがない。川本は何を言っているのだろう。 「それは……、どういうことですか?」 「公園で亡くなられていた方は、京都で一人暮らしをしていた二十一歳の大学生だそうです。滋賀に住むご両親が、息子と連絡取れないことを不審に思い、一週間ほど前にアパートを訪ねたところ、遺書があった、と。『少し旅に出て、その後どこかで死にます』というようなことが書いてあったそうです。行方不明人の捜索として、こちらにも顔写真が回ってきたんですが、その写真が公園で発見された遺体に似ていたため、ご家族にこちらで見つかった遺体の写真を送って確認していただきました。胸と首筋に特徴的なホクロがあったため、こちらで発見された遺体はその方でほぼ間違いないようです」 「遺書があったって、どういうことですか? わかりません。なんでそんなことになるんですか?」 「つまり、殺人の被害者ではなく、ただの自殺だったようです」  ようやく、公園で発見されたその京都の大学生の死体を、殺人の被害者として警察が誤認していたのだということ、脳がじわじわと理解していく。 「そんな、今さら……。おかしくないですか。警察は、自殺か他殺かの区別もできないんですか?」しぜんと責めるような強い口調になった。 「当日の未明は雨だったため、通常は発見される犯人の下足痕なども見つかりませんでしたし、ご遺体にも自殺の場合には多く残るためらい傷が首にも腹にも残っておらず、傷も自殺ではありえないくらい深いものだったので、殺人の可能性が高いという検死結果が出たのです。そうである以上、こちらとしては殺人を前提として捜査するのが妥当と判断しました」  まるで全身の骨が一気に液状化したように、脱力する。 「それじゃ、公園の殺人事件なんて、最初から存在しなかったということなんですか?」 「そういうことになります」  いったい、これは何の騒ぎだったのだろう。  全てが無駄だった。全てが徒労だった。  集落全体が、見ず知らずの若い男の自殺に振り回され、存在しない殺人犯の影におびえて、住人どうしが警戒し合い、疑い合い、侵害し合い、そして殺し合いさえした。人間とは、なんと愚かな存在なのだろう。大げさだが、そんなことさえ思ってしまう。  そして、このようなことになったのは、回覧板で必要のない注意喚起を煽る文書を作成した自分にも、責任の一端がある。  腹の底から酸っぱい液が、喉元までせり上がってくる。 「何にせよ、殺人事件でなかったと判明したことは、社会にとっては良いことです」川本が言った。  その通りなのだろう。  しかし、それが判明するまでに払った無駄な犠牲が、あまりに大きすぎる。こんな事態を引き起こすことになった憎むべき人殺しが居てくれていたほうが、まだ救われた気持ちになれたのではないだろうか。 「それでは、すぐに済みますので、ご協力をお願いします」  川本がそう言うと、一緒に部屋に入ってきた男が、プラスチックのケースを開けた。そして、プラスチック製の細長い棒状のものを取り出した。その棒の先の、ボールペンのキャップのような蓋を取り、男はそれを美咲に差し出してきた。  美咲はそれを受け取った。綿棒が付いている。 「これで、頬っぺたの内側を何回か擦ってください」  言われたとおりにする。三十秒ほど、口のなかで綿棒を往復させたところで、 「もう大丈夫です。ありがとうございます」  男がそう言ったので、美咲は綿棒を口から出して男に手渡した。 「どうも、ありがとうございます。ご自宅までお送りします」  川本がそう言って、美咲に立つよう促した。美咲はそれに抗って、 「あの、結果って何日くらいでわかるんですか?」と尋ねた。 「何日もはかかりません。たぶん、四時間くらい?」  川本が男に顔を向けると、男は小さくうなずいた。  スマホの時計を見てみると、まだ午後一時を過ぎたところだった。 「それじゃ、ここで待たせてもらえませんか」美咲は訴えた。 「ここで?」川本は意外そうな顔をする。 「はい。私、少しでも早く結果が知りたいんです。