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プロローグ
鬱蒼とした森の中、そのゴブリンは恐怖に震えていた。
「ギギギ……」
口から漏れるのも、いつもの鳴き声とは違う。これは歯と歯がかち合って鳴っている音ではないか、と自分でも感じていた。
彼は元々、森で平和に暮らすゴブリンたちの一匹だ。小さなナイフを持ち歩いているのもゴブリンの性であり、暴力を好む個体ではなかった。食用として小動物を殺める時も、少し胸が痛むくらいだった。
そんなゴブリンが仲間と一緒に人間たちを襲ったのは、彼らの縄張りに入り込んだ者たちを追い返すためであり、決して必要以上に痛めつけるつもりはなかった。
しかし彼らが相手にしたのは、戦いには縁のない村人でなく、冒険者と呼ばれる荒くれ者たち。モンスターよりも脆弱な人間という種族でありながら、ゴブリン程度の低級モンスターならば軽く屠れる力を持つ者たちだった。
その結果、共に巣穴を出た仲間たちは、次々に殺されて……。
今や、彼が最後の一匹となっていた。
「見ろよ。こいつ、震えてやがるぜ」
「ゴブリンのくせに、一丁前になあ!」
五人の冒険者のうち二人が、ゴブリンに歩み寄る。茶色い皮服の武闘家は両手に黒い鉤爪を装着しており、白銀の鎧に包まれた戦士は大剣を構えていた。
「もう抵抗する力も残ってないようだね」
後ろで見ていた青鎧の戦士が冷静にコメントすると、パーティーの紅一点である魔法士が仲間を急かす。
「二人とも、何やってんの? さっさと止め刺しちゃって」
「ねえ、もうやめようよ。戦う気力なくした相手を殺すのは……」
残りの一人、黄色いローブを着た男性魔法士も口を開くが、最後まで言い切る前に、女性魔法士と青鎧の戦士に却下されてしまった。
「あら、もしかして『可哀想』とでも言うつもり?」
「相手はモンスターだからね。情けをかける必要はないよ」
二人に被さる勢いで、武闘家が宣言する。
「よし! いい機会だ、大技を試してみようぜ!」
「大技? 連携技のこと?」
「もしかして、アーク・ソード・インパルスってやつ?」
「おう、それだぜ!」
仲間の言葉に、誇らしげに反応する武闘家。
一方、青鎧の戦士は険しい表情になっていた。
「アーク・ソード・インパルス……。あれは今まで一度も成功してないだろう?」
「だからこそだぜ! このゴブリン相手に練習するのさ!」
「練習だったら、生きてるモンスター相手じゃなくても……」
「あら、それは違うわ」
男性魔法士を否定したのは、連携技を提案した武闘家ではなく、女性魔法士だった。
「技の発動には、それぞれの魔力や精神力も関わるのよ。無機物相手じゃ練習にならないの。実際に戦ってる最中の精神状態じゃないとね。だから……」
彼女は、鋭い眼光をゴブリンに向ける。
「……リーダーの言う通り、このゴブリン、練習台にはうってつけだわ」
ゴブリン族は最下級のモンスターだ。
種族によっては人語を理解するモンスターもいるけれど、ゴブリンにそこまでの知能は備わっていなかった。
だから彼も、五人の冒険者が何を話し合っているのか、その内容までは理解できない。ただ自分が殺されることだけ、その場の空気から感じ取っていた。
「ギギギ……」
ここまでの戦いで、既に愛用のナイフは失われていた。もはや逃げる体力も気力も尽きて、大木の幹に寄りかかるのみ。
観念するしかない彼の前で、冒険者たちが武器を振りかぶる。
「じゃあ、行くぞ! みんな、タイミングを合わせろよ? アーク……」
武闘家の合図は途中で遮られ、悲鳴に変わった。
「ぎゃあああああっ!」
目の前を吹き抜けた一陣の風。
それは冒険者たちの武器を吹き飛ばしていた。二人の戦士は剣を持っていただけなのでまだ良かったが、武闘家の鉤爪はしっかりと両手に装着されていたために、左右の手首から先が斬り落とされていた。
