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青白かったりオレンジ色だったりする光がちらちらと瞼を刺激して目が覚める。
ベッドの前の大きな窓が東京の夜景を映している。そう言えばカーテンとか、全く頭になかった。そうっと絨毯に足を下ろす。隣の人は、滑らかな肩をさらして寝息をたてている。夜景が投げかけてくる光の中で、その肩口にキスを贈る。長いまつ毛が静かに降りている瞼はとても平和に見えるけれど、乱れた前髪はさっきまでの熱を伝えてくる。やっぱり信じられない。何でこの人がこうしてここにいるのだろう。
愛している、それはまがいもなく。溜息が漏れた。
くだらない言葉ばかり投げかけられて、呆れながらつき合ったイブからもう八ヶ月が経った。いつの間にこの人がこんなに大きな存在になっていたんだろう。一番相手になってはいけないタイプなのに。
そこまで考えて、首を振りながら忍び足で部屋を横切り、バスルームのドアをそっと開けてバスローブをひっかけた。サラリとしているのに上質なそれはさんざん酷使した身体をそっと包み込んでくれる。四年間、触れることも触れられることもなかった。もう感じることもないんだろうと思ってきた。確かに40代になれば感度も下がると言われている。それは厳然たる生理現象だ。なのに、何なんだろう。相手によるのだろうか?そっとベッドルームの方を覗き見る。まだ長い身体が身動きもせず横たわっている。静かにドアを閉めた。
由良希彦。
六年前、初めて出会った。ついこの間まで医学生で、その細い身体で灰色の顔色で自信なさげにオーダーを出して処置をしていた。大勢通り過ぎる研修医のうちの一人だと思っていた。綺麗な瞳に良い声を持った背の高い研修医。生真面目できちんとこちらの言う事を取り込んであっという間に伸びて行った。消化器内科なんてきっと思い出しもしないんだろうと、最後の日にその背中を見送った。
「あいつは有望ですよ。楽しみだ。」
大地の声が降ってきたのを覚えている。指導医のひいき目だとは思わなかった。そうだと良いな、頑張れ、二度と会わなくても応援してるよ、そう思った。
鏡を見る。ああ、なんだろう。どんな高価な化粧品を使っても出なかった艶が満ち満ちているじゃあないか。頬だって‟バラ色とはこういう色のことです”と言わんばかりに染まっているし。結局とどのつまりは営みとか?嘆きたくなる。ちょっと待って。営みって何?何で文章みたいになってんの。ああ、今頃照れてきた。あの醸し出す雰囲気につられてすっかり我を忘れてしまった。私としたことが。
そんなことをブツブツ思っていたら、ガラリと音がして飛び上がった。眩しそうに目を細めた顔が鏡に映る。もうそれだけでとろけそうになる。情けないことに。
「ここにいたんですか。」
半目のまま口角を上げている。その上半身を見れば、院内時間の多い肌にところどころ跡がついているのに気が付く。
「これはまた盛大に…ここなんてオペ着から丸見え。」
鏡に身体を近づけて確認している。確かにVネックのオペ着からは、鎖骨のその部分はのぞいてしまう。
「いや申し訳ない。つい。」
平謝りに謝ると、ハハと力なく笑われる。
「ほんとオヤジですか。まあ良いですけど。上島師長につけられたって言えば済むことですから。」
「ええっ?嘘、言わないで。」
途端に、ニヤリと悪い予感しかしない笑みが浮かんだ。
「秘密厳守と引き換えに、じゃあ今度は普通の、してみませんか?肉弾戦でも我慢大会でもないやつを。」
「…なんかそう言われるとロクでもないことしかしなかった気になる。」
「絵梨花さんとすると、何でも勝負になるんですよね。どうしてなんだ?」
「え、いや、それは…」
「絶対に俺に主導権を渡さない。あれって何なんですかね。」
「相互性と対等性?」
「何だそりゃ?」
お互い鏡を見て会話している、何だか照れくさくて。
「行きましょう、手下さい。」
そう言われて初めて鏡から目を離した。
差し出した手をしっかりと握られること。慈しむような目が注がれること。吐息を感じるような距離を許されていること。