ご迷惑じゃなければ、待たせてください」 「それはかまいませんけど……。それじゃ、一階の運転免許更新の待合室にいらっしゃったらどうでしょうか。あそこなら、暇つぶし用の雑誌や書籍などもありますし。交通課のほうには、私のほうから連絡しておきます」  川本に案内されてやってきた交通課の待合室は、壁に囲まれてはいるものの出入口にドアの付いていない空間になっている。四人ほど座れる横長の椅子が六つ並んでいて、出入口すぐそばの木製マガジンラックにはファッション雑誌や月刊誌、今日付けの地方新聞と交通安全啓蒙のための小冊子などがある。子供連れで免許更新にきた人のためか、パトカーや白バイなどの小さな模型も、マガジンラックのそばに置いてあった。  美咲は小難しいことが書いてある月刊誌を手に取って、椅子に座った。月刊誌の目次を見ると、新型ウイルスに対処できない政府を糾弾するような見出しが、びっしりと並んでいる。  待合室は平日の昼間なのに、人の出入りが頻繁にある。そのほとんどは高齢者と言っていい年齢の人たちだった。部屋に入ってくる人は、みんな手にラミネート加工されたハガキほどの大きさの番号札を持っており、椅子の前の大型ディスプレイにその番号が表示されれば、更新の次の手続きに移行するようになっているらしかった。  聞き耳を立てていたわけではないが、外から「免許返納の手続きはどこですか?」という、ゆっくりとした老人の声が聞こえてきた。  三時間半が経過した。喫煙所がどこにあるのかわからないので、その間、三度外にタバコを吸いにいった。  待合室の新聞や雑誌はすでに読み尽くしてしまったので、子供向けの「こうつうあんぜんのために」という絵本を開いてみた。  お巡りさんの格好をした人と、犬や猫やライオンのキャラクターが描いてあり、「しんごうのみかた」と書いてある。その次のページをめくってみると、「おうだんほどうのわたりかた」となっていた。  何をしているというわけではないが、ずいぶんと疲労を感じる。やはりいったん家に帰ったほうが良かったのではないか、と少し後悔したが、今さら帰るので家まで送ってくれとは言えない。  ぼんやりと絵本を眺めていると、美咲のすぐ横に誰か座り、 「こんにちは」そう声をかけてきた。  ほかの席も空いているのに、なぜわざわざ横に座るのだろうか。美咲は顔を上げて、横を見る。  その若い女が、第二新光集落八班班長の福井優里亜であると気づくまで、数秒を要した。もちろん何度も役員班長会議で顔を合わせているのだが、美咲は福井についてほとんど何も知らない。喋ったことも、おそらく皆無だろう。住んでいる区画についてはだいたいの場所はわかるが、どんな世帯で誰と住んでいるのか。まさか若い女がこんな地方の一戸建てに一人暮らしということはないとは思うが。 「古瀬さんも、免許の更新ですか?」福井が言った。 「いえ、ちょっとほかのところに用事があって……」 「そうですか」  福井はそう言っただけで、それ以上は訊いてこなかった。  そういえば、免許の期限が切れるのはいつだったか。ペーパードライバーの美咲は、ゴールドの免許証を身分証面書として使うばかりなので、ふだんまったく意識しない。今年かもしれないし、来年かもしれない。  美咲の誕生日は来月。期限が今年だったら、住民票は東京に置いたままにしているので、交通安全協会から免許更新のお知らせは東京のアパートに届いているはず。とにかく、遠からず一度東京に帰らなければならないだろう。  美咲は福井の姿を、初めて近くでまじまじと見た。少女のような若々しさと湛えていながら、細面の顔は美人の要素も強く持っている。ショートカットの黒髪は一度も染めたことがないように、深く黒い。真っ白な肌はきめ細かく、頬や目尻にしみもしわも一切ない。まるでフランス人形と日本人形のいいところだけを合わせたようだ。  福井は横長の財布を手に持ち、一緒に㊺と書かれた札を持っている。 「あの、福井さん。実は……」  告げるべきかどうか迷ったが、当然福井も遠からず知ることになるだろう。