穂川准教授は今日も最低

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「あの、ご相談というのは、例の次のゼミでの課題についてです。  私いま、特に好きな人って思い当たらなくて、誰を相手に書いたらいいのか悩んでいて……。  それで、だったらいっそ、近しい人をモデルにして、その人が好きかどうかを書いて試してみたらどうか、と思いまして」  穂川は、ほう、それは誰だい? とたずねてきた。  一方香織は、やった、コイツかかりやがった、と内心ほくそ笑みながら、昨日の夜必死で練習した、ハニートラップもどきの、精いっぱいの色っぽい声でこう答えた。 「それは……穂川先生なんです。でも私、先生とはゼミや授業でしかお会いしたことがありませんし、よく考えれば先生のこと、全然知らないって、気づいたんです。  だから先生、お願いですから、私に密着取材をさせてもらえませんか?」  香織はそこで言葉を切って、わざともじもじとした演技を加えてから、上目遣いに穂川准教授を見つめて言った。 「それとあの……こんなにも穂川先生をもっと知りたいって、もしかしてこれが恋の始まりなんじゃないかなあ、とか思っちゃって……」  さあどうだ。  言ったぞ。  言ってやったぞ。  ぜええんぶ、嘘だけど。  さあ、穂川言えよ。 『やれやれ、僕の知性と美貌に参ってしまう女生徒が、また現れたってことかい?』  だの。 『なんだ、君のような何の取り柄もない女子が、私のような至高の存在に恋するなんて、太陽が東から上って西に沈むくらいに、当たり前のことじゃないか』  だとか。  いや、もっとヒドイことだって言いかねないぞ。 『おいおい、キミは鏡を見たことがないって言うのかい? もしくは、目だけじゃなくて頭もどうかしているのかい? キミごときが私に恋する資格があると思うなんて』  だとか。  まあ、そんなこと言われたら、いくら穂川相手でも、香織自身に相当なダメージが与えられてしまうことは確かなのだが、しかし香織には勝算があった。  課題を出したとき、穂川は確かにこう言ったからだ。  ”とまあ、そういうことを君たちが実際に経験してしまう前(・・・・・・・・・・・)に、こうして課題としてシミュレーションさせてあげようというのは、ひとえに私の教官としての優れた指導力のたまものであってうんぬんかんぬん”  あまりにいけ好かない言葉が羅列されていたから、皆も、香織もすぐには気づけなかったのだが、穂川は恋愛のことを、『君たちが実際に体験してしまう前に』と言ったのだ。  いや、言ってしまっているのだ。  冷静に考えてみれば、爆笑ものの発言だ。  だって、もう二十歳を過ぎようかという大学生に向かって、恋愛を経験したことが無いなんて前提、おかしくないだろうか?  もちろん、誰かと付きあったことがない人くらい、今どきいっぱいいるだろう。  けれどだからといって、ゼミ生の全員が全員、恋愛を経験したことがないと決めてかかるなんて、変じゃないか。ズレ過ぎてるじゃないか。  けれど奴がそう言ったのは確かなのだから、その理由はひとつしかない。  穂川自身が、恋愛したり誰かと付きあったりしたことがないからだ。  穂川本人が、現実の恋ともっとも縁遠い人間だからだ。  そしてこの推測は、百パーといっていいくらい、確実なはずである。  だってこの性格なんだもの。  私のように見た目に惑わされる人間はいても、すぐに歪んだ性格に気づいて、穂川から撤退するに違いない。  けれど、穂川は見栄っぱりでもある。  決して自ら、そんなことを告白したりはしないだろう。  つまりイコール、密着取材中、穂川は恋愛弱者であるにもかかわらず、恋のベテラン、恋愛マスターである自分を演じなければいけないということだ。  それを香織自身が、つぶさに観察する。  こんな面白そうなことってある?  いやあ、ないない。  香織は心の中で、思わず高笑いした。  あーはっはっはっは!  楽しいっ!  性格悪いことするのって、なんて楽しいのかしら!  ま、普通ならさ、罪の意識にさいなまれるところよ?  だけれどもね、相手はあの穂川なのよ?  すなわち、どこからどう見ても、こちらが正義。相手が悪。  これぞまさしく天誅。  いやあ、痛快だわーーー!  しかし香織はすぐに現実に引き戻された。  それも、当の穂川准教授の答えによって。  答えとはもちろん、さきほどの香織の発言、 『もしかしてこれが恋の始まりなんじゃないかなあ、とか思っちゃって……』  に対する答えである。  穂川准教授は、香織のあらゆる想定と異なる答えを言ってきたのだ。
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