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6.大丈夫
春になった。
44歳になってひと月以上経つ。何のことはない、ただイブ前に戻っただけだ。時折救急センターの事は耳にする。センター長は相変わらずバリバリだし、不在の時は二世が場を収めているらしい。
―一緒に勉強しましょう―
結局真面目に勉強してるんだ、そんな風に思う。この間、久しぶりにその後ろ姿を見た。相変わらず背が高くて腕も足も長かった。元気そうで安心した。そう思ってから自分のおこがましさに身震いした。期間にしたら単に二ヶ月ちょい。たったそれだけなのに、なに自分がちょっと何か関わったように思ったりしてんの?ただすれ違っただけだ、それも気まぐれに。ただそれだけ。せいぜい何年か後に、えーと確か、と数えられるうちの一人、もしかしたら思い出してももらえないかもしれない。
「絵梨花、大丈夫?」
さつきが気に懸けてくれる。でも何が大丈夫で何が大丈夫でないか、それすらわからない。仕事はしている。寝て食べてお風呂に入って。ネイルのケアもするし、美容院やエステにも行く。オフの日はショッピングにも出るし、映画館にだって行く。看護部長に私の後を頼むわね、と言われれば、心から誇らしく思ったりする。そんなことはみんな出来ている、つつがなく。伊達に20年以上社会人をやってきたわけじゃない。
ただリッツには行けないし、乃木坂は回避する。聖トマスの名前を聞くだけで逃げ出すし。でもそれだけだ。たったそれだけ。根津の改札を通る時には、運命?と言うおちゃらけた声が聞こえてこないようにイヤフォンを突っ込む。香水も変えた。一度も使ったことのないフルーティーフローラルにした。そこまでとわずかに思ったけれど、サックスブルーのセーターとストール、それからタイトスカートは寄付に出した。CAFEにも寄り付かない。大丈夫、大丈夫だから。大好きな仕事がある。44にふさわしく生きよう、師長らしく生きるんだ。
食堂でゴルゴと一緒になった時、その前日の救急の修羅場状態(高速での玉突き事故)とその時の貴久と希彦のゴールデンコンビの活躍ぶりを聞かされ、確実に成長していると、ただそれだけ頷いた。心がカサカサしすぎて何も入ってこやしない。センターでどう働いているのか、フリータイムはどうしているのか、増やしたと言っていたトレーニングは続けているのか。何もかも、頭の片隅に浮かんでは消えていく。出かけたのなんて片手の指でも多すぎるほど。話したのだって全部思い出せるくらいわずか。それだけだったのに。希彦と私の間に残るものなんて。
「由良先生―、」
甘やかな声が響いて背の高い姿が振り返った時、もう最後に言葉を交わしてから半年以上経っているというのに胸が苦しくなった。夏の陽射しが窓越しに満ちる廊下を、気取られないように慌てて角を曲がったそこは、ずっと前に頬に口づけされた所だった。
「だから…」
院内に痕跡を残すなって言ったのに。涙が落ちる。うなじに至ってはもうどうして良いかわからない。貴久以上に残酷な男がいたなんて、それに引っかかるなんてバカなんじゃないの?自業自得だ。だから泣くなんてありえない。なのに涙が次から次へと廊下に落ちた。
「鬼の目にも涙…」
わざと茶化すために言ってみた。
「ここでそれ言いますかね、絵梨花さん。」
確かに聞こえた。振り向いた。
誰もいなかった。
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