そう思って美咲は、公園で見つかった遺体が、実は殺人事件ではなく自殺だったということを、福井に説明した。言いながら、美咲は何度もため息を吐きそうになった。 「そうだったんですね」  聞き終わった福井は、たいして興味もなさげな様子で、そう言ったきりだった。  その反応があまりに自分と対照的だったため、美咲は唖然としてしまった。集落内で無駄に人が死んだというのに、たったそれだけなのか。  福井は役員班長会議で、防犯カメラの設置や外出自粛要請について、異議を申し立て、一貫して反対していた。あのとき、福井がもう少し外出自粛要請に強く反対していれば、居酒屋経営の金田夫妻や、酒本は死なずに済んだかもしれないのに。自分もその会議の場にいたにも関わらず、美咲は都合よくそんなことを思う。 「福井さんは、少し前の役員班長会議で、自治会は不要じゃないかというようなことを言ってましたよね? あれはいったい、どういう意図だったんですか?」美咲は尋ねた。  現に役員や班長の務めを果たしている年輩者を前に、よくも堂々とあんなことを言えたもんだとあのときは思ったが、美咲も今となっては同じことを思う。 「そもそも、統治は可能だったんでしょうか」福井は真っ直ぐ前を向いたまま、そう言った。 「トウチ?」  予期しない答えが帰ってきたため、美咲は少し混乱する。 「()べる、(おさ)めると書いて統治です。英語で言うと、ガバナンス」  ようやく頭のなかで、「トウチ」を漢字に変換できた。  統治。ふだん使うことのない単語。それは強烈に権力のにおいを帯びていて、危険な印象を人に与える。 「今年の四月から、班長になって会議に出席してましたけど、それでずっと思っていたのが、この自治会は紛い物だ、ということです」 「紛い物……、それ、どういうことですか?」 「自治会っていうのは、集落のなかでの出来事を、住人で運用していくという営みなんでしょう。だから、役員や班長を選んで、重要なことは全員参加の総会で話し合って決める、という」 「ええ、そうだと思います」 「そもそも、住人のなかに地域を良くしたいと思っている人が、どれくらい居るんでしょう。良くするために何かを決めて、その意思決定に参加したいと思ってる人が、一人でもいるんでしょうか。自治会なんて、ただ単に面倒ごとを押し付け合う場じゃないですか」  年に一度のくじ引きで、役員や班長に選ばれれば誰もが残念な思いをする。今の役員も、事故にでも遭ったと諦めて、しぶしぶ役目を果たしているに過ぎない。  福井は続けた。 「自分たちのことは自分たちで決める。人民が自分たちで自分たちを支配する。非常に素晴らしいものです。でも、民主的な枠組みだけを作って多数決で物事を決めても、それは実現しません。人民に、統治する者としての覚悟と、統治される者としての責任がなければ、意思決定の場は、負担の押し付け合いと、利権の分配と、権利の侵害と、責任逃れと、見栄の張り合いと、そして足の引っ張り合いに終始することになるでしょう。『自粛を要請』などという、たった五文字で矛盾するグロテスクな日本語を何の疑問も覚えず発する人間に、権力を正しく使うことは不可能です。そんなの、単なる民主政治ごっこじゃないですか。間違った道を正しく歩み、そして必然としてこのような悲劇が起こったんです。違いますか?」  目の前の大型ディスプレイが、玄関チャイムのような効果音と共に㊺の番号を表示させた。と同時に、「四十五番の札をお持ちの方、写真撮影室にお越しください」というアナウンスが流れる。  福井は立ち上がった。 「それでは、またお会いしましょう」  その場に美咲を置き去りにして、福井は交通課の奥にある写真撮影室に向かう。美咲はその背中を見送ることしかできなかった。  自治会に限らない。複数の人が集って集団ができあがれば、誰かが何かを決めなければならない。そして現に、誰かが何かを決めている。その誰かとは、いったい誰なのか。