「好き。大好き。」
手を引かれて素肌に顔が埋まった。少し濡れていて温かな胸は鼓動がしっかりと聞こえて来て安心する。
「今日、来てくれて有難う。諦めないでくれて有難う。」
背中をゆっくりとさすられて涙がにじむ。
「この半年、」
くぐもった声が聞こえる。
「頼んでいたんですよ、センター長に。あなたに会わせてくれって。」
「え?」
驚いて顔を上げると、優しい瞳がじっと私を見ていた。
「あなたへのチャンネルはもうあの人しか残っていませんでしたからね。」
「ええと…さつき、とか、上郡先生とか?」
「職域越権ですからね、それは。だから俺の領域では山咲さんしかいなかった。」
「あ、ああ、そうなんだね。」
職域越権。それは私が―
「パクリですみません。」
ニヤリと笑っている。
「そうしたら今日いきなり『俺もお前も日勤だし、おまけに明日はお前オフだろ?天の配剤だ』って、朝イチで言われて。だったら昨日から言って欲しかったですよ、こっちだって準備とか色々あるんだから。」
ぶっ。
「女子みたい。」
「恋すれば男も女も関係ないですって。」
そういうことを。これだから困る。
「で、場所と時間言われて。しかもあの人、『席は俺がとる、お前は気づかれないように座ってろ。それだけでいい。』って、仕切り屋丸出し。仕事中かっての。」
「良い男だよね、ほんと。」
ちょっと、と首筋を強く吸われる。
「え?」
まるでこう何か飼ってるような気になってくる。
「付きましたよ、でも自業自得ってことで見逃してください。あ、由良が付けたって言ってもらって俺は全く構いませんから。」
しゃあしゃあと言うから慌てて身をよじって鏡に映せば、確かに鎖骨の端の辺りに赤い跡が見えた。
「あ、ちょっと、これほんとにマズいって。」
「ギリ隠れるとこにしてありますよ。全く人にはつけといてよく言うわ。」
手慣れている。ギリ隠れるって、あんたはどれだけナースを相手にしてきたんだって。悔しくて睨み上げれば、
「その悔しそうな目、煽られます。」
とまた唇が寄せられそうになったので慌てて避けた。
それを気にも止めずに希彦は、
「でも言ってくれたそうじゃないですか。」
と突然言う?
「?」
「センター長が何年ぶりかで絵梨花さんに声をかけたのって、俺とのことを心配して、だったんですよね。」
「あ…」
「あの人、だってお前だろう?前の彼氏としては一番渡したくない相手だよ、とかよくもまあ。」
目をぐるりと回すその様を見て笑えた。
サンキュ、貴久。
「またその密やかな連帯みたいなの、勘弁して下さいよ。」
首を振りながらバスローブに袖を通している。寒くなってきたらしい。良かった、これでクラクラしなくて済む。
「そういう訳じゃないって。」
ふうん、と疑わしそうに顔を見下ろされる。
「まあ見逃しますよ。でも今回だけですからね。」
恩着せがましく言ってくる。のに、
「アリガトゴザイマース。」
わざと片言に言ってみると、マジかこの人と目を細められる。
「うん、で?」
先を促すと、そうだった、本題、俺としたことがとか、ぶつぶつ言っている。まあERドクターにしては確かにキレが足りない。
「俺が女性にだらしないって心配したセンター長に、」
―うわべは確かにそうだと思う。でもきっとあの人は真摯な人だよ。心の中はまっとう―
「ですよね?」
はっきり覚えている。そう言った時の貴久の呆気にとられた顔も。
「なのに俺、あなたに何度も‟一度に一人”とか言って。とっくにわかってもらえてたのに。」
「ナースですから。」
「違いますよ。絵梨花さんだから、ですよ。」
迂闊にも涙が出そうになって困った。
「俺のこと、どうやってこれほど理解してくれるようになったんですか?」
腕の中に囲われてしまった。
「し、師長だから?」
照れ屋なのもここまでくると国宝級、と聞こえてきたと思うと、強く抱きしめられた。
「好きですよ、絵梨花さん。」
静かな冬の匂いがして、あの日のクリスマスツリーが輝くのが見えた。
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