1.1月25日、由良希彦37歳

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1.1月25日、由良希彦37歳

新年を迎えた清新さも、慌ただしい日常に飲み込まれかけた一月の第二週、ロビーに長身がそびえ立った。 「上島(うえしま)師長、」 薄暗いロビーで陰になった顔に首を傾げると、 「忘れるの、早くありませんか?」 心に響く声が降ってきた。忘れたから首を傾げたんじゃないのに。 「ああ。」 「何ですか、その気の無い返事は。」 苦笑されている。 「仕事は?」 「まだ記録がちょっと。」 「ならここで時間無駄にしないで戻らないと。」 それには答えずに顎に手をやって黙っている。 「なに、どうしたの?」 「上島さんって健忘症とかありますか?MRIとかやったことは?」 「はあ?」 「俺由良ですけど、あなたがキー」 慌てて白衣を引っ張って誰も通らない陰に押し込んだ。 「うわ、いきなり。いや、やれと言われればやりますけど?」 バカなことをニヤニヤしながら言っている。 「ヘンなこと口走らないで、公共の場で。お願いだから。」 「ヘンねえ。俺とキスしたことはヘンの類ですか?」 「あれ、もうだいぶ前のことでしょうが。っていうか、年越したし。」 「うわ、マジで上島さん鬼畜とか言われたことありません?さすがに俺ですらまだひと月も経過していない時期のことを、“だいぶ前”、とか言ったりしませんよ。」 この人、男だったらマジで刺されたりしてそうだなとか、失礼なことを言いたい放題だ。 「女性をつかまえて鬼畜呼ばわりとか、ほんとあり得ない。」 「さすがセンター長でなきゃ、上島さんの相手は務まりませんよね。」 サラッとそんなことを言ってくる。 「過去蒸し返して楽しい?もう四年近く前のことだし、全然口もきいてないわよ。挙句モテモテでしょ、あの人。」 「気になりますか?」 「いや、そっちが言ったからでしょうが。そっちこそ、気にしてんの、山咲(やまさき)先生のこと?」 「当たり前じゃないですか。」 「当たり前ねえ…っていうか、何か用?わざわざ残業覚悟で待っててくれたのって。」 「あ、俺今胸キュンです。」 「はあ?」 「初めて“くれた”って言ってくれましたよね。」 「乙女か。」 「惚れません?」 「惚れません。で、なに何なのよ?」 そう言うと、 「ほら俺今月の25日、誕生日なんですけど、欲しいものがあるんです。」 と得意そうに言う。子どもか? 「ああ、そう言えば。幾つになるんだっけ?」 やっぱMRI、いやCTだけでも撮った方がと言っている。 「37ですよ。それで2月14日には上島さんが44になるんでしたよね?」 俺ちゃんと覚えてるんで、と胸を張っている。 「失礼過ぎる。女の歳、ペラペラ言うもんじゃないって。」 「うわ、それこそジェンダーハラスメントですよ、上島さん。」 「は?」 「女の歳はダメで男の歳は良いとか。それじゃまるで、女性だけが年取るのはマズいみたいな話じゃないですか。」 「ああ、まあ確かに。そう言えばハラスメント得意分野だよね。」 「商社時代に叩き込まれたんで。」 「だからか。そこら辺の医者よりはるかにレベル高いのは。」 「顔も?」 「言うな、自分で。」 「ってことは、上島さん認めてるってことですよね?」 「何がどうしてそうなる。」 「キスしてみます?」 「だから何でそう見境がないの。よく白衣着ててそういうことチャラく言えるよね。」 「だからですよ。背徳的で燃えません?」 「ないって。ちょ、近い。」 距離を詰められると途端に顔が赤くなりそうで、慌てて両手を伸ばした。 「でももう全然ご無沙汰じゃないですか。クリスマス以来だし。」 「知らないって。」 何でこう軽薄なのか。 「いや知ってて下さいよ。俺一度に一人って言いましたよね?」 「ああ、またそれ?」 「基本ですよ。信頼を勝ち得る。」 だから胸を張るなって。 「軽くでいいですから。」 「軽くって何よ。」 こっちは必死で抵抗してるんだって。そうでもしなきゃ… 「あ、ちょっと。」 「頬っぺただけじゃないですか。外国だと思って。」 あっという間に頬をかすっておいて、もうニッコリと笑っている。 「ここ日本だってば。東京のど真ん中。もう勘弁してよ、ここ通るたびに思い出しちゃうじゃない。」 「ビンゴ、さすが上島さん。」 口角を上げてそんなに綺麗な笑顔で頷くな。 「確信犯とかって、もう勘弁して。」 「いやこれでも俺抑えてるんですって。だからウィンウィンですよ。」 「これのどこが私のウィンなのよ?」 「え?俺のキス。」 「ああああああああ。」 気が狂いそうになって思わず声を上げてしまった。 「しっ、騒ぎすぎですって。」 ああもう、本当にどうしてやろうか、この男。どうしてこいつといると、頭をかきむしりたくなるんだろう。ああ疲れた。 「…私、帰るわ。」 「あ、ちょっと待って。」 