得体の知れない魔物に、私たちは支配されている。  目線を手元の絵本に落とし、しばらくすると、人が近づいてくる気配があった。 「古瀬さん、お待たせしました。刑事課までお越し願います」  川本警部だった。  美咲は立ち上がって、川本の後を着いて行く。エレベーターに入り、川本が四階のボタンを押した。 「あの、結果出たんですよね? どうだったんですか」  美咲がそう尋ねると、川本は一度息を飲んだ。 「DNA鑑定の結果、金田恵子宅の庭から発見された遺体は、あなたのお父様、古瀬光俊さんのもので間違いありません」  覆面パトカーに乗せられて帰宅し、リビングに入ると、敏子は台所にいた。リビングの明かりは点いておらず、台所の蛍光灯が食器棚のガラスを隔ててこちらに届く。  敏子が金属製のザルのなかでコメを研いでいる音が聞こえる。 「ただいま」  美咲がそう言っても、敏子は返事をしなかった。ただコメを研ぐ音だけが響き続ける。  やがて敏子は、コメをザルから釜に移して炊飯器をセットした。  そして振り返り、美咲の目を見て、 「おかえり」と言った。 「金田さんの庭から出てきた骨、お父さんのだったって」美咲は力なく言った。  自分で発した「お父さん」という単語が、空疎に感じる。物心ついたときから父の存在を認識しなかった美咲にとって、その単語は自分の父のことを指す言葉ではなく、遠くの誰かを意味する一般名詞でしかなかった。 「そう」敏子はそう答えたっきり、黙り込んだ。 「何が、あったの? 三十年前に」 「もう、だいたい知っとるんじゃろ?」 「ちゃんと、教えてほしい」  敏子は急須に茶葉を入れ、ポットのお湯を注いだ。そして、湯飲みを手に取ると、ゆっくりとしゃべり始めた。 ※※※  三十年前、美咲が保育園の通い出した年。  第二新光集落は開発後まだ間もなく、売り出しが開始しても買い手が付いていない土地もいくつかあり、集落としては若く完成途上の状態だった。  敏子は恵子とは学生時代からの知り合いで、恵子が先に結婚してからは少し疎遠になったものの、敏子が結婚して専業主婦になってからは、再びよく会うようになった。最初は両家族とも市役所から三キロほど離れた借家に住んでいたが、新しく売りに出された第二新光集落に一緒に土地を買って近所に住もう、そう持ち掛けたのは敏子のほうだった。  その年の三月末、くじ引きで、翌年度の自治会役員の書記に敏子が選ばれた。そして、四班班長には恵子の家が選ばれた。  当時は、男が働きに出て女が家を守る核家族の家庭が多く、必然的に自治会の役員を引き受けて実際にその役目を果たすのは、専業主婦の女性ばかりになっていた。そして、役員班長会議は、子供が学校や保育園に行っているあいだの平日昼過ぎや夕方に開催されることが多かった。  役員も班長も、三十代から四十代の主婦の女が務めるなか、唯一の例外が恵子の配偶者の金田幸助だった。幸助は繁華街の夜の店の店員として、夕方からの勤務だったため、恵子ではなく幸助が班長の役を引き受けていた。  幸助は当時の言葉でいう、いわゆる伊達男で、金田恵子と結婚後もあちこちで女遊びを繰り返していた。  そんな幸助が、女ばかりがいる自治会の役員班長会議に出て、悪さをしないわけがなかった。  最初に毒牙に掛かったのは、副会長の窪園光江だった。四月から新年度の自治会が始まったが、五月にはすでに幸助と光江は関係を開始していたらしい。自治会の役員班長のなかでも、二人を疑っているものは少なくなかった。  間もなく、ふたりの不倫が一部に露呈することとなり、関係は解消された。光江の配偶者と金田幸助が、どのように話を付けたのかはわからない。光江の配偶者が不問に付したか、そもそも気付いていなかったのかもしれない。  幸助が次のターゲットとしたのが、自治会書記の敏子だった。  六月中旬、蒸し暑い雨の日の昼間、美咲を保育園に送り出して数時間したころに、敏子の家にいきなり傘を差した幸助が現れた。「回覧板のことで、ちょっと聞きたいことがある」ということだった。