穂川准教授は今日も最低

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 翌日、さっそく香織は穂川准教授の教官室をおとずれた。 「穂川先生、お忙しいところ申し訳ありませんが、次回のゼミ課題について、ご指導をいただきたいのですが」  穂川准教授は、陽当たりの良いデスクで分厚い本をめくりながら、腐っても大学の教官らしく、モバイルノートPCを操作しつつ、何やらメモらしきものを書いていた。  穂川准教授が、香織の声に反応して顔をあげた。  くやしいことだが、その整った目鼻立ちと、流れるような頬骨の線と尖った顎、そして知性を三割増しにするのではないかと言われる銀縁メガネが香織の視界に飛び込んでくると、どうしようもなく胸が高鳴ってしまう。  いい。文句なしに好みだ。顔だけは。顔だけならば。  あ、ついでにスタイルと香織のフェチポイントである大きく骨ばった手も、イイとしか表現しようがない。  文学部のくせに語彙が足りなくたって構わない。  こうして見ているだけなら、彼はどんな希少生物よりも価値が高い、と断言できる。  だが、穂川准教授は、決して期待を裏切らない。  香織を見るなり、こう返事をした。 「うん、良い心がけだね。知的レベルに難のある人間が、知性においてはるか高みにある人間に、(こうべ)を垂れて教えを請う。  自分が人類全体の知力の足を引っ張っていることを自覚しているあたり、さすがは僕の教え子だ」  香織は思った。  ああ、コイツをこのままホルマリン漬けにして、見た目だけを保存して、一言もしゃべらせないまま標本にしてやりてえ。    しかしである。  こんな最低発言にはもはや慣れっこになってしまっている香織は、苦も無く営業スマイルを全開にさせることができた。 「ありがとうございます。これも穂川先生の教えのおかげですわ」 「はっはっは。よせよせ。いくら本当のことを言っても、何も出ないぞ」  うわ、さらなる最低リアクション。  しかし香織には、そんなものは事前に織り込み済みだ。  性格の悪さには性格の悪さで。  それを合言葉に、香織はこう言って切り返した。 「いいえ、それは違います、穂川先生。すでに先生からは、ノーベル賞級の知性のきらめきが、ダダ漏れになってございますわ」    香織の言葉を聞いて、穂川准教授はきょとん、とした。  いつもの香織なら、ここらで営業スマイルを続けることに挫折して、苦笑いを浮かべるだけになるのが常だ。  それが今回は、真顔で穂川准教授を褒めにかかったのだ。  その変貌の様子に、准教授は明らかに戸惑っている。  香織は思った。 『よし、いけるぞいける! このまま穂川を調子に乗らせて、こいつの性格の悪さの神髄まで迫ってやる!』  香織にペースを握られたからか、穂川准教授は珍しくそれ以上何も言わず、香織に椅子をすすめて、自分は部屋の隅にある小さなキッチンでお湯を沸かし始めた。 「あの……何をなさっているんですか?」    指導を受けに来た教え子のために、お茶をいれようとしてる。  なんてはずはない。  性格が悪い上にケチな穂川准教授は、こういう場合に氷もいれない水を出すのが通例だからだ。  けれど今日の穂川准教授は、香織にその広い背中を見せながら言った。 「紅茶をいれようとしてるんだよ。それともコーヒーの方がいいか?」    香織は驚くより先に、その真意を疑った。  なぜなら穂川准教授がそう言いながら手にしたのは、さる有名ブランドの紅茶葉で、彼自身がいつも独り占めにしているものだったからだ。 『まさか私……毒を盛られようとしているの? たったあれだけの嫌味で?!』  危険を感じた香織は、頭をフル回転させた。  もしかすると穂川は文学を秘かに書いていて、ガチでノーベル賞を狙っていたりしているから、その地雷を踏みぬいた私に、復讐をしようとしているのか?  しかし香織が彼の真意を見抜けぬまま、やがて湯が沸いた。  穂川准教授は、もう一度香織にたずねた。 「紅茶? それともコーヒー? コーヒーはあいにく無いから、今からでも売店で買ってくるけど?」 「あ、いえそんな。紅茶でいいで……、いや、紅茶がいいです」  穂川准教授は、ていねいに時間をかけて紅茶を淹れると、わざわざタンスの奥の方にしまっていたアンティークらしい、品のいいティーカップを湯で温めてから、少なくとも香りと見た目は美味しそうな紅茶を運んできた。 「口にあうかわからないが、温かいうちにどうぞ」  いつもの穂川らしくない、優しい言葉に香織は逆にますます疑いを濃くした。 『絶対何か良くないものが入ってる……。毒、イケナイお薬、それとも……』  すると穂川は、少し困ったような顔をして言った。 「なんだ、やっぱりコーヒーが良かったのか。じゃあ売店で買ってくるよ。  ただ、足立くん。変に気を遣わなくていいんだぞ?   私は君たちを教えることで、生活の糧を得てるんだから。いわば君たちは僕のお客様だ」  穂川はそう言って本当に部屋を出て行こうとしたので、香織は慌てて言った。 「いえ、違います。美味しそうな紅茶だし、ティーカップもきれいだから、ついつい眺めてしまっただけです」  もう逃げ場はない、と観念した香織は、いつでも吐き出せる準備をして、穂川が淹れた紅茶を口にふくんだ。 「あら、ほんとに美味しい……」  つい、本音が出てしまった。  でも仕方がない。本当に穂川准教授が淹れた紅茶は、優しく温かく、舌をとろかしたかとおもうと、そのまま喉を通ってお腹の中にするりと入って行ったからだ。 「それはよかった」  穂川准教授は、彼の最大の武器である美麗な顔面力を全開にしてほほ笑んだ。  思わず香織の目が釘付けになる。  だがしかし香織は、心の中で首を横に振った。 『いやいや、騙されるな私。  紅茶なんて、高い茶葉を使って正式な淹れ方をしたら、誰だって美味しく入れることはできるわ。  そしてこれを出して来たってことは、これから本格的に穂川の逆襲がはじまるってことなのよ』  警戒心を高めた香織は、またペースを握り返さなければと先手を打った。
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