「ギギギ……?」
いったい何が起こったのか、ゴブリンは戸惑うが、一瞬の後に理解する。彼が『一陣の風』と思ったのは、突然その場に現れたモンスターだった。
ゴブリンのような低級モンスターとは明らかに違う。マントみたいな黒い翼を背中から生やして、全身には青い体毛。猛禽のような嘴と爪を持つ、鷹魔族と呼ばれる種族だった。
「人間とモンスター……。いくら敵対しているとはいえ、戦いには最低限のマナーがあるものだ。寄ってたかって一匹を始末しようとするのは、とても見過ごせぬ……」
「モンスターが喋った!」
「上級モンスターだわ! みんな、気をつけて!」
「『気をつけて』どころじゃない! 撤退だ!」
魔法士二人に続いて、青鎧の戦士が冷静な意見を口にするが、リーダーの武闘家はこれを却下する。
「ふざけるな! 相手はモンスターだぞ? モンスターは敵だ!」
両手を失い、いまだ血を滴らせながらも、武闘家はモンスターに向かって走り出していた。
「とうっ!」
大地を蹴って、飛び蹴りを放とうとしたが……。
「愚かな……」
小声で哀しげに呟いてから、鷹魔族が武器を構える。人間ならば槍騎兵が持つような、先端が円錐状の槍だった。
「無益な殺生は好まぬ。しかし向かってくる者を殺めても、私の心は痛まぬ!」
まさに有言実行。
鷹魔族の槍は、たった一突きで武闘家を絶命させていた。
「リーダー!」
「これならどうかしら? アルデント・イーニェ・フォルティシマム!」
男性魔法士が嘆きの声を上げる間に、女性魔法士は超炎魔法カリディガを詠唱。
放たれた巨大な火球は、避ける暇もないほどの素早さで、鷹魔族に襲いかかるが……。
「愚か者! ここはゴブリンの住処であると同時に、貴公ら人間の世界ではないか! その森を焼くつもりか!」
激昂しながら鷹魔族が槍を炎に向けると、まるで傘が開くかのように、先端の円錐部分がパッと広がる。槍は鉄壁の盾に変わり、強大な炎を防ぎ切るのだった。
「そんな……。私の最大魔法が通じないなんて……」
絶望の声と表情で、女性魔法士が崩れ落ちる。その腕を引っ張り、無理矢理に立ち上がらせたのは、青鎧の戦士だった。
「だから言っただろう? この場は撤退だ! 相手が悪すぎる!」
「僕、聞いたことがあるよ……」
二人の横では、黄色いローブの男性魔法士が顔面蒼白になっている。
「……傘のような槍、アンブレラ・ランス。それを手にして、勇者候補を狩って回る鷹型モンスター、グリフベック。魔王軍の大幹部って噂だけど……。僕たちの目の前にいるが、そのグリフベックなんだね……」
「そうだ! でも噂通りなら、グリフベックが狙うのは、勇者と呼ばれるような騎士や冒険者のみ。僕たちみたいな有象無象は、こちらから手を出さない限りは見逃してもらえる、という話だ。さあ、逃げよう!」
仲間たちを急き立てながら、青鎧の戦士は心の中で祈っていた。
既に二人が攻撃してしまったけれど、片方は返り討ちにされている。その一人の犠牲をもってこの場は手打ちにして、どうか残りの者たちは見逃して欲しい、と。
四人の冒険者が逃げ去るのを見届けてから、グリフベックはゴブリンに向き直る。
「もう大丈夫だ。脅威は去った。安心して巣穴へ帰るがよかろう」
「ギギギ……」
「そうか。肉体的にも精神的にも、とても一人では戻れぬか。ならば……」
自分が責任をもって送り届けよう。そう考えて、ゴブリンを抱き上げるグリフベック。
これでは、魔王城への帰還がさらに遅れてしまう。それでも弱いモンスターの手助けを優先させるのが、グリフベックというモンスターだった。
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