敏子は真新しい家のリビングに幸助を招き入れた。  そして、氷の入った麦茶を出した。  当時の回覧板は、書記である敏子の手書きの文書を、公民館のコピー機でコピーを取ってバインダーに挟むという形になっていた。  やってきた幸助は、その月の定期回覧板を持ってやってきて、市内の商店街組合が主催する花火大会への募金募集の方法について、敏子に質問した。  話が終わり、軽く雑談していると、幸助が急に敏子に襲い掛かってきた。その瞬間、敏子は幸助が最初から性的な目的でこの家を訪問してきたことを悟ったが、すでに遅かった。敏子は幸助に首を絞められ、性行為を強制された。  その日、夕方に保育園のバスに乗って美咲が帰ってくるまで、敏子は放心状態で過ごした。金田幸助が去る際に、「誰にも言うんじゃねえぞ」みたいなことを言った記憶だけはあった。  敏子は、幸助に犯されたことを、誰にも告げられなかった。幸助の配偶者で、旧知の間柄である恵子には、美咲より五歳年上と四歳年上のふたりの子供がいる。被害を受けたことを告発すれば、幸助の家庭は一気に崩壊するだろう。警察沙汰にもなる。  そうなれば、もちろん近所の知るところになるだろう。  配偶者である古瀬光俊にも相談できなかった。もしこれが原因となって、光俊との関係がギクシャクし始めたら、どうすればよいのか。建てて間もない家のローンは、まだ三十年以上残っている。  敏子は自分の受けた被害を、悪い夢を見たものと思って、やり過ごすことにした。  しかし、幸助は敏子が黙過したことを別の意味に捉えたのか、その日以降、美咲が保育園に行っている昼間に、不定期的に敏子の家を訪れるようになり、強引に性行為を求めるようになった。  そういうことが、三度、四度と重っていくうちに、不思議なもので、なぜか敏子は幸助に好意を持つようになった。配偶者である誠実で穏和な古瀬光俊にはない魅力を、幸助に感じた。  そして、美咲の夏休みが終わって、九月になるころには、敏子から幸助を誘うほどに積極的になっていた。週に二度くらいの頻度で、人目の少ないところで落ち合い、郊外にあるラブホテルに行く。そんなふうに密会を繰り返した。  当然のことながら、間もなく二人が不倫しているということは露見することになる。複数人の共通の知人に知られ、そのうちの誰かが恵子に密告したようだった。もちろん、光俊にも通知された。  十月初旬の平日のある日、金田幸助宅に於いて、金田幸助・恵子と古瀬光俊・敏子が顔を合わせて、この問題をどう決着するかという話し合いが為されることになった。不倫されたのは光俊と恵子であり、不倫したのは幸助と敏子。その日、光俊は会社を休んだ。敏子は死刑執行されるような気分で、幸助宅へ向かった。  話し合いは最初は、怒りと失望と後悔に包まれながらも、表面的には穏やかな雰囲気で進められた。  しかし、幸助と敏子が関係を持つに至って経緯を光俊が知ると、光俊は激昂し、声を荒げて幸助を批難した。やがて両者立ち上がって、取っ組み合いになる。  幸助が、襟元をつかんでいる光俊を離そうとし、後頭部から首を腕で抱えるような姿勢となった。  恵子と敏子がふたりを引き離そうと、間に入っているうちに、誰かの足が幸助の足に絡まって、幸助はその姿勢のまま畳の上に倒れた。  畳に身体を叩きつけられた光俊が、何かうめき声を発した。幸助が首に掛けていた腕を離すと、光俊は身体を細かく痙攣させて、目を見開いたまま動かなくなった。  光俊の頭部はあらぬ方向を向いており、頚椎が折れているのは明かだった。そして、すでに絶命していることも。  それからどれくらい時間が経ったのはわからない、一瞬だったような気もするし、永遠のように長かったようにも思う。ひとしきり悲鳴を上げ、ようやく少しだけ思考の戻った敏子は、死体となった光俊を前にただ呆然としている幸助と、ただ震えているだけの恵子の姿を見た。  このままでは、生きていけなくなる。  敏子は、まずそう思った。光俊を殺したのは、幸助ということになるのだろう。