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そんなことを知ってか知らないでか、その夜私の携帯が鳴った。
「はい。」
「自分で何とか出来るとかって何ですか、それ?」
いきなりの声がそう言ってきた。意味が解らずそのままぼうっとして、
「ええっと、あのこちらは上島ですけど。」
と応えると、
「ボケてどうする。」
苛立ったような声が聞こえて、あ、これは由良かも、とようやく頭と耳がつながった。
「もしかして由良先生?」
「希彦とか呼べないですかね。」
溜息まじりで返される。
「え、あの時は私の名前だけ、でしたよね?」
と確認すれば、
「絵梨花って呼べば普通希彦ってなりませんか?」
とやっぱり苛立たれている。
「自分だってずっとさん付けなくせに。」
小声で呟いたはずが、じゃ良いんですね?と凄まれる。
「呼びますからね、これからは絵梨花って。覚悟しといてください。」
「ちょ、ちょっと待って。いやいい、さん付けで。」
「意気地なし。」
やっぱり何だか怒っている。
「あの…もしかして怒ってるとかあるの?」
「はい。」
取り付く島もない。って言うか、
「もしかして今日の昼休みのこと?何で知ってるの?」
「上郡先生が。」
クソ大地。私にかまう暇があったらさつきのことを何とかせんかい。
「別に何でもないし。看護部のことだから。」
「でも主題は俺、違いますか?」
「…だけど、もう大丈夫だから。」
「もしかして迷惑かけたんですか、俺のことで?」
何だろう、何でこんな心細い声を出させるようなことになってるんだろう。多分掌は濡れている。
「希彦、よく聞いて。」
「はい。」
「私は立場上色々言われる。これからもね、多分。でもそれがあなたのせいだなんて思わないから。」
「…」
「私は自分の面倒は自分で見られる。少なくともそれくらいの大人ではある。だから見くびらないで、私は大丈夫だから。それに何より、スタッフを大事にしたいの。それがたとえうちの病棟のスタッフでないとしてもね。ナースたちは宝なの。ずっと一緒に働いていきたいの、仲間だから。」
余りに長く電話の向こうが静かになってしまったので、もしもし、と何度か問いかけた。
「…何で俺もっと早くにあなたに会わなかったんだろう。」
気の抜けたような声が思いもよらぬ言葉を紡いだのが聞こえて、息を飲んだ。
「絵梨花、」
「うん。」
「多分俺、あなたが全てです。」
「は?」
「俺との結婚考えて下さい。」
「え?ちょっとま、」
そこで電話が切れてしまった。私は茫然と受話器を持ったまま固まっていた。
結婚って…何それ?一体何が起こったんだろう?私が言ったことの何が結婚などという人生最大の決意の呼び水になったんだろうか。もうじき44になる、自分たちの子どもも持てないないようなこんな年上オンナ相手に。子ども。そうだ子ども。
「無理。」
口をついて出た言葉が真実だった。どうしようもなく惹かれている、それは事実。でも子どもを持てない、もうタイムリミットというのも本当。まだ生理はあるけれど、でも…44になる。希彦はいい、まだ37だから。それにあのモテ男のことだ、いくらでも引く手数多だろうし。それこそ、玄米でなくて色鮮やかなマカロンがいくらでも門前市をなすはずだ。あの救急のナースだって、それこそ。
これから、だったものかもしれない。でもとっさに口をついた「無理」の一言は残酷な真実だった。自分の心を空洞にするほど。
それからの私は希彦を避け始めた。携帯の着信は即消去、会いそうな場所は極力回避、ロビーでの待ち伏せに備えて裏口から出る周到ぶりだった。誕生日の日はわざわざホテルに泊まった。バカみたいと思いながらも。ただ避けるためだけのホテル。こんなこと、想像だにしなかった。「14日には頂く」と宣言されたあの夜には。何も。
その翌日ホテルから直接出勤して大きな荷物を抱えてマンションに帰りつけば、
「結婚って言った途端にこれだけ徹底して避けられるって何なんですか?」
壁にもたれていた人が身を起こした。顔を見れば胸が締め付けられる。もともと大好きなんだから。
シャープな顎のライン、青黒いクマ、疲れたようなやるせない立ち姿。ERで心身共に日々消耗しているはずのこの人を余計なことで煩わせてしまった。その申し訳なさに身がすくむ。愛おしさに勝手に口が動いた。
「愛してる、希彦のこと。でも私たちは無理だよ。子どもが持てない。希彦のご両親に申し訳がたたないし、何よりあなたのことを傷つける。」
間髪を置かず、呆れたような声音が聞こえてきた。
「バカなんですか?」
「え?」
「俺にはあなたしかいない。そう言い続けてますよね?五年前に会った時からあなたは俺の道しるべだ。」
「…それ言ってて恥ずかしくならない?」
いつもだったらノッてくる私の茶化しなんてあっさり無視された。
「逆に何でそんなに自信がないんです?」
ERのドクターらしく単刀直入にぐっさり刺された。
「全部?」
「俺がどんなに言っても?」
「だって私はギリ二桁いかないし、希彦は20人だし。ダブルスコアだよ?」
これ見よがしの溜息を吐かれる。
「やっぱりバカなんですかね。そんなの、実のある付き合いしてこなかった。ただそれだけでしょうが。」
「だって私から見ても希彦は目立つもの。どこに行っても人の注目を集める。モテ方が半端ない。だからタイマンだって張られるし。いや、それは慣れてるから大丈夫なんだけど。」
「慣れてるって…どういうことですか?」
「ああうん、高校時代の例のバスケ部の彼、すごく人気あったの。キャプテンだったしね。そういうのあるでしょ、高校時代って。」
「ああ、ですかね。俺もキャプテンでしたけど。」
ああああ、そうでしょうとも。
「うん…だからあることないことで責められて。そのうち、またかって慣れっこになって。でも大丈夫、進学校だったからナイフで切られるとか、そういうことはなかったし。」
「良かったです。」
「うん。だからこの間のなんて、本当に何でもないんだよ。むしろ貴方が彼女たちに辛く当たる方が心配。」
「…当たりませんよ。」
そうだよね、由良はそう言う男だからいつまで経っても人気が収まらない。ああ一体私は何に誰に嫉妬してるんだろう?話しの筋だってグチャグチャだ。
「あのね、バカな女の繰り言だと思って流してくれる?」
ただ頷いている。良かった、電話じゃなくて、最後にこうして顔を見ることが出来て。
「もう一度言うね。希彦、愛してる。こんなこと言うなんて自分でも信じられないけど。でもだからここで終わりにしよう。子どもが出来ないことだけじゃない。モテ過ぎる貴方にいつも怯えて生きるなんて嫌なの。貴久の時、本当に何とか生き延びた。ようやくここまで来た。あの暗闇をもう一度繰り返すなんて、耐えられない。そうなったら私は滅ぶ。だから、弱い私はここで終わりにする。それをどうか許してください。」
最後に手を握った。少し湿っていて冷たい手だった。
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