もうだいぶ虚ろになった目で見返すと、 「25日、絶対空けといて下さいね。それからプレゼントは絶対貰いたいものがあるんで、他には用意しないで下さい。」 「何なの、その上から催促。」 「いや、上島さんしかくれることが出来ないものなんで。」 「うそ、まさか『あなたを下さい』とか、勘弁してよ。」 「あちゃー、バレちゃいました?」 「バ…」 あまりのことに凝視すると、 「嘘ですよ、そんな安いことさすがにチャラい俺でも言いませんって。でも面白いですよね、上島さんのその防衛反応。」 クックッと笑われた。このクソ野郎。睨み上げるのすら力を使う。 「俺はその日、日勤なんです。でも土曜日だから上島さんはオフですよね?」 「ああ、うん多分そうだけど。」 「天も味方するタイミングじゃないですか。翌日は俺も上島さんもオフだし。」 上機嫌な顔にもう言い返す気力もなくなった。本気のガス欠だ。 「はいはい。でも私、連絡先知らないけど?」 「ああ、でしたよね。俺の携帯教えるんで、登録してください。」 言われた番号を登録すると、かけてみろと言われる。 「よし、これで上々。じゃあ俺行きますね。」 何だかさっきよりずっと力がみなぎった感のある背中を見送った。こっちはもうエネルギー枯渇も甚だしいと言うのに。 「ともかくお風呂だ、お風呂。もう死海の塩しかない。デトックスプリーズ。」 疲れて妙な言葉を口走っても一人だから大丈夫。大匙で掬って勢いよくお湯に落とす。頼むよ、心身の毒素を取り除いてちょーだい。 「ああー。」 湯舟に身体を浸したとたん、身体の奥底からの声が漏れ出る。湯気の中で陶然とする。ただ身体中の血液が巡るのに身を任せる。あたし、お風呂なかったら生きてけないかも。ここで全てを吐き出してリセットしなくちゃ、どうやって明日を生きられるのかわからない。お湯に浸した両手で顔を覆う。目元を少し押す。今日も一日良く働いた。誰も言ってくれなくても自分が知ってる。それが大切。自分の全力で働いた、恥じなく。 「あー。」 また深い息が出る。ともかく覚えることだらけで先輩の後ろから必死について行った新人時代、仕事が面白くてたまらなくなった3、4年目、後輩を育てるのもひと段落して病棟全体の方向性を考え始めた主任時代。同期がどんどん離職していく中で、負け惜しみでは決してなく、ただ看護師として働くことが好きだった。本当にナースたちが判を押したように言うことだけれど、患者さんやそのご家族の「有難う」は魔法の言葉だ。それだけで前に進める。自分の幸せと他人の幸せとか区別出来ない。ただそこに困難があって、それに専門的な介入で解決出来そうな希望がわずかでもあれば突っ込んでいく。無我夢中で。そう働き続けたら師長になっていた。 きっとアイツも多かれ少なかれ同じだろう。しかもいったんは商社に就職しているんだから。一旦違う仕事についてから医学部に入学し直すパターンも増えてきたとはいえ、まだまだ滅多にはいない。しかも心身の消耗の激しい救急を志望するなんて。確かに気骨や気概は見上げたものだし、それを実現させる心身の能力も大したものだ。 「でもな。」 そう。でもな、なんだ。何で私に構うんだろう。アレだったら幾らでも他にいるだろうし、易々と手に入れられるだろう。実際今までの噂からするとそうだ。当人も肯定していた。だからさっぱりわからない。 ―時期が来たんで ―五年待ったんです 「気の迷い、だよね。」 それしかないだろう。 確かに一年目の時、カツを入れたことはうっすらと覚えている。でもそんなの別にアイツにだけじゃない。毎年ほとんどの一年目研修医には大なり小なり気合を入れる。だから“鬼の上島”などと不名誉な語り継がれ方をするんだ。全く。でも一体それのどこが琴線に触れたのか。 「箸休め的な?」 そうだ、きっとそれ。肝試しって言うのも当たってるだろうけど(自分で言うのも何だけど)、あまりにも魅力的なフルコースの後、やっぱりお茶漬けサラサラしたくなるような。懐石で、玄米が出てくるとホッとするような。それだそれ、玄米。私のポジションは。だったらすぐに物足りなくなっていなくなるんだろうな。 やっぱり死んでも本気にはなれない。だってやっと何とかあの別れを生き延びたんだもの。毎日大げさでなくトイレで吐いてから出勤した。ほとんど自分の片割れのように感じていた貴久(たかひさ)が離れていったあの闇の時間。ずっと心から血が流れ出ていた。鏡だって見られなくなった。貴久に愛想をつかされた顔が映るのが怖くて。貴久がもういらないと判断した身体が憎かった。大好きなお風呂に入ってすら、出来るだけ身体を見ないようにした。透明になればいいと本気で思っていた。 「あんな思い、一生に一度だって十分すぎる。」 心の中に響く声と宿る眼差しをお湯で洗い流した。みんな、デトックスされてしまえ。
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