しかし、どのような事情であれ、不倫したあげくに旦那を死なせてしまったとなれば、犯罪者となることは免れても、世間から後ろ指をさされることは避けられない。そんな状態で、女ひとりが幼い子供を抱えて生きていける希望はない。  恵子が固定電話の受話器を上げて、どこかに電話しようとしている恵子の手を押さえた。  光俊の死を隠蔽しよう。誰が言い出したのかはわからない。  不倫して旦那を死なせた不義の女という扱いを受ける敏子、殺人もしくは傷害致死の犯人になる幸助、そして犯罪者になった旦那と離れて子供二人を一人で育てていかなければならない恵子。  光俊の死を隠蔽しさえすれば、三人全員、そんな不幸な境遇から脱することが可能になる。  悪魔の所行を為すことを、三人は合意した。  日付が変わって子供が寝静まった夜中、三人は大型のスコップを持って金田幸助宅の庭に大きな穴を掘った。  まだ第二新光集落の土地は分譲受付の最中だったので、幸助宅は隣も向かいもはす向かいも更地のままだった。  誰にも気づかれることなく、朝を待つまでもなく作業を終えた。  警察に捜索願いを出さなければならない。光俊が行方不明になったことは、いずれ近所に知れ渡ることになる。探す努力を何もしないわけにはいかない。  緊張しながら警察署に行くと、少し待たされた後に個室に通された。現れた警察官に、十月のある日に配偶者が突然失踪したと告げた。  警察は、敏子が拍子抜けするほど、古瀬光俊の失踪には関心を示さなかった。「家庭内で少しトラブルがあった」と告げ、事実のうちの一部を述べると、事件性はなく単なる家出でしかないと判断したようだった。金田恵子と金田幸助に簡単な事実関係の聴取をした以外は、ほとんど何もしなかった。連絡もなかった。  七年。最低でも七年は隠し通さなければならない。七年経てば、裁判所により失踪宣告が出される。そうなれば、団体信用生命保険に入っている家のローンの残債は、全額免除となる。  敏子は保育園に、美咲の延長保育を申請し、再び生保レディとして働くことにした。  ローンの返済しながらの生活は決して楽ではなかったが、光俊の両親、つまり敏子の義両親の支援も受けながら、なんとか続けた。義両親はむしろ、美咲という子供がいながら失踪した息子の行動を批難し、敏子に同情的だった。 「うちのバカ息子が、勝手におらんようになって、すみません。ご迷惑をおかけします」  光俊の母は何度も敏子にそう言って頭を下げた。敏子は自らの死にも等しいような苦しみを感じた。  死体を庭に埋めて以降、金田幸助はすっかり人が変わってしまった。  快活で、結婚後も女遊びを控えなかった幸助だったが、人を殺して、しかもその死体が庭に埋まっているという事実が重く圧し掛かったのだろう。仕事にはきちんと行っているのだが、急激に痩せ細っていき、喋ることも少なくなっていた。  夜中にうなされて目を覚ましたり、いきなり奇声を発して何かに怯えるようにもなった。「すみません、すみません」と繰り返しながら、いきなりスコップで庭を掘り返し始めたこともあった。恵子はそれを必死で止めた。やがて幻覚を見るようになり、「オバケが出た。殺される」頻繁にそんなことを口にするようになった。  そしてその年の十一月の初旬、金田幸助は自宅で首を吊って自殺した。  遺書には、恵子と二人の子供に宛てに、ひたすら詫びる文章が書かれてあった。  金田幸助の自殺を受けて、緊急の役員班長会議が開かれた。敏子は外回りの営業から抜け出して、会議に参加した。 「皆さまご存知のとおり、金田幸助さんがお亡くなりになりました。まだお子さんも小さく、未亡人となった金田恵子さんの苦しみを思うと、胸が張り裂けそうになります。ここはひとつ、金田恵子さんに対するささやかな支援として、自治会で募金を集めようと思いますが、いかがでしょうか」  当時の自治会長がそういうと、役員班長が一同に「異議なし」と言った。  その日、敏子は家に帰ってから、回覧板の文書を作成した。 