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彼は穏やかな笑みを見せて言った。
「いいんだよ、そんな無理に嘘をついて、僕の機嫌をとろうとするなんて。
さっきも言っただろう? 僕は君たちに教えられることをすべて教えるために、この大学で働いているんだ。
だから遠慮なく、本当の相談をしていいんだよ?」
は?
香織は焦った。
なんだこの優し気な表情は。
そしてすべてを受け入れてくれそうな、懐の深い言葉は。
「あ、あの、私別にそんな、他に悩み事なんて……。どうしてそんなものがあると思うんですか?」
すると穂川准教授は、苦笑しながら言った。
「そりゃあ、何かあることくらいわかるよ。足立くん、いつもと全然様子が違うじゃないか」
「え? え? え? わかります? てか、いつもの私って、先生にはどう映ってたんですか?」
「そりゃあ、僕の嫌味な態度に我慢に我慢を重ねつつも、爆発しそうになっていて、けれどもゼミの単位は卒業のための必須条件だ。
君は一度でも留年したら学校をやめなければならないと、生徒相談課で言っていたよね?」
「ご存じだったんですか、それ?」
穂川准教授は、今度は今までとは違う、ただ顔がイイだけの男では出せなさそうな、どこまでも優しい、慈愛に満ちた瞳で香織を見つめた。
「当然だよ。僕は君の指導教官だよ?
そこのところを十分配慮できるよう、生徒相談課の職員さんと、よく打ち合わせをしているんだ。
だから僕に隠しごとだとか、遠慮だとかをする必要はないってことだよ」
香織は困惑したが、しかしまだ穂川准教授が自分を罠にはめようとしているのでは、という疑念は晴れない。
ならばとこう尋ねてみた。
「でもさっき先生、先生の嫌味に私が我慢しているのを知ってたって言ったじゃないですか。それってやっぱりそんな私を見て、楽しんでたんじゃないですか?」
すると穂川准教授は困った顔をした。
「うーん、その理由は足立くんが卒業するときに明かそうと思ってたんだが……」
「そこまで言ってお預けはナシでしょう? 先生が私に隠し事するなっていうんなら、先生だって正直に言わないと」
「はは、それはそのとおりだね。よしわかった。話そう」
穂川准教授は、軽く咳ばらいをして語り始めた。
「ご実家の家計に余裕がない足立くんは、卒業してすぐに仕事について、お金を稼いで自立しないといけないだろう?
けれどね、社会というのは、想像以上に厳しいものだ。
僕はじつはカウンセラーの資格を持っていて、働く人たちのストレス問題をなんとか軽くしようと、休日などにボランティアでカウンセリングをしたりしているんだよ。
大学の中ももちろん、教官同士の人間関係や、出世争いは厳しい。
しかし企業でも役所でも、また、独立してフリーランサーになったとしても、その場所なりでの人間関係の苦しさがつきまとうものなんだ。
もちろん、それを無理に我慢する必要はない。
何よりも自分を大事にして、いざとなれば逃げることが必要だ。
けれども、だからこそ社会に出る前の学生時代に、さまざまなプレッシャーに対して耐えたり、身をかわしたり、仲間を作って息抜きや気分転換をしたり、一人でも趣味や好きなことにのめりこんだりして、粘り強い性格へと鍛えていくことが重要なんだ。
そしてね、そういう精神面の基礎体力を持っていれば、全面的に行き詰ってしまう前に逃げ出す力と判断力もつく、と僕は思ってるんだ」
「あの、まさか穂川先生は、わざと私たちに……」
穂川准教授はうなづいた。
「まあ、僕が演じている嫌味な人間なんて、まだゆるいものさ。本当に汚い人間は、突然豹変したり、躊躇なく暴力をふるったりするからねえ。
ただ、そんな人間は早々に察知して、絶対に関わらず、また、中くらいの嫌な人間くらいなら、『このくらいなら穂川ゼミで耐えた二年間に比べれば、なんてことない』って思えるようになればと、僕は願っているんだよ」
「先生……でも、それじゃあ先生はずっと悪役をやらないといけないじゃないですか。辛くないですか? そこまでやらなくてもって、思ったりしないんですか?」
しかし穂川准教授は、ゆっくりと首を横に振った。
「足立くんたちが社会に出たあと、世間の荒波に苦しんでいることを考えれば、こんなことくらいって思えるんだよ。
何しろさっきいったように、僕は君たちに教えられることをすべて教えるために、ここにいるんだからね」
香織の目から涙がこぼれた。
穂川教授の真意にふれて感動してしまったのと、それからさきほどまで彼を誤解して、本当に酷いことをしようとしていた自分への後悔にかられてのことだった。
しかし穂川教授は、ひとり泣く香りを優しく見守り続け、ハンカチを差し出して涙をふかせた。
「ごっ、ごっ、ごめんなさい、穂川先生……。
私、先生がそこまで私たちのことを考えてくれているなんて、ちっとも思わないで……」
「そんなに自分を責めなくていいよ。当然の反応なんだから。もうそんなことは忘れて、どんな些細なことでもいいから、僕に相談したいことがあるなら、言ってごらん?」
香織ももう大学三年生の後半に入っている。就職活動はもちろん、その後の仕事のことや生活の事、果たして社会に出て、自分がちゃんとやっていけるかどうかだとか、そんな不安はいくらでもある。
そして本当の意味での相談事を語り始めた香織に、穂川准教授は、時に黙って話だけを聞き、時に香織に自分で考えさせ、時には香織が考えもつかなかった考え方や解決法を与えてくれたのだった。
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