「金田幸助さんの奥様である恵子さまに、お悔やみ申し上げます」  光俊の死だけではなく、幸助の死にも、自分に責任がある。そんな自分がこのような文書を書くなど、なんと罰当たりで恥知らずなことだろうか。  敏子は震える手を押さえて、募金を集める内容の文書を何とか書き上げた。  恵子は当然、母子家庭となったからと言って引っ越すことなどできない。庭には死体が埋まっているのだ。仮に引っ越したとしても、幸助から相続した家と建物を、誰かに売却したり借家に出したりはできない。  しかし、高卒後に三年だけ商店街の花屋に勤務して、間もなく幸助と結婚した恵子には、二人の子供を養っていくぶんを稼ぐ技術や資格などはない。そんな女が職を求めても、時給六百円にも満たない仕事しか得られない。  恵子はなんとかして、稼ぐ先を作らなければならなかった。そこで思いついたのが、料理屋で板前の修業をしながら、自分の店舗開業を図っていた縁戚の金田一基に店を持たせて、自分もそこで働くというものだった。恵子は一基に、まだ販売先の決まっていない第二新光集落の土地に店舗兼住宅を建てないかと持ち掛けた。  一基は最初は、立地が市の中心地から離れているということで渋っていたが、第一・第二新光集落には酒を飲むところはもちろん、飲食店もまったくなかったため、むしろ返って良いのではないかという恵子の説得を受け入れた。  恵子は一基の店の開業資金として、手元に残っていた幸助の生命保険金を充てて、足らないぶんは一基が国民生活金融公庫からの融資を受け、店を開くことが叶った。もちろん恵子も連帯保証人になった。  開店した居酒屋は近隣住民から評判で、大繁盛とは言えないが、想定していたよりもたくさんの客が入った。こうして恵子は、糧を得ることに成功した。  以降、敏子は恵子と連絡は一切取らなかった。  知り合いでも何でもない、ただ同じ集落に住んでいる人というそぶりを続けた。  敏子は恵子と違って、この集落に住み続けなければならない桎梏(しっこく)はなかったのだが、母子ふたりで住むには広すぎる一戸建てを離れることはできなかった。  近くに住み続けるということで、敏子と恵子は、互いに監視し合っていたのかもしれない。 ※※※  リビングは静まり返り、空気が対流するかすかな音でも聞こえてきそうなほどだった。  そこまで話し終わると、敏子は長い息を吐いた。話し始めるときと比べて、一気に老けたような表情になった。  だいたいのことは警察署で川本から聞いていたが、実際に敏子から聞かされると、腐臭を感じるほどの現実感があった。 「ゆうちゃんとこの……、窪園さんのお母さんとは、何があったの?」美咲は問う。  敏子はしばらく沈黙していたが、やがてゆっくりと口を開いた。 「幸助さんが自殺した後、私らを強請ってきたんじゃ」  強請ってきた……、いったいどういうことだろうか。 「私らって、誰のことなの?」 「もともと幸助さんと関係があった窪園光江さんは、光俊さんが失踪して、その後に幸助さんが自殺したことは、私らが何かを関わっとるじゃろうと、鎌をかけてきた。『警察に通報されたくなかったら、お金を出せ』と言うてきた。……実際にはどこまで知っとったんかは、わからん。でも、何かは勘付いとった」 「それで、ゆうちゃんのお母さんに、口止め料としてお金出したの?」 「二百万円。恵子ちゃんが、下りたばかりの幸助さんの生命保険金の中から出して、後から私が半分返した」  ようやく、美咲は雄一郎の母親が美咲を遠ざけようとした理由を発見した。窪園光江にしてみれば、むかし強請った相手の娘が自分の息子と仲良くするというのは、胸中に複雑なものがあったことだろう。まして二人が恋人どうしとなり、もし結婚するとでも言い出せば、強請りの被害者と加害者が義理の家族になってしまう。  そして今年、東京から帰ってきた美咲が再び雄一郎と接触したということを知ると、ちょうどよいタイミングで発生した殺人事件を利用し、美咲が真犯人であるという噂を積極的に広めて、この集落の中に居られなくしようと企んでいたに違いない。 「……お父さんの保険金はいくらだったの? 失踪宣告が出たあと、保険金下りたんでしょ?」  美咲がそう尋ねると、敏子は驚いた表情をして顔を上げた。 「五千万円。私が独身のころ生保で働いとるときに、掛け捨ての定期保険に義理で入ってもろうて、それをずっと続けとった」  七年、古瀬光俊の死を隠し続けることに成功すれば、住宅ローンの残債が団体信用生命保険でゼロになり、負債のない土地建物が手に入る。そして五千万円の保険金。母子で生きていく大変さを補って余り有る利得だろう。  すべて計画した上での出来事だったのだ。  突然、薄暗い部屋のなか、炊飯器が飯が炊けたことを示す効果音を発した。  敏子は立ち上がって、台所に行く。そして、炊けたばかりの白飯が盛られた仏器を持ち、隣の和室に入った。  それを仏壇に供えて、古瀬光俊の位牌に向かって、いつものように合掌した。  見慣れたそのしぐさに、美咲はとてつもない嫌悪感を覚えた。 「何それ。何の真似よ。自分で死体を埋めたくせに、旦那を失ってかわいそうな自分を演じてたの?」自分でも驚きそうになるほど、冷淡な声が出た。 「……怖かったんじゃ」 「怖かったって、何が?」 「あの人が、ゾンビみたいになって、土のなかから蘇ったりせんかと。何度も何度も、そういう夢を見て、うなされた。土のなかから這い上がってきて、私や恵子ちゃんに復讐に来る夢。じゃけん、せめて化けて出てこんようにと思うとった」  日々の弔いさえも、犯した罪を悔いるものではなく、自分の身を守りたいという利己的なものだったのだ。  この女は、どこまで自分勝手なのだろう。  身体が勝手に動く。  美咲は供えられたばかりの飯の入った仏器を手に取り、それを敏子に向かって投げつけた。陶器製の仏器は敏子の顔面にあたり、湯気の立つ飯が畳の上に散らばった。  敏子の眉毛の端が切れて、血が流れている。  敏子は顔を抑えて、叫んだ。 「東京でキャリアウーマンやっとるあんたには、わかりゃせん。私らの世代の女は、男にしがみつかんと生きていけんかったんじゃ。たとえ死体でも、しがみつき続けにゃ、子供ひとり抱えた女は、悲惨な生活しかできん」  そういう敏子の顔を、美咲はさらに平手で打った。敏子の身体が弾け飛んだように畳に倒れる。 「あんたは私を悪人だと思うか? そう思いたいなら、思うたらええ。でも、あんたに不自由のない生活をさせて、東京の私立大学に行かせられたんも、光俊さんの保険金があったからじゃ。あんただって、私の悪事の恩恵を間違いなく享受しとる。私は、人としては間違ったことをしたかもしれんけんど、子を持つ女としては、間違ったことはしとりゃせん」  敏子は畳の上に伏せて、号泣し始めた。美咲は母の泣いている姿を、初めて見た。  和室を出て、二階の自室に入る。  美咲はタバコを咥えて火を点けた。  刑事の川本が言うには、たとえ事実がどのようなものであろうと、死体遺棄も殺人も、時効が撤廃される平成二十二年より前に公訴時効が成立しているため、今後捜査は一切しない、正確には捜査できないということだった。敏子の事情聴取の予定もないという。  もはや母は、罪を償うこともできない。  美咲は煙を大きな息で吐いた。  警察署で初めて対面した父は、土にまみれた髑髏の姿になっていた。  敏子の言うとおり、美咲は母の悪事の恩恵を受けている。最大の受益者と言っていい。  かつて、女が抑圧された昭和、そして平成という時代があった。  その抑圧のなかで、なりふり構わず幸せをつかみ取ろうと、母は必死に足掻いたのだろう。  私は、母に感謝し礼を言うべきなのだろうか。殴ったことを詫びるべきなのだろうか。美咲はしばらく考えたが、答えは出なかった。  いつの間にか、タバコのフィルターが涙でぐちゃぐちゃになっていた。
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